あの海に、棄てた
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 僕のふたりめの母は僕より九つ年上で、名をヨウさんという。
 ヨウさんのヨウは、太陽の陽の字を当てる。名は体を表すの言葉どおり、陽さんは、太陽の日を浴びすくすく育ったひまわりのような、朗らかで屈託のないあっさりさっぱりとした性格の人だった。
 教師をしている父のところへ教え子だった陽さんが嫁いで来たのが九年前。陽さんは十八歳で、僕はまだ九つだった。
「よろしく、たけるくん」
 僕の目線の高さに合うように腰を屈めた陽さんは、はつらつとした声と一緒に、白い手を差し出した。猫みたいに小さな顔をしてるなあと、口許に小さな穴が開いてるぞと、僕はまじまじと新しく母となる人の顔を見つめた。母という感じの人では、まるでなかった。
「握手」
 催促され、ようやく握り返した手は驚くくらい柔らかで、僕はすぐにその手を引っこめた。
 隣のH県の国立大学へ新幹線通学をしながら家事をこなす陽さんは、掃除も洗濯も料理でさえも満足にできず、始終ごめんなさいを口に上らせているような人だった。ただその顔に反省の色は微塵も窺えず、舌を出し肩を竦め全てを済ませてしまう有り様だった。父は二十以上も年下の陽さんに劇的に甘かったのである。実の息子の僕に対するよりも、よほど。
 母が亡くなった後、父と僕とで培ってきた世間一般で常識とされる家族の形は、陽さんの侵入により呆気なく崩壊された。家族というより部活かサークル活動をしているような、気軽な集合体となり果てたのだ。父と僕がそれを甘んじて享受することに全く抵抗を覚えなかったのは、陽さんのあっけらかんとした明るさによるところが大きかったのだろうと思う。いかにも教師然として厳格だった父が僕を叱る回数はうんと減り、ふたりだけの時に感じていた窮屈さは影をひそめ、僕にとってはむしろ、新しい家族の形のほうがよほど居心地よく感じられたものだった。
 二十以上も歳の違う妻を娶った父が病気で亡くなったのはその僅か三年後だ。父の葬儀の折、亡くなった母の、何年も会っていない妹、つまり僕の叔母にあたる人が親切にも一緒に暮らさないかと声をかけてくれたけれど、僕は首を横に振った。
 それから僕はずっと陽さんとふたりきりで暮らしている。
 海を埋め立てできた、白い煙やオレンジ色の炎を吐き出すコンビナートと工場の建ち並ぶこの町で。郊外にできた大型ショッピングセンターの賑わいに圧され、次々と店を畳む商店の、閉じられたシャッターばかり並ぶこの町で。陽さんとふたり生きてきた。
 僕は今年十八歳になった。


「まさか、K大に合格するとはね」
 さっきまで。あんなにも熱く湿った肌を擦りつけていたくせに。することをしたらもう用無しだとばかりに担任の女教師はさっさと服を着始める。
「秋になって急に進路を変更したりするから心配してたのよ」
「心配?」
 僕は苦笑交じりに呟いた。どういう類の心配なんだか。もし僕が浪人ということにでもなれば、また一年この関係をつづけていかなければならないのかと、内心戦々恐々としていたに違いないのに。
「てっきりお義母さんのいらっしゃるH大を受験するんだと思ってたのに。ずっとそのつもりだったんでしょう? どうして急に東京に行こうなんて思ったの?」
 めんどくさいと思いつつ、今日はここに泊まるわけにもいかないので、僕もようやく身体を起こした。
「先生は? もう式の日取りは決まった?」
「え?」
 一体何の話かしらという目で担任は僕を見た。自分とはまるで違う世界にいるイキモノを見る目。本人に自覚があるのかないのか知らないけれど、この人は時折こんな目で生徒を見ることがある。
 僕はのろのろとベッドから這い出し、散らばった服を手に取った。
「聞いたよ。尾上おのえから。先生、尾上と結婚するんだって?」
つーか。尾上から聞かずとも、うちのガッコーの生徒でこの話を知らないやつはもはやいないと僕は確信している。
「おめでとう」
 満面の笑みを見せると、担任は複雑な顔になった。あらゆる計算がその内側で渦巻いているのが手に取るようにわかる。
── だけど先生、あの男、実は両刀なんですよ。
 もしそう口にしたならこの女教師はどうするだろうか。あらん限りの想像に苛み、何であなたがそんなことを知っているのかと、ヒステリックに泣き叫ぶだろうか。
 やがて、丈の長いパジャマの上衣を羽織った背を向け部屋を出て行く。時間を置いてキッチンに入った僕に担任は言った。
「ねえ、田丸たまるさんにはもうK大合格したって知らせたの?」
 田丸は同じく先生の教え子で、僕のガールフレンドでもある女のコだ。先生が差し出したミネラルウォーターのボトルを受け取る。指先がひんやりと冷たくなった。
「言ったよ。一番に」
 一番に、と言うのは嘘だったが、その言葉に担任教師は傷ついた顔になった。婚約者がいてもなお、僕の一番でいたかったのだろうか。女心はよくわからない。
「泣かれたでしょう?」
 田丸は僕よりひと足もふた足も先に、H県にある女子大への推薦入学を決めていた。
「まあね。信じらんない裏切り者もう別れるーって泣き喚いてたけど」
「泣き喚く? あの大人しい田丸さんが?」
「うん。俺もびっくりしたよ。でも今更どうしようもないじゃん」
「いいの?」
 僕はボトルのキャップを閉めながら頷いた。
「どっちにしたって離れて暮らせば終わると思うしね」
「あなたね……」
溜め息混じりに出てきたのは、何かずっと抑えてきたものを、少しは吐き出してもいいかしらと、裏側にそういったものを潜ませた声だった。「皆川みなかわ君、あなた、少しは真剣な恋愛ってできないの?」
 僕はきょとんとし、それからぷっと吹き出した。
「先生には言われたくないよ?」
「そうかしら。あなたよりはマシだと思うけど」
 ボトルを担任の手に戻す。にっこり微笑んでから暇を告げた。
「さよなら、先生。お幸せに」
 言外に含むものを感じたのか、担任は軽く目を見張った。だが引き止めることはしない。担任が口に出せなかったことを僕が代わりに言ってあげただけだ。十八歳の男が普段は決して使うことのない、シオドキという言葉が頭に浮かぶ。何事も引き際が肝心だってこと。そう。このくらい軽い恋愛が僕にはちょう度いい。
 二月の夜気は刺すように冷たい。鼻も痛い。首を竦めながら自転車に跨った。担任教師の柔らかく生ぬるい肌に未練を覚えつつ、ペダルを踏んだ。工場の煙突から吐き出されるゴム臭いような硫黄臭いような匂いが鼻を突く。
 恋や愛はできるだけ軽いのが理想だ。
 一途で重い感情は、人の心を狂わせる。
 醜く、狂わせるから。
 灯りの射さない暗い夜道に、僕が幼い頃途方もなく躾に厳しかった、けれどいつも背筋を伸ばし立派だった父の顔が浮かんで消えた。


「遅いっ」
 玄関の扉を開けた途端、仁王立ちした陽さんが待ち受けていて僕はひっくり返りそうに驚いた。思わず一歩後退る。
「どこに行ってたのよ、もうー。お祝いするから早く帰って来てって言ってあったでしょう?」
 陽さんは本気で怒っていた。きっと腹が減っているんだろう、この人は空腹を覚えると途端に怒りっぽくなるからな、と僕は呑気に考える。
「ごめん」
 一応殊勝なふりで、頭を下げ謝った。
「どこに行ってたの?」
「あー……」
「あー、じゃない」
「田丸とさ、お祝いしてたんだ」
「は? 田丸さんと?」
 素っ頓狂な声。何だ、その反応は。
 僕は俯けた顔のまま黒目だけを動かし、上目遣いに陽さんを見た。
 陽さんは、ふんと鼻を鳴らした。
「嘘ばっかり」
「え?」
「田丸さんからうちに二度電話があったわよ。ケータイ、繋がらないって泣いてた」
「……」
 視線を逸らし、靴を脱ぎ、今や僕よりうんと背の低くなった陽さんの横を擦り抜けた。
「ずっと充電してなくってさ、ケータイの電源、切れたから」
 言い訳がましく呟いてそこから逃げる。
「ひょっとして、浮気でもしてた?」
 咎める、というよりは、寧ろわくわくといった好奇心いっぱいの表情の陽さんに訊かれたのは、クラッカーを鳴らし、乾杯をし終え、ウニの乗った鮨をひとつ頬張った時だった。陽さんの口の両脇には、爪楊枝で突ついたみたいな、小さな小さなえくぼができる。かまぼこのような形の目。華奢な白い顎。この人は、初めて会った時からちっとも歳をとっていないと思う。
「浮気っつーか……」
「浮気っつーか?」
「もう別れることになるんじゃないの?」
「え。何で?」
「だって遠距離だぜ?」
 テーブルには出前の特上鮨と、近所のスーパーで買ってきたとおぼしき揚げ物ばかりが並ぶオードブル。ジュース。ビール。相変わらず陽さんは料理ができない。こんなんでこの先大丈夫なのかね。さすがに心配になってくる。
「陽さん、少しは料理覚えたら?」
 僕の言葉に陽さんはぱっと姿勢を正し、顎を反らせた。
「いいの。料理なんかできなくても。あたしより向こうのほうがずっと家事は得意だから。全部してもらうし」
「あ、そう」
「……」
「惚れられてんだね」
「まあ、ね」
 H大の研究室に助手として残った陽さんに新しい恋人ができたのは、僕が高校三年生になってすぐのことだった。受験生の僕に気を遣ってか、陽さんはそのことを懸命に隠そうとしていたけれど、良く言えばおおらかな、悪く言えば大雑把な性格の陽さんの私生活を、一緒に暮らしている僕に隠せるはずもなかった。相手の男性が、またも陽さんより二十も年上のおっさんだという話を聞かされた時は、さすがに驚きを隠せなかったけれど。
 相手は、陽さんがお世話になっている教授の知人なんだそうだ。相手のほうの、ひと目惚れ、だったらしい。
「そっちこそ。ひとりで東京なんかに行って、大丈夫なの?」
 サーモンの淡いピンク色が、陽さんの口の中に溶け込んでいく。
 僕は軽く笑った。
「俺は料理も掃除も得意だよ」
顔をぬっと突き出すと、陽さんのかまぼこ型の目を覗き込んだ。「毎朝おいしい朝ごはんが食べられたのは誰のお陰だと思ってる? ウチがずっと綺麗だったのは誰のお陰だと思ってんの?」
「う……」
「陽さんは自分の心配だけしてりゃいいの」
 陽さんは唇を尖らせうーんと唸ったきり黙りこんだ。
 マンションの窓から見えるオレンジ色の炎。点々と煌くイルミネーションのようなコンビナートの灯り。その手前を走る新幹線のライトがふたつ、ゆっくりとこちら側へ近づいてくるのが見えた。あの向こうには海が広がっているのだけれど、夜は真っ暗な空と交じり合い、わからなくなる。
 元々は父と三人で始まった陽さんとの共同生活も、後ひと月で終わりを迎える。陽さんは結婚し、僕は東京に行き、このマンションは売りに出される。
 陽さんのほうはどうだか知らないけれど。僕は今後陽さんと連絡を取り合うつもりはない。元々僕と陽さんの間に、法律上の親子関係はないのだ。
 あと数週間で、僕と陽さんは本当の他人になる。


 三年前。中学校三年生の夏休み最後の日のことだった。
 僕は身体中に汗を滲ませながら、懸命に自分の通知表を探していた。宿題はとうの昔に余裕で終えていたのに、保護者の印鑑を押し担任に提出しなければならないそれだけが、どこをどう探しても見つからなかったのだ。陽さんがどこかに仕舞ったことだけは間違いなかった。出張中の陽さんに携帯電話で問い質してみたけれど、
「ごめん、思い出せない。ねえ、明日じゃいけないの?」
と呑気な声で応えるばかりだ。ふざけんな。うちの担任のあだ名知らないのか。ナガレだぞ。ハギワラナガレ。短気なんだよ。理不尽に怒り散らすんだよ。新学期早々あいつの喚くひょっとこみたいな唇なんか見たかねえよ。
 言ったところでどうにもならないので、そのまま電話を切って自力で探す。
 結局それは、陽さんの部屋の机の抽斗で見つかった。今はそんなことは決してしないけれど、その頃の僕はまだ陽さんの部屋に平気で入っていたのである。
「なんだよ。あるじゃん」
そうだ。最初からここを見ればよかったのだ。机の右側の上から二番目の抽斗。開ける瞬間はさすがに罪悪感を覚えたけれど、背に腹はかえられなかったし、見つかったという事実にほっとした僕からは、すっかり罪の意識は消えていた。
 ふと、目に留まったのは、通知表の下にあるB5判の茶封筒だ。
── 陽へ。
 整然とした父の字がそこにはあった。
「遺書?」
 思わず手を伸ばしひとりごちた。父は自殺したわけではないので正しくは遺言だ。どっちでもいい。僕はともかく何の躊躇いもなく、それを手に取った。
 中には一冊の日記帳が入っていた。手触りの良い布張りの、いかにも父らしい高級そうなそれを見て、うげっ、と僕は顔を顰めた。
 自分の日記なんかをあの人は陽さんに読ませんのか。自分が死んだ後に? ずい分と悪趣味だ。
 すぐに封筒に仕舞い元の位置に戻せばよかったのだ。けれど愚かで幼い僕はそれを開く。そこに並ぶ文字に心を縛りつけられることになるとも知らずに。
 呪文のようにみっちりとつづられた文字。病床で書いたのだろう、最初整っていたうつくしい字は日を追うごとに乱れ雑になっていった。
 ひと言で言えば、そこにあったのは、自分が亡くなった後の、陽さんへの猜疑だった。そして苦言。或いは懇願。
 父は病院のベッドの中で日々悶々と、陽さんと他の男が交わる姿を想像し、でき上がった妄想の産物にめらめらと嫉妬の炎を燃やしていたようだった。そうして最後には決まって、自分が死んだのち、誰かと恋に落ちることは許さないと、誰とも再婚しないでくれと、みっともなく脅したり請うたりしているのだった。
 父と交わった折に陽さんが見せた、肌の変化や声のいやらしさ、表情の細部に至るまでを思い出し、それら全てを細かに記している日もあった。
 夏の終わりの、まだ残暑の厳しい夕刻のことだった。僕はフローリングの床の上まんじりともせずそれを読んだ。正座した足が痺れていることにも気づかなかった。こめかみや首筋、背筋、腋の下に至るまで、大量の汗が流れ出ていた。
 季節外れの蝉の鳴き声が遠く聞こえた。
 何年も音沙汰のなかった叔母が、父の葬儀の日、なぜ僕に声をかけてくれたのか、僕はずっと疑問に思っていたのだけれど。その理由を僕は父の日記の中に見つけた。
 浅ましく穢い悋気の羅列だった。

 
 ケータイやデジカメで写真を撮り合いはしゃぎ回る友人達を、離れた場所から眺める。卒業式の間じゅう涙を流していた陽さんは、化粧が崩れちゃってどうしようもないからもう帰るねと、先に姿を消していた。
 さほど背の高くない、線の細い男が声をかけてきた。尾上だ。この男のスーツ姿は珍しい。一瞬誰だかわからなかったと言うと、尾上は親しげな顔で笑った。担任がはらはらした顔でこちらを見てるのがわかったけれど、もういいだろうと知らんふりを決め込んだ。もういい。もう卒業だ。
「卒業おめっとーさん」
「あー……」
「あー、って言うな」
「……」
「写真、撮らないのか?」
「見てるほうが楽しいんですよね」
「楽しい?」
「楽しいですよ。例えば、ほら、あいつはこれから試験が本番だから、時間を気にしながら笑ってる。顔が硬い、でしょ? 早く帰りたいんですよ、きっと。で、そっちのやつはもう受験が終わってるから、全開の笑顔」
「ああ?」
と、目を細め見てから、尾上は笑った。「何だ。人間観察が趣味なのか。ずい分高尚なんだな、ガキのくせに」
 ふと言い方に、皮肉めいたものを感じたけれど、気のせいだろうと思うことにした。
「じゃあ、あれは」
 尾上が顎をしゃくって差した先には、田丸と田丸がいつもつるんでいる女子数人の姿があった。こちらを見ては何やらひそひそ喋っている。
 冷たい視線。不穏な空気。女同士の団結力には太刀打ちできない。
 田丸とは何度も会い、話し合いを重ね、ようやく二日前に決着がついたばかりだった。つき合っている間は大人しく従順な女のコだった田丸が、鬼のような形相で僕を責め立て泣き喚く姿を目の当たりにして、恋愛とはここまで人の心を狂わせるものなのかと、改めてその感情の影響力に強い畏怖を覚えていた。
 三年生の二月の授業は、指定された数日を除いてほぼ自由登校だったのだけれど、学校に来るたび同じ学年の女子にああいった類の視線を向けられていた僕は、二月の最後の週を大人しく自宅で過ごす羽目になった。無論悪いのはこちらだから文句など言えるはずもない。
「お前、女子に嫌われてんだな」
「みたいですね」
「あれ? あれってお前のカノジョじゃないの?」
「元、ですね」
「何だ。別れたのか。そうか。それで、ああいう態度なのか」
「そう、です」
 くくっと、また尾上は笑った。さも可笑しそうに。ざまあねえなあ、と呟いた。
「俺はな、お前みたいなやつが大っ嫌いだったよ」
 低い声で告白された。
 尾上の側の半身が凍りついた。目を向けることはできない。尾上の発した声には僕を動けなくさせるほどの嫌悪と真剣味が充分にあった。喉元に刃物の切っ先を当てられているみたいに指先一本動かせないのに、そのくせ、いずれ尾上からそう言われるであろうことを、僕は心のどこかで承知してもいたのだ。
「大人ふたりを手玉に取ったつもりでいたんだろ? 心の内で笑っていたんだろ? バレてないとでも思ったか? とっくに知ってるんだよ、こっちはよ」
もう俺たちはお終いだ。担任教師に視線を遣り、尾上はつづけた。
「大人を甘くみたり、周りにいる人間をバカにしたり、そういう真似はもうやめろ、皆川」
 言い返すことも、もちろん言い訳めいたことも口にせず、僕はただぼんやりと前を見ていた。楽しそうに笑い合ったり、泣きながら抱き合ったりしている、元同級生達。彼らにはこれから先、この世で一番愛する人間と恋に落ち結婚するという、当たり前でありながら、僕には決して手に入れることのできないバラ色のような明るい未来が待っている。
「一体何様のつもりなんだ、皆川。お前、そうやってここにいる人間全員をバカにして楽しいか? 一生懸命なやつらをバカにして、本当に楽しいか? お前はそんなに偉いのかよ、ああ?」
 尾上の声は震え、怒りに満ちみちていた。周りにいる生徒の幾人かが怯えた顔でこちらを見ている。
「お前も少しは真剣に誰かを思ってみるんだな。そうしたら、お前が今までやってきたことが、どれほど卑劣なことかわかるから」
 尾上の言うことは最もだった。
 僕は下を向き、
「……棄てた」
と小さく呟いた。僕なりの返答、のつもりで言った。
「は? 棄てた?」
 尾上は一瞬息を詰まらせたのち、そう言った。ほんの僅かな間とはいえ、気を削がれてしまった自分自身に対し憤っているような何かを抑え込んだ口調だった。こちらを睨みつけていることも、更に怒りを膨らませていることも、尾上の顔を見なくとも、それは空気だけでびしびしと伝わってくる。
 僕は顔を上げ前を見た。今度ははっきりと、いっそ開き直った声で言った。
「棄てたから。海に」
「は? 海?」
尾上の声が裏返る。「何でここで海が出てくるんだ。お前一体何を言ってるんだ」
「だから。先生がさっきから力説してる、誰かを真剣に思う心を、ですよ。僕はとっくに海に棄てたんです」
 それだけじゃない。
 もっと大切なもの全てを、だ。
 剣呑な沈黙がふたりの距離をどんどん広げていくのがわかった。だけど他に言いようがあっただろうか。だって、それが真実なのだ。
 品のない舌打ちの音が聞こえた。顔に、唾を吐きかけられた気がした。
「皆川ー」
友人の声にゆっくりとそちらを向く。「何ぼうっとしてんだよー」
「皆川くーん。一緒に写真撮ろうー」
 ぼんやりとした顔のまま首を縦に二度振った。
 僕が一歩足を踏み出したのと、尾上が反対を向いたのと殆ど同じタイミングだった。
 心底ほっとする担任の顔が見えた。その能天気な表情に、笑っていいのか泣いていいのかわからず、僕は叫び出したいほどに混乱していた。


 読み終えた父の日記を膝上に乗せたまま、僕は長いことそこに座っていた。
 日の翳り始めた部屋に、蝉の鳴き声はもう届かなくなっていた。
 こめかみを伝った汗がぽたりと音を立てて落ち、日記帳の表紙を濡らした。
 そこだけ色濃くなった小さなシミをじっと見つめる。
 唐突に大きな空気の塊が腹の底からせり上がってきて僕の気管を内側から塞いだ。
 狂ったような叫びが部屋に響き渡る。よもや自分の口から吐き出されたものだとは思えない、獣の遠吠えのような声だった。
 僕は喚き吠えながら日記帳を部屋の壁に叩きつけた。立ち上がった途端よろめいた。足先に感覚がなかった。壁に背中をひどくぶつけ、それでも僕は声を上げながら一気に部屋を飛び出した。
 玄関先で自転車の鍵を毟り取り非常階段へと走る。
 耳の奥がじんじんと鳴っていた。きちんと真っすぐ走っているのかどうかもわからなかった。全身を、眩暈が襲う。
 がちがちと震える手で自転車の鍵を解除しサドルに跨った。駐輪場を出る間際、見知った女の人に出会ったけれど、僕は挨拶などできる状態ではなく、向こうは向こうでぎょっとした顔を返しただけだった。
 猛烈なスピードで自転車を漕いだ。閑散とした商店街を抜け、西へ向かう。途中赤信号で止まることもしなかった。駅へと通じる交差点を左に折れ、下を線路が走る山なりの橋を立ち漕ぎで上った。アスファルトの熱を孕んだ風が全身を舐めていく。すぐに下り坂がやってきた。頂点に立った一瞬だけ鱗のような波光が見えた。有り得ないスピードで橋を降りていき、赤く光る信号を無視して横断歩道を突っ切った。車のスリップする音。派手なクラクション。それでも僕は猛スピードで走りつづけた。いっそ死ねたらいい、と思った。このまま車に跳ねられ頭を強く打ち記憶を失くしてしまいたかった。
 埠頭を示す青い看板と、海が、見えた。
 砂利を載せた大型トラックが、真っ黒な煙を吐きながら自転車の横を擦り抜けていく。風圧で自転車ごと飛ばされそうになりながら、僕はトラックと競り合うつもりでスピードを上げた。トラックが通り過ぎるたび、擦れ違うたび、僕は膿んだ記憶を吐き出すように全身で雄たけびを上げていた。
 父が亡くなる前二週間の日記に、僕の名前が出ていない日はなかった。
 父は。
 僕と陽さんの未来さえ疑っていたのである。
 まだ小学生だった僕を。
 ひどい言葉で辱め、穢し、憎悪していた。
 辿り着いた埠頭の果てで自転車を乗り捨てた。
 顔が汗と土埃と涙とでぐちゃぐちゃだった。
 膝を曲げ、腰を折り、また叫び声を上げた。
 そうしなければ、身体が腐臭で、内側からびりびりと張り裂けてしまいそうだったのだ。
 僕は自分の中に潜む全てのものを、あらん限りの力で絞り出した。
 踏みにじられたと思っていた。
 人としての尊厳とかまだ芽生えていもいない性への執着とか、そういう大人になる段階で少しずつ覚えていく人間として大事なもの全てを。父の日記に打ち砕かれた。
 けれど。
 壊され、踏みにじられてもなおそれらは僕の中に存在していた。みっともなくひしゃげ、いびつな形になっても、それでも僕の中にありつづけようとしていた。
 怖かった。
 その精神の強靭さが、全身が震えるほどに怖かったのだ。
 僕は細かな破片さえも残さないように、何度も何度も海に向かって叫びつづけた。


 発つ日は朝からひどく冷え込んでいた。
 もう春だというのに、この地方には珍しく、三月の雪が舞っていた。
 首に柔らかく触れるものがあり振り返ると、陽さんがマフラーを掛けようとしているところだった。
「いらないって」
「新幹線に乗るまで。ね?」
 仕方がないので黙ってされるがままになっていた。襟元が塞がれると身体に冷たい空気が入り込んで来なくなり、冷たかった皮膚がほっとするような感覚があった。
「あったかいでしょ?」
「うん」
 陽さんの小さな顔が目の前にある。
 この人は、最後までちっとも母親らしいところのない人だった。
 強い人だと思った。何ものにも縛られない強さを持った人だった。
 もしも陽さんが、僕が持つのと同じ傷を、同じ重さと痛みで抱えてくれていたなら。僕は間違いなく、この地にいつづけようとしたことだろう。
「見送りに来るのはいいけどさ。泣くのだけはやめてくれよ、な?」
「わかってる」
 しっかりと頷きつつも喋る声がいつもより低い。今にも泣き出しそうな陽さんの顔に僕は戸惑う。
 あの日、埠頭への道を自転車で飛ばしたのと同じ寂れた商店街を、ふたり肩を並べ歩いた。風景のひとつひとつを記憶の中に納めるみたいに。ゆっくりと歩いた。
 話すことなんか何もない。
 ところどころシャッターの下りた道はやはり閑散としていて、僕らはただ黙って歩くだけだった。
 新幹線の駅のホームは人がまばらだった。
 向かいにある、下りのホームの窓の向こうに海が見えた。工場からにょきにょきと生える煙突も。
 雪は、小さな虫が舞っているみたいにちらちらと僕の視界を掠めていく。
 コーヒーの缶を両手で包み込み、ホームへ立ってからずっと押し黙っていた陽さんが、
「やめようかな」
ぽつりと言った。
「やめる?」
僕は小さな陽さんの頭を見下ろした。「何を?」
「引っ越しも。結婚も」
 目を見開いた。
「何で」
「だって、あのマンション処分したら、健、帰って来るとこなくなっちゃうじゃない」
 かまぼこ型の目を潤ませてこちらを見上げる。静かな声が聞こえてきた。
「もう、帰って来ないつもりでいるのね」
 息が苦しくなって僕は視線を逸らせた。
 海が、見える。
 三年前あの海に、棄てたはずの大切なもの全てが、今更ながら自分の中で甦ろうとしているのがわかり、僕は焦る。棄てたはずの思いなのに。破片さえも残さないように全て棄てきったはずなのに。それはやがて僕の身体じゅうの細胞を埋め尽くし、膨らみ、今にも溢れ出しそうになっていく。
 工場の煙突。吐き出される白い煙。
 遠くけぶる島が見えた。

(完)


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