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第六章 お友達になりましょう?  1.
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  口の中に舌を差し入れてくる。口の端から垂れる唾液が、自分のものなのか、彼のものなのか分からなくなる。彼はゆっくりと美緒の唇を咬む。首を咬む。亮介の硬い歯が自分の肌に触れるたび、お尻が痙攣するようにビクンと震える。

  ─── 「東京湾景」 吉田修一 著 より ───



 わたしはそこまで読むと、本を自分の胸の上に乗せ、じっと天井の灯りを見つめた。

 最近はずっとそう。本を読んでいても、濃厚なラブシーンが出てくると、顔が火照りどこか落ち着かなくなってしまう。読書に集中できない。これって、俗に言う恋煩いってやつなのかな? いや、ちょっと違うかも。

 それにしても。

 だ、唾液っ。口の端から唾液が垂れちゃうなんて、一体どんな激しいキスなんだ? 

 ぎゅっと瞼を閉じてみた。

 佐藤君のキスは本当に軽く触れてくるような、羽根で擦るような、あまりにも切ない感触だった。

 舌なんて。

 舌なんて入ってくる時間はまるでなかった。気配すらなかった。

 あれから何度もふたりきりになったけど、佐藤君は軽いキスさえしようとしない。

 わたしが一度拒絶してしまったからだ。きっとそう。あのとき。佐藤君は唇を避けて目尻に口づけてくれたけれど、やっぱ気にしてるんだろうなって思う。

 どうすればいいんだろう。ハードカバーの本を握っている指先に力が入る。

 自分のほうからしちゃえばいいじゃんって声がする。うひゃあ。悪魔の囁きだ。無理無理。あんたにゃできないよって声もする。なんだかちょっとできの悪い天使の声みたいに聞こえる。

 佐藤君はここのとこ仕事がとても忙しい。うちの学校は厳しいので、休みこそ取らないけれど、土日放課後は全滅だ。

 だから会うのはもっぱらお昼休み。天気のいい日の屋上だとか、雨の日は使っていない教室、たとえば、化学実験室だとか視聴覚室だとかに入り込んでふたりの時間を作ってる。

 ふたりでたくさん話をする。いっぱい喋って、でも、時折間が空いて、ちらっと佐藤君のほうに視線を送ると、困った顔で笑ってる。

 これはもう悪魔の囁きに屈するしかないのかな。

 気が付くと、そんなことばかり最近は考えてるんだよ。こんな自分はえっちなのかもしれないって思うじゃん。そういうのって自分じゃよくわかんないし。しおりちゃんとひかるちゃんには絶対相談できない悩みだし。

 困ったことに。読書は少しも進まないのだった。



 佐藤君と密会しつつ図書委員の仕事もこなす。

 図書委員の仕事を真面目にやってるのは相変わらず高本先輩とわたしだけだ。中等部の頃からそうだった。先輩は殆ど毎日ここへ遣って来てる。真面目だなあ、と思う。

 わたしが佐藤君との密会の為、何日か仕事をサボっても、嫌な表情なんか絶対見せない。爽やかな笑顔で、久しぶり、って迎えてくれる。

 うう。素敵だ。くらくらしちゃうぞ。

「今日はカレと会わないの?」

 先輩が涼しい顔でさらりとそんなことを口にした。暇なので、ふたりカウンターに座ってぼんやりしていたときのことだ。

「え。え、えと、はい」

 こちらはしどろもどろ。

「仲、いいよね」

「そ、そう、でしょうか」

「そうだよ」

先輩はくすりと笑った。「カレのほうが平澤さんに夢中って感じだよね」

「え? いや、そんなことはないと思います」

「そう? でも、向こうからつき合おうって言ってきたんじゃないの?」

「え? ど、どうしてわかるんですか?」

 試しに、って言われたことはこの際伝えないでおいた。見栄っ張りだな、わたしってば。

「見ればわかるよ。だって、この前ここへ来たときも、カレ、すごく悩ましい顔してたし」

 悩ましい顔。そうだっけ?

「あの時、喧嘩してたんでしょ? 平澤さんのほうも、この世の終わり、みたいなすごいクラい顔、してたよね」

 この世の終わり。そんな風に見えたのか。は、恥ずかしいな。先輩はくすくす笑ってる。

「え、と。はい。喧嘩っていうか。まあ。ショックなことがあって落ち込んでて」

「ショックなこと?」

 わたしは少し考えてから言った。あの日の出来事で受けた衝撃は、もうわたしのなかではかなり緩和されていたから。

「ブス、って。……ブスって言われちゃって。佐藤君のことを好きな女のコに」

 先輩がえ、と目を丸くしてこちらを見た。

「そう、なんだ」

「え、と。自覚はしてたし、冗談で言われる分には全然気にならないんですけど、な、なんていうか、そのときはすごくショックで」

「自覚?」

「はい」

 先輩は首を傾げる仕草を見せた。

「平澤さんは、可愛いよね?」

「え」

「平澤さんは可愛いと僕は思うけどな。笑った顔なんか特に」

 か、可愛い? わたしが? 笑った顔が? と、と、特に?

「ブスだなんてさ、そんな自覚、平澤さん、することないよ」

「そ、そうでしょうか」

「うん。それにしても大変だね。モテるカレシを持つと。そんな嫌がらせみたいなこと言われたりするんだ。ドラマかなんかみたいだね」

「……」

 黙って俯いていた。頬が熱い。褒められ慣れてないからだな、と思い至って余計恥ずかしくなってきた。顔がすごく火照ってる。

 パソコンの入力の仕方がわからないという一年生がやってきて、先輩はそちらへ行った。

 ふっと、顔を上げると、佐藤君が立っていた。目は高本先輩のほうを追っている。

 ゆっくりとこちらを向いた。何を言ったらいいのかわからなくてわたしは曖昧に微笑んだ。だって、こんにちは、とか言うのも変だよね。教室で顔は合わせてるんだから。

佐藤君は笑わなかった。

「平澤、顔、真っ赤」

「え? う、うん。ちょっとね」

「ちょっと?」

「うん。ちょっと」

「ふうん」

「どうしたの? 何か話?」

 今日のお昼休みはクラスの男子たちとサッカーをするって言ってたのに。佐藤君は窓のほうを指差した。

 窓に、水滴がぽつぽつとはりついていた。

 あ。

「雨?」

「うん」

 あんまり空が暗くなっていないから気付かなかった。

「今日、撮影あるって言ってただろ? もしかしたら中止になるかもしんねえし」

「そうなの? あ。でも、今日あたし塾があるよ?」

「あれ? そうだっけ」

「そうだっけって、ひどいよ、佐藤君。ちょっと前まで一緒に通ってたのにさ」

 はは、と笑われた。

「悪い悪い。……いや、あの頃は俺もよく勉強したな」

 昔を懐かしむみたいな目つきになった。

「今は? 今も勉強してる?」

「いや、全然。そんな時間ねえもん。いつクビになっても仕方ないって感じだよ」

 言いながら、でも、平気そうな顔をしている。

 きっと佐藤君はこの学校をいつ退学になっても構わないって、本心ではそう思ってるんじゃないかって。わたしはずっとそんな風に危惧してるんだ。

 ここをやめちゃったら、もう会えないじゃん。そうなったら佐藤君、わたしのことなんか、きっとすぐに忘れちゃうよ。

「今度、またふたりでどっか遊びに行ったり、できるのかなあ……」

 胸の中で呟くつもりだったのに、つい口に出して言っていた。うわ。わたしってば、うっかりにもほどがある。

 佐藤君は照れたような顔でそっぽを向いた。

「来週は今のとこ空いてるんだけど……」

 らしくもなく言葉を濁した。

 来週は空いてると言っても、その来週がくるまでの一週間で、空白だったスケジュールは埋まってしまうのだ。ここのとこずっとそのパターンがつづいている。

 まあ、毎日学校で顔合わせてるからいいと言えばいいんだけど。

 こんなんだと三ヶ月のお試し期間なんてすぐに過ぎちゃうよ。

 佐藤君、そのあともずっとつき合ってくれる気あるのかな。わかんないな。

 佐藤君の視線がまた高本先輩を追っている。何ていうか。敵意の込められた瞳だ。もしかして何気に妬いてる?

「あのね、佐藤君」

「ん?」

「高本先輩、ちゃんと好きなひといるみたいだよ」

「は?」

「あ。あたしじゃなくって、他にね。いるみたい」

「……」

 さ、っと佐藤君の頬に赤みが差した。

 え? 何?

「何で、そんなことわざわざ言うんだよ。俺、何にも言ってねえだろ?」

 むっとした顔で睨まれた。

「佐藤君?」

 きょとんとしてると、両頬をいきなりつままれた。そのままぐいぐいと引っ張られる。

「いっ……」

 いったいっ。痛いよ佐藤君、と言いたいんだけど。唇が横に広がりすぎちゃって、うまく喋ることはできなかった。

「何にも心配なんかしてねえっつーの」

 言うなり頬を解放した。

「いったーい。ひどいよ、何すんのよっ」

「平澤が変なこと言うからだ」

「そんなムキになることないじゃん」

 これ以上ぶっさいくな顔になったらどうしてくれんのよ。

 ひとりごちると、佐藤君の顔色が変わった。それはもう一瞬にして変わった。息を詰めて顔を強張らせている。

 え?

「佐藤君? どうしたの?」

「あ、いや。何でもない」

もう、戻るよ。

ほんの今までテンション高く怒ってたのに。低い声でそう言うと、くるりと背中を向けて行ってしまった。

 変なの。

 っていうかね。佐藤君。

 ひょろひょろと線の細い後ろ姿を見送る。つままれた頬にはまだ佐藤君の熱が残っていた。

 佐藤君がどうしても今日ふたりで会いたいって言ったら、わたし、塾なんかサボっちゃってもいいかなって、本当はそう思ってたんだよ? なあんか、佐藤君って、あっさりしてない?


 
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