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第七章 つよい…… 1.
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 昼寝の途中で目覚めると、今が果たして朝なのか夜なのか咄嗟に判断つかないことがある。

 特に今日は試験明けなので、目を覚ました俺はもしかして寝坊した? と、慌ててソファの上で上半身を起こした。

 暫く呆然と考える。なんで、ここに見知らぬ女のコがいるんだ? なんて思いながら。

 やがて記憶が回復してくる。

 そうだ。

 ここは俺が所属するモデル事務所で。今日は試験が終わって、その後平澤とこの近くのカフェでランチを食ったんだ。で、喧嘩になった。

 いま、目の前にいるコが喧嘩の原因だったはず。……俺はそう思ってるんだけど。

 ショートカットヘアの小さな顔がにこにこと笑いかけてきてた。さっきのことなんかなかったみたいな顔で。

 じろじろ見てんじゃねえぞ、と。言いたい気持ちをぐっとこらえ視線を外した。

「アキ。起きたの? よかった。早く顔、洗ってらっしゃい。打ち合わせするわよ。そのあと、取材がくるんだから」

 レイさんが忙しない口調で喋る。

「あー。はい」

 気のない返事をしながらのろのろと立ち上がった。ショートカットの女は無視する。何か言いたそうにはしてたけど無視。もうトラブルはごめんだ。さわらぬ神に祟りなし、だっけ?

「アキ」

部屋を出ようとしたとこで声をかけられた。「あなた、そろそろマネージャーつけるから。そのつもりでいてね」

「……」

 めんどくせえ。そういう顔で見返すと、顎で、早く行きなさいと命令された。

 トイレに向いながらも全くやる気は出なかった。

 無気力の原因は間違いなく平澤かれんだ。喧嘩別れした後味の悪さが胸に残ってる。むかむかする。気分が乗らない。このままフケたい。ほんと、まいる。

 一応携帯電話を確認しようと制服のズボンのポケットを探った。

 あれ? ないや。

 さっき、寝る前に鞄のなかから取り出してここに入れたと思ったんだけど。

 おかしいな。勘違いか。と思いながらトイレに入り顔をばしゃばしゃと洗った。洗う前に見た顔はすんげえ寝ぼけた顔だった。瞼がむくんでそりゃひどい顔。こんなんでいいのか。自分。一応モデルなんだろーがと。自分で自分に叱咤した。仕事でミスはしたくないから。



 トイレのドアを開けると、女のコがひとり、ドアの真向かいの壁に凭れかかった格好でこちらを向いて立っていた。そんなとこに誰かが立ってるなんて思ってもみなかった俺は、思わずぎくりと身体を揺らした。

 ショートカットヘアの新人の女だった。

 何なんだ、こいつは。しつこいな。

 女は俺の顔を見るとにっこりと微笑んだ。

 自分の顔の前で黒く鈍く光る携帯電話を、ストラップの先を摘んでぶらぶらさせながら。

 呆れた女だ。

 溜め息をひとつ吐くと言ってやった。

「ここ、男子トイレなんだけど。あんた、変な趣味あんの?」

 女は一瞬にしてむっとした顔になった。怒りっぽい女。

「返してほしくないの、これ?」

「ほしくないっつったらどうすんだよ?」

「トイレに落としちゃう」

「……ふざけんな」

 女は携帯電話を掌に納めると、

「ねえ、さっきのひとってカノジョ?」

 こいつ。すっかり敬語が抜けてやがる。

「あ?」

「社長、知ってるの?」

「知ってるよ」

「……」

女は唇を尖らせた。「何よ、それ。あたしにはむこう三年間カレシなんか作っちゃダメだって言ったくせに」

「知るかよ」

 女はじっと俺の顔を睨みつけてくる。何なんだ、いったい。

「返せ」

手を伸ばすと、さっと携帯電話を胸元に仕舞い込み、庇うように背中を向けた。

「ふざけんなっつってるだろ」

「ねえ、ちょっと、訊いてもいい?」

 背中を丸めたままの姿勢で向けた顔には不遜な笑みが浮かんでいた。侮蔑すら混じった笑み。バカにされてるみたいだ。さすがに困惑する。

「何だよ」

「あなたとうちの社長って、できてるって噂があるんだけど。それってほんと?」

「……」

「……」

「は?」

「違うの?」

「何言ってんだよ? あんた、レイさんいくつだか知ってんの? 俺と同い年の娘がいるんだぜ」

「だ、か、ら。その娘と社長があなたのこと取り合って、社長とあなたができちゃったもんだからえみりさん変になっちゃったって聞いたわ。えみりさんの拒食と過食とリストカットの原因はあなたと社長だって、そう聞いたんだから」

 思わず眉を顰めていた。

「それって、誰に聞いたんだよ」

「言わない。でもみんな言ってるんじゃん? 新人のあたしが知ってるってことはそういうことよ」

「それで。なんでそういう俺に、あんたはそこまで構うわけ? 俺に取り入ってレイさんによくしてもらおうとかそういうこと考えてるわけ?」

きつい目で睨まれたが構わずつづける。「あんた、うちの事務所の美少女コンテストで優勝したんだろ? この事務所で一番いい思いするのは、あのコンテスト出身の女だよ。毎年そうだって決まってんの。これ以上何を望むんだよ。変な小細工するのはやめろ」

 女は小さな顎を突き出した。気の強そうな一文字に閉じた唇。それがぱっと開かれた。

「そうよ。今まではそうだったのよ。だけど、今年はあなたがいるからあたしのことはおざなりになってるって。あたしは貧乏櫛を引いたって。みんなそう言ってるわ。いやよ。どうしてあたしが損しなくちゃいけないの? あなたの所為よ。何もかもあなたの所為。社長とできてるからって贔屓されるなんて許せない。絶対許さないんだから」

「できてねえよ。くっだらねえな、言ってることがいちいちさ」

 はき捨てるように言ってやった。

 この世界にいる人間なんて。みんな自己顕示欲の塊みたいなやつらばっかりだ。

 いま目の前にいる女を見ているだけでもわかる。

 こんな人間がごろごろいるんだ。

 そして。

 そうでないと生き残れない。それも本当。

 遠慮ばっかしてる人間は間違いなく淘汰されていく。才能や魅力に溢れながらこの世界から消えてった人間を俺は何人も見てきたからよくわかる。逆にそいうものを持っていなくても、天性の気の強さだけで生き残っていくやつもいるんだ。他人を罠にはめたり、蹴落としたり。そういうことが平気でできるやつもいる。

 怖い世界だ。

「アキさんのカノジョさんって、平澤かれんって名前なんだね」

 携帯電話を胸のあたりでちらつかせながら女が言う。

 女? この女、名前、なんつったっけ。

 同じ事務所のタレントの名前くらい覚えとけってレイさんに口が酸っぱくなるくらい言われてるのに。でないと、取材のときに同じ事務所の人間について訊かれることがあるから、そういうときにわかりませんって答えじゃまずいから、って。でも、全然覚えられないんだ。

 ……興味がないからだな。

「アキさんがメールの返事をちゃんと出してる相手ってこの名前のひとしかいないんだもん。まるわかり」

「勘弁してくんねーかな」

 髪の毛をぐしゃぐしゃにしながら言った。もうほんっと、イライラが頂点に達しそうだ。

「かれんだって」

くすっと笑った。「そんな感じの顔じゃなかったじゃん」

「……」

「さっき、ほんとよく寝てたよね。思わず携帯で写真撮っちゃった。明日学校でみんなに見せて自慢してもいい、かな?」

「……いいよ」

 俺は女に近づくと両手を女の顔の横の壁についた。

 女の顔に怯えが走る。

「な、何……」

 女はすぐに唇を閉じた。俺が顔を寄せたからだ。目の前にある耳が瞬時に真っ赤に染まった。

 それを確認してから胸元に手を伸ばした。携帯電話を手の上から握りつつ奪い返した。

 ちょろい。

「レイさんにはよく言っとくから。あんたにたくさん仕事まわすよーにって」

 耳許で囁く。あれほど滑らかに喋っていたのに。急に口が回らなくなってしまったみたいに女は黙り込んだ。

「それでい?」

 女はこくこくと頷いた。短い髪が鼻先で揺れる。

「じゃあさ、さっきの噂話。誰から聞いたかもおしえてくんねーかな?」

 ついでじゃん?

小野おのさん、だよ?」

 小野さん。

「誰、それ?」

 思わず素に戻って訊き返すと、女がえっ、という顔をした。

「小野さんだよ」

「だから、それって、誰?」

「何言ってるの? モデルとしてはアキさんの大先輩じゃん。もうじき俳優デビューも決まってる……」

 あ。

 と。ひとりの男の顔を思い浮かべていた。

「あの目がぎょろっとした、髭の男?」

 女が眉を顰めた。

「それってちょっとひどくない? ねえ、あたしの名前は覚えてくれてんの?」

「……」

 さあ、と首を傾げると、平手がとんできた。

 頬を張られていた。

「いってえ……」

 まじで痛かった。

「サイテー。あんたって、サイテーね。ちょっと自分が人気あるからって人のことバカにして」

 女の顔は今度は怒りの為真っ赤になっていた。

 言いたいことはわかるけど。

「あのな。ひとのケータイ勝手に盗み見るようなやつにサイテーとか言われたくねえよ」

「あたしの名前は里中さとなかあやな。里中あやなよ。覚えといて。今度会ったとき忘れてたら絶対許さないからね」

 女はひとりぷりぷり怒ると背中を向けてさっさと行ってしまった。

 すっげえ気の強い女。ああいうタイプは芸能界向きだと思う。

 俺は携帯電話を一応確認してからポケットに仕舞った。

 平澤からのメールも着信もなし。

 やっぱ、まだ怒ってんのかな。

 ひと寝入りして睡眠が足り、気持ちが落ち着いてくると、先ほどの自分のいたらなさに気づきつくづくと嫌になる。あれはひどかった。平澤はちっとも悪くない。さすがにこっちから謝らないとダメだろうなと思う。

 いま、平澤がどんな大変な場面に出くわしているかなんて。俺は知る由もなく。

 今日帰ったらちゃんと電話で謝ろう、なんて。呑気なことを考えていた。

 
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