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第八章 会いたい  4.
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 エレベーターに乗ると、佐藤君がそっと掌だけを差し出してきた。こちらの顔は見ないままに。一瞬意味を量りかね、あ、と思い至って自分の掌をそっと重ね合わせてみた。ぎゅっと握ってくる佐藤君の手は温かい。心臓が苦しくなる。

 さっき、部屋に向かう前のエレベーターのなか、わたしたちの間には距離があった。だけど今はこんなにも近い。それが嬉しい。

「へ。へへ……」

 つい笑い声を洩らしてしまっていた。自分でも嫌になるくらい色気のない笑い声だ。

 佐藤君は苦笑いしてる。

「また来いよな」

 階数表示を見上げながらそんなことを言った。

「うん」

 今度来たときはもっと先へ進んじゃうのかな。わたしたちのカンケイ。それはちょっと怖いけど。

 エレベーターの箱から出る間際、わたしはどうしても確認しておきたいことがあって、握った手をちょっとだけ引っ張った。ん? って顔して佐藤君が振り返る。

「何?」

「……」

 ふたりでエレベーターから出た。住人らしい三十代くらいの男のひとと入れ違いになる。

「あの」

「うん」

 エントランスを抜けた。当たり前なんだけど、外は暗い。ひとどおりも車の量も来たときと比べてかなり少なくなっている。もう時間は十一時を回ってるはず。

「佐藤君さ……」

「うん」

「……」

 言いにくい。訊きにくい。どうしようと躊躇っていると、

「何だよ。早く言えよ」

と、催促された。佐藤君は気が短い。わたしはぱっと顔を上げる。

「あのね」

「うん」

「あの、佐藤君、わたしのこと、どう思ってる?」

 佐藤君は足を止めるときょとんとした顔でわたしを見つめた。

「はあ?」

 はあ、って何? ちょっとひどくない? その反応。

「は?」

 こっちは思い切って言いにくいことを口にしたっていうのに。なんかムカつく。

「だから」

「何?」

「わ、わたしのこと」

「平澤のこと?」

「好きかって、訊いてるのっ」

 何だってこんな、怒ったみたいな言い方で訊かなきゃならないわけ? 顔が熱いんだけど。めちゃくちゃ熱い。

 佐藤君は足を止めたまま呆れ顔でわたしを見下ろしていた。力なく言う。

「今さら、だろ……」

 今さらっ?

「今さらって何よ……」

 佐藤君はふっと視線をそらすと再び歩き始めた。手を繋いでいるので自然こちらの足も前に出る。黙ったまま歩きつづけてる。街灯に照らされたその顔はいつもと変らない。わたしはずっとその横顔を見上げていた。

「視線、痛いんだけど」

 俯いた佐藤君が言った。口許が面白そうに緩んでる。

「だって……」

 佐藤君がちゃんと質問に答えてくれないからいけないんじゃん。

 小さく文句を言うと、

「好きだよ」

はっきりとした口調で、前を向いたままそう言った。「ずっと好きだった。平澤のこと」

─── 。

「え」

「え?」

「え?」

「何だよ」

「ずっと?」

「……」

「ずっと、って。ずっとって、いつ? いつから? いつから好きだったの、あたしのこと」

 わたしってば。思いがけない言葉にすんごい興奮しちゃって、佐藤君の前に回りこんで両肘を掴んでた。予期してなかったからなのか、佐藤君がちょっとだけ後ろによろけた。見上げた佐藤君の顔はわたしよりはるかに高い位置にある。大きな灰色の瞳。吸い込まれそうだ。

「佐藤君?」

「あ?」

「また身長、伸びたね?」

 僅かな間を空けて、佐藤君はぶはっと吹き出して笑った。

「まあね。伸びたと思うよ。平澤、どんどんちっちゃくなってるもんな」

 そう言って、くしゃくしゃっと、わたしの頭を撫でた。お子様あつかい。失礼しちゃう。

 再び佐藤君が歩き出した。慌てて横に並ぶ。

 結局、いつからわたしのことを好きだったのかはちゃんと聞けそうになかった。またいつかおしえてもらおう。

 でも。

 いま、ものすごく嬉しい。佐藤君、ちゃんと、わたしのこと好きだったんじゃん。

「へ。へへ」

 また色気のない笑い声を洩らしてた。しかも思い出し笑いみたいに。

 生温い風が頬を撫でていく。あともう少しで四丁目の交差点。そこを抜けるとすぐうちに着いちゃう。手はさっきから離れたまま。こっちから繋いでもいいんだけど。どうしよう。

「平澤は?」

「え?」

「平澤は、いいの、俺で」

 意味がよくわからなくて佐藤君の顔をじっと見上げた。なんだか膨れっ面にも見える顔。

「いいの、って?」

「あの先輩のことは?」

 先輩。

「誰?」

「誰って……。図書室の。平澤、憧れてるって言ってたじゃねえか」

「あ。高本先輩?」

「そう」

 首を傾げた。

「憧れてるだけ、だよ?」

「それって、好きっていうのと違うわけ?」

「うん。だって、あたしが好きなのは佐藤君だもん」

「……」

 佐藤君の足が一瞬だけ止まった。でもすぐに歩き始める。

 住宅街に入ると、途端に静かになった。静寂。静謐。人通りは全くない。信じらんねえ、と、上から呟く声。

「平澤、危ねえよ。ここ、ひとりで歩いて来たんだろ?」

「うん」

「もうそういうことはやめろ」

心配でしようがねえよ、とつづけて言った。

「うん……。でも、会いたかったから」

「家、抜け出すのも最初で最後な」

「……どうして?」

 わたしは案外楽しかったよ。心臓が爆発するかと思うくらいどきどきしたけど。スリルとサスペンスっていうの? 真面目なわたしがそんな経験するなんて、きっと一生ないって思ってた。

「やっぱさ。まずいじゃん。平澤の家族に警戒されたくないっていうか」

「そんなの……」

「こういうの、俺らしくないって自分でも思うんだけどさ」

佐藤君は自分の髪の毛をもどかしそうな仕草でかき上げた。「なんか、そんなことで台無しにしたくねえんだよな。平澤とのこと……」

 うわわ。何でだろ。顔が赤くなるのがわかる。これって喜んでもいい場面、だよね?

「へ。へへ」

 つい。また変な声で笑ってた。

「何だよ、さっきから、その笑い方は」

 頬をきゅってつままれた。

「いたた。いたいっ。痛いよ、佐藤君っ」

「こっちは真面目に喋ってんのによ」

「ふ、ふざけてるわけじゃないんだってば」

 佐藤君は怒ってんのか笑ってんのかわかんない判別不能な顔をしていた。

「ねえ、佐藤くん」

「何?」

 もうわたしの家はとっくに見えてる。ここでさよならって言ってもいいくらい。

「お母さんにはね、今日、知られちゃったんだ。佐藤君とつき合ってること」

「……」

 佐藤君は言葉をうしなったみたいな顔でこちらを見下ろしていた。

「お母さん、ちゃんと賛成してくれたから。佐藤君の仕事のこととかもわかってて。でも、あたしが佐藤君を好きならいいって。言ってくれたから」

「じゃあ、尚更だよ」

「尚更?」

「そうだよ。やっぱ、こういう風に会うのはまずいよな」

 わたしたちは顔を見合わせていた。頭のなかではさっき佐藤君の部屋で繰り広げられたシーンがぐるぐる回ってた。唇の感触とか触れた佐藤君の腕の肉の硬さとかを思い出して一気に赤面した。

「そ、そうだね」

「そうだよ」

 佐藤君もきっと同じこと思い出してたんだと思う。だって、佐藤君の顔も赤くなってたから。暗がりだけど、照れ臭そうな表情をしてるのはよくわかった。

「……じゃ、帰るね」

「ああ。また明日な」

「うん」

 名残惜しい気持ちが込み上げてくる。

 でも仕方ない。わたしと佐藤君はまだ高校一年生なんだから。ひと晩中一緒にいるわけにはいかないんだから。

 何でだろう。背中を向けて歩きながら、涙ぐみそうになっていた。

 慌てて笑顔を作り振り返った。佐藤君は立ち止まったままこちらを見ている。

 手を振る。佐藤君も笑って片手を挙げてくれた。

 本気で泣きそうになったので急いで背中を向けると門の中へ駆け込んでいた。

 


 どうやら家族にはバレなかったみたい。

 もうわたしは寝ちゃったことになってるんだろうなって思った。

 部屋に戻って服を脱ぐ。白いブラを外したところで自分の胸を見下ろした。

 さっき、佐藤君に触れられた胸の膨らみ。

 そんなにはおっきくない胸。自分でもそっと触れてみる。佐藤君の手の動きを真似てみようとしてやめた。

 やらしいな。わたし。邪念を払うみたいに慌ててパジャマを着た。

 身体が少しだるかった。熱っぽい。試験であんまり寝てなかったし今日はいろんなことがありすぎた。

 もう寝ちゃおうと決め布団を捲ったとこで部屋のドアが開いた。どきっとした。

 立っていたのはひかるちゃんだった。

「あ……。やだ、びっくりした」

「おかえり」

 ひかるちゃんは枕を脇に抱え布団を引き摺っていた。目はとろんとしてる。ひかるちゃんも試験明けだから、きっともう寝てたんだろうなと思った。

「起こしちゃったんだ。ごめんね、心配かけて」

「う、ん」

「ね、バレなかった?」

「うん……」

ひかるちゃんは寝惚けてるみたいな口調で話す。「かれんちゃんもう寝ちゃったみたいだよ、あんなことがあったのに結構気がおっきいよね、って言ったらお父さんとお母さん、かれんらしいなって笑ってた」

 ははは。そうなんだ。……それって喜んでいいのか?

「ありがと。ひかるちゃん」

「ね。今日、一緒に寝ていい?」

「……うん。いいよ」

 ひかるちゃんは寂しいって感じるとこんな風に一緒に寝ようってやってくる。

 狭いシングルベッドにふたりで横になった。ひかるちゃんがぴたりと身体を寄せてくる。どうしたんだろう?

「……ね、かれんちゃん」

「うん」

「かれんちゃん、もう女の子じゃ、なくなっちゃった?」

 ひかるちゃんの言葉に一瞬呼吸が止まりそうになった。天井を見上げたまま首を横に振った。

「まだ、してない?」

「うん。してないよ」

「よかった」

へへへ、と誰かさんにそっくりな笑い方をして、頬をこちらの肩に押しつけてくる。ほんとうに。甘ったれさんだ。

「なんかね。寂しかったんだ」

「寂しい?」

「うん。かれんちゃんが遠くに行っちゃうみたいで。もう、家に帰って来ないみたいで。寂しかったよ、すごく……」

「帰ってくるよ」

「うん……」

 ひかるちゃんは半分眠りに落ちてるんじゃないかと思えるような、あまり開いてない口でごにょごにょと喋る。

「かれんちゃん、からだ、熱いね」

「うん。熱っぽいんだ、さっきから」

「ね、かれんちゃん」

「うん?」

「佐藤君と、もしそういうことになったらね……」

「うん……」

「おしえてね」

「……」

「きっと、だよ……」

こちらは何にも答えてないのに。ひとり納得したみたいに言うと、すうーっと、長い息を吸う音とともにひかるちゃんは眠りに落ちた。

 ぼんやりと灯るオレンジ色の灯りを見つめながら、今日のできごとを思い出していた。

 色々あった。ほんとうに、たくさん。大変な一日だったな。

 佐藤君はもう寝ちゃったかな。そういえばまだお風呂にも入ってないみたいだったから、寝てないかも。会いたいな。さっきまた明日って言ったばかりなのに。変。変なんだ。胸のあたりがずっと苦しい。佐藤君も少しはわたしのこと思い出してくれてるかな。佐藤君のなかでどれくらいの位置にわたしはいるんだろう。どれくらい佐藤君の心を占めてるんだろう。

 好きって言ってくれた。ずっと好きだったって。その言葉を大切にしたい。信じたい。

 黄色い灯りがぼんやりと霞んだ。そのまま眠りに落ちたみたいだった。



 翌日。

 わたしは熱を出して学校を休んだ。

 風邪とかじゃなかったみたいで、熱は一日でひいたんだけど。

 知恵熱って。佐藤君には散々からかわれた。

「平澤はやっぱお子様だよな」

だってさ。そんなお子様に手を出そうとしたくせにっ。……って。思ったけど言わなかったよ。あの夜のことはなかったみたいに今はつき合ってる。ときどきちゅって、佐藤君の唇が頬とか額とか、たまに唇に軽く落ちることはあるけど。こっちはその都度呼吸困難に陥ってる。それはずっと変わらない。

 佐藤君の試験の結果は予想通りだったらしい。それでも自分より成績の悪いひとがまだ数人いることが佐藤君には信じられないらしく、

「ガッコー辞めたほうがいいんじゃねえの」

なあんて言ってた。呆れちゃう。ひとのこと言えないっつーの。

 


 やがて梅雨がやってきた。うつうつと。雨の日がつづくなか。

 モデルのAkiが出演する清涼飲料水のコマーシャルがテレビで流れ始めた。



 暑くて長い夏がやってきた。

第八章 会いたい (了)

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