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第九章 モデル・Aki 2.
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 祖父は朝から妙にテンションが高かった。

 いや、他のひとから見れば落ち着いたいつもの祖父に見えるのかもしんないけど。俺にはわかる。理由も知ってる。

 今日は土曜日。平澤がうちに来る日だ。

 祖父の知り合い、囲碁や俳句の仲間はしょっちゅうここへやって来るけど、俺の友だちが来ることは滅多にない。祖父は俺にカノジョができたことが嬉しくて仕方ないらしい。なんでだろ、と考える。多分、祖父は女のコが好きなんだ。いや、変な意味じゃなくて。祖父の子供は息子がひとりだけ。俺の父親にあたるやつ。娘がほしかった、と寂しそうにこぼしてるのを聞いたことがある。孫だって、こんな男の俺なんかより女のコのほうがよかったに違いない。男ふたりだと侘しくて仕様がないとよく言ってるしな。

 一度、

「再婚したら?」

と言ったことがあるんだ。勿論本気じゃなくて。冗談で。祖父は目を剥いた。コドモが何を言い出すんだと狼狽えていた。

「わたしは死んだ栄子えいこ以外とは結婚はしないと決めてるんだ」

烈火の如く怒り出すかと思ったけど、案外冷静な声でそう言った。

 祖父は祖母ととても仲が良かったらしい。まあ、ばあさんとかかあさんとか呼ばずに、栄子、と名前で呼んでるあたりからもそれは窺える。

「おい、アキヨシ」

「あ?」

 掃除を終えた祖父は今度は白くて柔らかい強力粉を丸めてる。手首から先は粉にまみれて真っ白だ。

「平澤さんは、パンとか好きか?」

「は? パン? 好きなんじゃねえの? パン、嫌いなやつってそんないねえし。そういや前にサンドイッチ一緒に食ったこともあるしな。うまそうに食ってたよ」

「そうか、そうか」

 祖父は嬉しそうにパンの種を丸めていく。これから生地を休ませるのだとか言って薄い布巾をかける。生地を休ませる? 意味わかんねえ……。

 祖父が俳句仲間の奥様方に誘われて月に一度のパン教室に通い始めたのは四月のことだ。ちょう度俺が高校生になった頃。祖父は奥様方と仲がいい。

「不倫はやめてくれよな」

そう言うと、このときは本気で怒られた。いや、これも冗談のつもりだったんだけど。通じなかった。

 もしかして身に覚えがあんのか? って疑ってしまったくらい。祖父の憤りようはすごかった。血圧が高くなりすぎても困るのでそのときは素直に謝った。年寄りは色々と扱いにくくて参る。

 と。

 インターホンの音が軽やかに鳴った。平澤だ。オートロックを解除してやる。

 エプロンをした祖父は冷蔵庫を覗きながら、

「おい。アキヨシ。ジュースがないぞ」

と、今頃そんなことを言っている。仕様がねえなあ、と一緒に冷蔵庫を覗き込んだ。

「コーヒーでいいんじゃねえの? あ。牛乳あるじゃん。これでいいよ」

ぞんざいに答えると、牛乳ってなあ、と祖父は溜め息混じりに呟いた。

「お前、そんな冷たい態度じゃ平澤さんに嫌われるぞ」

聞き捨てならないことを言う。

「そんなことで嫌われたりしねえよ」

俺はひとりごちながら、でもちょっと不安になりながら、玄関に向かった。

 ドアを開けると、通路を歩いてこちらに向かってくる平澤が見えた。白いふわふわしたオーバーブラウスに、下は丈の長いスカートを穿いている。俺に気づくとえくぼを見せて笑った。可愛い。

「こんにちは。おじゃまします」

 緊張した面持ちで、対面した祖父に頭を下げる平澤。なんで、そんなかちかちなんだよ?

「やあ、いらっしゃい。─── 久しぶりだね」

迎えに出てきた祖父はさっきまでのそわそわした素振りなんか微塵も見せないで悠然と微笑んでいる。呆れた。役者め。落ち着いた老年の男を演じてる。この手で世の奥様方もたぶらかしてんのか。なんてことを。勘繰ってしまった。

 リビングに通された平澤は顔を赤くしてる。声をかけてくる祖父の言葉にいちいち小さく、はい、はい、と頷いている。すんげえ大人しいの。こっちも女優? いや、違う。これは演技じゃなくて本当に緊張してんだな。そう思うと何だか可笑しくて笑えてしまった。


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