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第八章 会いたい  3.
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 佐藤君に、ウチ来る? って訊かれて、嬉しくて、これから会えるってことがただ嬉しくて、だから、うん、って答えた。佐藤君のおじいさんが旅行に行ってて家にいないってことも、あ、ふたりきりで話ができるって、そう思って単純に喜んだくらい。えっちな気持ちなんか全然なかったよ。それはほんと。

 でも佐藤君のマンションの部屋に入った途端、これはまずいって気がついた。

 こんな時間に、つき合ってる男のコの、家族が誰もいない家に行くってことがどういうことかわからないほど、わたしだってコドモじゃないつもり。つもりなんだけど、その部分がここへ来るまで吹っ飛んでた。まるっきり抜けていた。

「今日って帰らねえとまずいの?」

って佐藤君に訊かれて、ああ、やっぱ、佐藤君、そういうつもりでわたしをここへ招きいれたのかなってちょっとだけそう思ったんだ。悪い意味じゃなくってさ。心臓がどきどきしたよ。だけどすぐにジョーダンだよってかわされた。でもどうなんだろう。本当の本当は本気だったのかもしれない。一緒にいるからって隣にいる相手の本音なんかちっともわからない。こんなどきどき胸が騒がしい夜は尚更だ。わたしがあまりにもまともな反応を返せなかったから、こりゃだめだ、って呆れられたのかもしれないし。

 あとはただソファに座って話をした。たくさん喋った。

 ぎこちない感じはずっとあったんだけど。

 今日の事件のあらましを訊かれて説明したら佐藤君ちょっと呆れてた。

「なんでえみりになんかついて行くんだよ?」

だって。実を言うと、それ、自分でもよくわかんないんだよね。友達になろうって言われて、でもこのひととは友達になんかなれないだろうってわかってて、でもついてったんだ。

「説明できない」

って言うと、

「よくわかんねえよな、平澤は」

だって。まじで呆れてる?

「でもね、そのお店の副社長っていうひとがすごくいいひとだったんだ。だからラッキーだった。学校とか警察とかに連絡されなくて済んでよかったって。いま切実に思ってるもん」

 時間が経てば経つほどそう感じている。

「ラッキーって言うかよ。そんな状況で」

「副社長っていってもすごく若いんだよ。二十代かな、それくらい。だからこっちの話、ちゃんと伝わったんだと思う」

「……男?」

「うん。一見フリーターみたいな感じですんごく胡散臭かったの。でも副社長だもんね。偉いよね。話のわかるひとだったし」

「ふーん……」

 佐藤君は何だか急激に興味をうしなったみたいな相槌を打つと壁にかけられた時計をちらっと見た。
 一時間なんて、ほんとあっという間だ。

 もう帰んないといけない。

 そうお互い意識した途端、部屋がひと息に静寂に包まれた。……気がした。テレビの音は変わらず響いているのに。変だね。

「あの。もう、帰んないと……」

「……うん」

ちらっと、もう一度佐藤君は時計に視線を当てた。「そっか。そうだよな」

 うん。って言ったのに。佐藤君は立ち上がらない。

 そしてわたしも。お尻が、縫いつけられたみたいにソファの座面から離れてくれないの。

 いや。お尻の所為じゃなくて。ましてやソファの所為なんかでもなくて。

 わたしはそっと佐藤君のほうへ顔を向けた。心臓が止まりそうになった。佐藤君もこっちをじっと見ていたから。

 佐藤君が右手をじれったいくらいスローなテンポでわたしのほうへ伸ばしてきた。左頬に指先が触れる。ぴくって。皮膚が反応した。

「平澤、あったかい」

 くしゃっと顔を崩して笑い、そんなことを言う。

 こちらはなんて応えたらいいのかまるきりわかんなくて、ただ黙って見返していた。

 ゆっくりと影が落ちる。

 唇に柔らかいものが触れる。ぷるんとした感触。ふっくらした感触。全然荒々しいとこのない神聖なキス。いつまで経ってもキスに慣れることなんかない。心臓がひっくり返ったみたいにどきどきする。耐え切れなくて唇を外して、佐藤君の胸に顔を伏せると、佐藤君の心臓もものすごい勢いで打っているのがわかった。意外だ。

 佐藤君の腕が柔らかくこちらの身体を拘束してきた。抱きしめられていた。頬が、わたしの髪の毛に擦り付けられる。益々心臓の動きが忙しなくなる。ほんと。もう壊れてしまいそうだ。

「佐藤君」

「……ん?」

「佐藤君の心臓、すごくどきどき言ってる」

「……」

「……」

「当たり前だろ」

 佐藤君の両手がこちらの顔を挟み込んだ。佐藤君の青みがかった灰色の目がすぐ目の前にあった。戸惑ってるみたいな、でも実は余裕があるみたいな、わたしへの行動を量りかねているような複雑な色。ごめんね。こっちがこういうことに慣れてないから、だから佐藤君もどうしたらいいのかわかんないんだよね、きっと。

 長いこと見つめ合っていた。

 佐藤君の瞳に映ってるのはわたしだけ。そのことがとても不思議だった。

 再び落ちてきた唇はとても激しいものだった。押しつけるように咬むように。何度も何度も角度を変えて合わせてきた。

 呼吸が苦しい。苦しくてたまらない。息が上がる。怖くなって顔を外したら、

「だめ。逃げんな」

って言われた。おでこに佐藤君の額が押しつけられ、両耳に当てられた親指がじれったそうにそこを弄んでいる。佐藤君の声は感情を無理矢理閉じ込めたみたいに掠れていた。

「これ以上のことはしねえから」

 ほんと? ほんとに?

「い……」

 息ができないの。

「え?」

「さっきから、息ができなくて、苦しくて、たまんないの」

 そう言うと、佐藤君は困ったみたいに笑った。

「息、しろよ」

「だって、できない」

 瞼をぎゅっと閉じて訴えると、強く抱きしめられた。体重を預けられたと思ったら、背中に柔らかいものが触れていた。

 ソファの上に倒されたのだと気づく。

 目を開けることなんかできなくて。ただひたすら佐藤君の下で震えていた。佐藤君の制服のシャツにしがみついていた。

 唇が再び触れてくる。今度は柔らかく。

 でも。

 ふ、っと、生暖かいものが歯茎に触れてきた。あ、と声を上げそうになるくらい驚いていた。わたしの前歯と佐藤君の前歯がぶつかって、かちって音が聞こえてきた。

 これがいわゆるディープキスだとかべろちゅうだとか言われてるやつ? こんなキスをされると小説の中の女の人は大抵ぐにゃりと身体中の力が抜けるくらい感じたりするんだけど、そんな感覚は全くなかった。これから先どうなっちゃうんだろうって。そのことばかり考えていた。ちっとも佐藤君の舌の動きを楽しむ余裕なんかない。佐藤君の言うとおりだ。頭のなかで色々考えてたってだめなんだ。現実はまるで違う。

 こんなこと。自分が経験するなんてちょっと前のわたしは想像もしていなかった。

 わたしと佐藤君はとうとうこんなとこまできてしまった。

 何が何だかわかんなくなっていた。いま自分がどんな顔を佐藤君に見せているのかも。わからない。それくらい混乱していた。

 気づいたら佐藤君の右手がTシャツ越しにわたしの胸に触れていた。もう混乱なんてものじゃない。びっくりしちゃって夢から醒めたみたいに大きく身を捩っていた。

 さっと、身体を起こした佐藤君のほうも我に返ったみたいな声を出した。

「うわ。ごめん」

 解放されたわたしはすぐさま身体を起こすとソファの下に足を降ろして乱れた服を直した。あたふたと。その様子がわざとらしいというか、あてつけがましかったのか、佐藤君は申し訳なさそうに、

「ごめん。つい」

再び、らしくない神妙な声で謝ってきた。

 わたしはかぶりを振った。

「あ、謝らないで」

「や、でも、平澤、すげえ顔してるし」

 すげえ顔? どんな顔よ。失礼なっ。

「怒ってんの?」

「怒ってない」

わたしはもう一度首を横に振った。「……い、いやなわけじゃないんだよ? いやじゃないの。で、でも、なんていうか、……び、びっくりしちゃって」

 胸に触れてきた佐藤君の掌はとても大きかった。わたしの手とはまるで違う。そして。確然とした意思を持っていた。

 怖かった。

 すごく。

 怖かった。

 ゆっくりと佐藤君のほうに顔を向けると、心配そうな顔とぶつかった。佐藤君は無理矢理ってわかる笑顔を見せてから立ち上がった。

「送る」

 こっくりと頷いてわたしもソファから腰を上げた。ちょっとだけ気まずい雰囲気の漂うなか、わたしたちは部屋をあとにした。


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