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第八章 会いたい 2.
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 携帯電話片手に暫しぼうっと突っ立っていた。

 はっと我に返り、テーブルの上に放り出された鍵を手に取る。

 服はまだ着換えていなかった。制服のまま。駅前のコンビニで買った弁当もテーブルの上に置かれたままだ。リビングとダイニングが一緒のこの部屋はそれほど汚れてない。ぐるっと見回してからすぐに玄関には行かず、自分の部屋に一旦向かった。

 机の抽斗を開け、それがあるかどうか確認する。ここのとこ使っていないので念の為。めちゃうすいだの、1000だのという数字の書かれた長方形の箱はちゃんと決められた場所に納まっていた。蓋を開け、連なった中身を一枚引きちぎり、後ろポケットに忍ばせた。

 いや、これを使うことなんか多分ない。きっとない。はず。でも。一応礼儀として。……なんつって。

 さっき会いたいって電話した時にはそんな気持ちは微塵もなかった。ただひたすら。顔を見たいと思ってた。

 でも、今の電話は違う。ある意味合いを込めてうちに来るかと訊ねたのだ。

 それにしても。平澤のあの威勢のいい返事は何なんだ。こちらの思惑なんか全然通じていない。少しは察しろっつーの。全く以ってコドモだ。平澤かれんは。見た目どおり。

 女の子をあんまり美化しちゃだめだと言ったメイクさんの言葉をふと思い出していた。本を読んでるコは案外知識は豊富だって言ってたっけ。そうならいいけど。どうかな。わかんねえな。

 靴を履き鍵を片手にエレベーターに向かった。心臓が早鐘を打っていた。有り得ないくらい。こんな自分はみっともなくていやだ。平澤に悟られないようにしたい。今はそれだけを考えていた。



 マンションのエントランスを出てすぐに、こちらに向かって歩いてくる平澤の姿が見えた。Tシャツに綿パンというラフな格好をしている。向こうもこちらに気付いたみたいで大きく手をふった。暗いし遠いのでえくぼは見えない。でも、顔には満面の笑み。思わず笑ってしまった。何なんだ。あの無邪気な顔は。絶対無理。できっこない。あいつの頭にいやらしいことなんか、こちらの思いの欠片ほどもない。きっとそう。

 電話ではすらすらと話せていたのに。顔を合わせた途端、言葉が出なくなった。互いに顔を見合わせへへっと笑う。平澤のふっくらした頬には大きめのえくぼ。触れたい。

「来ちゃった」

「ああ」

「……突然、ごめんね?」

「構わねえよ。ってか、来いって言ったの俺のほうだし」

 なんつーか。ふたりともすんげえぎくしゃくしてる。

 こちらが踵を返し歩き始めると、平澤はちゃんとあとをついて来た。ちょこちょこと。

 オートロックの暗証番号を押していると突然、

「あっ」

 という平澤の声。

「何?」

 びっくりして振り返った。広いエントランスは案外声が響くのだ。

「あたし、手ぶらで来ちゃったよ。お土産くらい持ってくればよかった」

 何だ。そんなこと。

「いらねえよ。つーか、家、抜け出して来たんだろ? そんな余裕ねえじゃん」

「あ。そうだね」

 はは、と平澤が笑う。なんか笑顔が硬い。気のせい?

 エレベーターにはこちらが先に乗り込んだ。平澤があとから入ってくる。すれ違った瞬間、石鹸の匂いが鼻を掠め心臓が跳ねた。

 平澤、風呂上りなんだ。そう意識しただけなのに、全身を甘い疼きが貫いた。

 やばい。

 まずい。

 やばい。まずい。

 これはさすがに相当やばいと自分でもわかる。まじでやばい。正直、自分の理性に自信がなくなってきた。そもそもそんなもの存在してんのか? って感じ。何だって、うちに来る、なんて気安く誘ったりしたんだろ。あほだね。俺も。

 下心を悟られないようにポーカーフェイスのまま『閉』と記されたボタンを押した。

 狭い箱にふたりきり。後ろにいる平澤は喋らない。

 こちらも息を詰めて扉が開くのを待った。



 リビングダイニングの扉を開ける。

「あれ? 佐藤君、もしかしてあれって、晩ご飯?」

 ダイニングのテーブルの上。コンビニの袋の横に置かれた幕の内弁当と餃子のパックに平澤が視線を送っていた。今まさに食べようとした瞬間、平澤から電話がかかってきたのだ。

「あー。うん、まあ」

 はっきりしない返事だな。

「晩ご飯まだだったんだ。ごめん」

「いや、謝んなくていいから」

「あ、あたし、あっちに座ってるから、食べて。お腹空いてるでしょ?」

 平澤はソファを指差しそちらへと行く。アイボリーの布製のソファ。

「あー。……じゃ、遠慮なく」

 ぼそぼそと言いながら、部屋が静か過ぎるのがいけないのだと気がついた。テレビのリモコンを手に取り翳す。テレビの音声があるだけで、ずい分と気持ちが落ち着くから不思議だ。

 黙々と弁当を食べた。平澤のほうを見ることはできない。お互い喋らない。こんなんで貴重なふたりきりの時間を費やしていいのか。

「佐藤君」

「あ?」

 いきなり声をかけられ顔を上げた。平澤がこっちを見ている。あどけない表情。

「佐藤君のおじいさん、どこに旅行に行ったの?」

「あ……。え、と。島根、だっけ。旅行っていうかさ、じいさん、囲碁やってるんだ。なんかそのつき合いで素人の交流戦のボランティア、っていうか、手伝いに行ってる」

「へえ。そうなんだ」

「しょっちゅう、出かけんの。俳句だ囲碁だ、将棋だって。すんげえ元気」

「へえ。でも佐藤君のおじいさんってそんな感じだったよね。何するにも楽しそうで元気だった。一度ここに来たときも、すきやきの準備をするだけなのに、子供のあたし相手に、なんか色々喋って説明してくれて、すっごく面白かったの覚えてる」

 よく覚えてんな、そんなこと。思わず笑ってしまった。

「まあね」

 そう。じいさんはしょっちゅう家を空ける。だから、平澤、また来いよって軽く言えばいいんだろうけど。

 無理。

 今は無理。口許が強張って仕方ねえの。

 平澤はまた黙ってテレビに視線を戻していた。若手のお笑い芸人が山ほど出てる俺のよく知らない番組。時折上がる平澤の笑い声が柔らかく耳をくすぐる。

「平澤」

「え?」

 なあに? という風に首を傾げながらこちらを見る。可愛い。

「何か、飲む?」

「ううん。いらないよ」

「や、でも喉渇くだろ」

立ち上がり冷蔵庫に向かった。自分の分のお茶も容れていなかった。さっきから弁当の味も全然わかんねえし。嫌になるくらい動揺してる。

「あー。ボトル入りのコーヒーくらいしかねえや」

冷蔵庫を覗き込みながら言った。「俺もじいさんも甘い飲み物嫌いなんだ」

 男所帯だからな。許せ、平澤。

「いいよ。ほんとに」

「お茶とコーヒーどっちがいい?」

「うーん。じゃあ、お茶で」

「……あのさ、平澤」

 冷蔵庫に顔を向けたまま、いきなり核心をついてみた。何でもない風を装って。

「今日って、帰らねえとまずいの?」

 質問しておいて平澤のほうは見ないようにした。卑怯者。グラスを取り出しふたり分の麦茶を注ぐ。そんな風に時間をかけたところで平澤からの返事はない。聞こえなかったのか? もしそうなら俺も相当マヌケだ。

「平澤?」

 麦茶のたっぷり入ったボトル片手に見遣ると、平澤は石のように固まっていた。視線を合わせた途端、白い肌がばばばっとひと息に赤く染まった。

「あ……」

「……」

 平澤の瞳が揺れている。ゆらゆらと。そして泣きそうな顔へと変わった。これはきっと困ってる顔。

 ははっ、と笑った。

「ジョーダン」

 結局そういうことにしてしまった。だってさ、そう言うしかねえじゃん。

 目を見開く平澤。その表情は益々泣き顔に近くなった。

「じょ、じょうだん?」

「そ。ジョークだよ。ジョーク」

ボトルを冷蔵庫に仕舞いながら質問を換えた。「で? 何時までに帰んないとまずいわけ?」

 平澤はソファに座ったまま、膝の上に乗せた手をもぞもぞ動かしている。グラスを渡すと、小さくありがとう、って呟いた。でも頬の肉がすんげえ固ぇの。さっきよりずっと。やっぱ、言わなきゃよかった。激しく後悔。

 グラスに唇をつける平澤。その薄桃色の唇から視線を逸らして隣に腰を下ろした。ごくん、と。お茶を飲み下す音まで、こちらを惑わしてるみたいで参る。

「え、と。家を出たのをお母さんたちには気づかれてないから、帰るのも別に何時でも構わないとは思うんだけど……」

「……」

 まじかよ。じゃ、朝でもかまわねえじゃん。とはさすがに言えない。浅ましすぎる。

「い、一時間、くらい、かな」

「そっか。帰りは送ってく」

「あ。うん。ありがと」

 へへ、と笑う平澤。へろりと力の抜ける笑顔だ。

 ことん、と音を立ててグラスを置いた。

「今日は、悪かったな」

「え?」

 ややあって、えみりさんの、こと? と平澤が訊ねてきた。一瞬にして顔から笑みが消えていた。やっぱ、あいつのやったこと許せないんだろうなって思った。だけど、平澤はえみりの悪口を言ったりはしないんだ。絶対。そういうやつ。

「いや、そっちじゃなくて。忘れてっかもしんねえけど、俺ら、喧嘩しただろ?」

「あ。うん。したね。忘れてないよ」

「ごめん。俺、眠くって、なんかイライラしてた。普段はあれくらいであんな機嫌悪くなったりしないと思うんだけどさ」
「うん。知ってるよ」

 知ってるよ─── 。

 何でだろう。胸がしめつけられるように軋んだ。平澤が自分のことをわかってくれてるってだけで、こんなに胸が苦しくなるなんて。やってらんねえって思った。あー、やっぱつき合おうなんて言わなきゃよかったんだ。こんな些細なことでいちいち感情を揺さぶられてたら、この先いつか破綻がやってくる。

 思わず平澤の顔から視線を逸らせていた。

 でもそんなことを考えていたのもほんの僅かな時間だ。

「事務所で昼寝して、目が覚めたらすんげえ頭がすっきりしてて。で、後悔」

「そう、なんだ」

「平澤は? 怒ってねえの?」

 平澤は困ったように笑った。

「怒ってた。佐藤君すごく意地悪だったから」

「あ。やっぱ、そう」

「うん。でも、もう忘れた」

 きっぱりと言ってから、こちらの顔を覗き込んできた。少し心配そうな目つきで。どきっとしてしまう。

「な、何?」

「仕事、ほんとに忙しいんだね?」

「う、ん。まあね。これからもっと忙しくなると思う。でも、試験の結果次第ではちょっと調整してもらわねえとさ。まずいよな?」

「ね。CMに出るかもって言ってたよね? あの話はどうなったの?」

「出るよ」

「ほんとに?」

平澤の顔がぱっと明るくなった。「すごい。すごいね」

「どうかな」

「すごいよ。でもそんな有名になっちゃったら、もうあんまりふたりでデニーズとか行けないね」

 あは、っと。笑ってしまった。デニーズってとこが平澤らしい。っていうか。何度もふたりで行ったのってあそこぐらいしかないんだよな。

「ここに来ればいいじゃん」

 軽い調子で言った。平澤は間を空けて、うん、そうだね、と返してきた。

 テレビはまだお笑い番組をやっている。そんなに喉は渇いてないけど。お茶を口に含んで気持ちを鎮めた。

 
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