Call
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 大根。あさつき。茄子。生姜。馬鈴薯、人参、玉葱も。肉じゃがには塩茹でした絹さやを最後に添えて、彩りよく。糸こん、秋刀魚、それから牛肉のこま切れも。
 オフィスに近いデパ地下の生鮮食品売り場。近所のスーパーよりも割高だけれど、食品の鮮度がいいこと、産地がしっかり記されていること、他では手に入らない凝った食材を扱っていることなどが気に入り、わたしはよくここを利用する。
 恋人の尚也なおやは、洋食よりも和食を好む。
 秋刀魚はグリルで焼き、大根おろしとぽん酢醤油で食べるつもりでいたのだけれど、新鮮なのでお刺身にしようかなと考える。沢わさびを探したけれど売っていない。チューブのわさびがまだ冷蔵庫にあったはず。今日のところはそれで我慢してもらおう。
── 芳乃よしのの料理はマジでうまいっ。芳乃と結婚したら、毎日こんなおいしいもん食えるんだよなあ……。
 いっぱいになったお腹を撫でながら言う尚也の満足そうな顔を思い出し、わたしはひとり口許を緩めた。
 明日の朝は残った野菜でお味噌汁を作ろう。お昼は近所の、開店して間もないカフェにも行きたい。
 ビールとワインは先週末に買い、きんきんに冷やしてある。
 尚也は発泡酒は苦味が薄いから嫌だと言う。缶のみで、瓶で売っていないのも気に入らないらしかった。いくらお金がなくてもこれだけは譲れないと言い張る。だからうちの冷蔵庫にはいつも瓶ビールが三本冷えている。
 そのくせ同じアルコールでも、ことワインとなるとまるで無関心だ。どこ産でも赤でも白でも全く気にならないらしい。しかもがばがばがばがば、それこそビールでも飲むみたいな勢いで喉に流し込む。ただ、冷えていないと嫌だというこだわりだけはあるらしい。以前、チリ産の赤ワインを常温で出したところ、どうして冷やさないのかと露骨に嫌な顔をされたことがあったっけ。赤ワインは常温のほうがおいしいのよと喉まで出かかった言葉を、真剣に目くじらを立てる尚也に面と向かって言うのは憚られ、わたしは曖昧に笑って呑み込んだ。代わりにごめんなさいの言葉を口に上らせて。
 大きなエコバッグがふたつ、ぱんぱんになった。これだけの荷物を持って夕方の混み合う電車に乗るのは勇気がいる。あからさまに迷惑そうな目を向ける人もいるけれど、気にしない。
 以前のように会いたいときにいつでも会える、というわけではないのだから。
 一番先頭の車両の、ドアに近い場所に立つ。
 秋の日の入りは案外早い。暗くなる時間が日に日に早くなるのが、毎日同じ電車に揺られていると手に取るようにわかる。暗くなる一歩手前の空の色を見ていると胸が締めつけられるように切なくなるのは何でなんだろう。
 尚也がここから新幹線で三時間かかる土地への転勤が決まったのは、一年前のことだった。
── 月に一度は必ず会おう。俺のとこと芳乃のとこ。交互に行き合えばいいよ。な?
── 毎日電話するよ。声だけでも聞ければ安心だろう?
 つき合って二年近く経っていたときの異動の話だった。ひょっとしたら、プロポーズされるかも、と胸弾ませたわたしに尚也は月に一度会うことと毎日電話することを約束してくれただけだった。
 そうしてわたしと尚也の遠距離恋愛は始まったのだ。


 部屋に戻るとまず服を着替え、窓を開ける。朝、出かける前に掃除機はかけておいた。シーツだって、同じく朝のうちに新しいものに掛け換えてある。
 空気を入れ換えるつもりで開け放した窓を、でもすぐに閉める。寒い。もう秋なのだ。ちょっと前まで冷房を入れていたのが嘘みたいだ。
 エプロンをつけ、小さなキッチンに立つと、雪平鍋に水を入れ火にかけた。出汁を取る。かつおぶしも昆布も件のデパ地下の乾物屋で手に入れる。
── 芳乃はさ、料理自体うまいんだろうけど。食材をひとつひとつ吟味してるところがかっこいいよな。どんな食べ物でも、産地が違うと味が変わるよな、全然。
 本当にそうだと思う。
 昆布を水に浸している間に野菜を切った。青っぽい銀色に光るさんまは、最後におろそう。
 そう考えつつも、時間が気になる。
 小さな置時計を見ながら、わたしはバッグの中に入れたままにしてあった携帯電話を手に取った。
 着信もメールもなし。
 会社を出るときと新幹線に乗るときに必ずメールをちょうだいね、と言ってあるのに。慌しかったのだろうか。急いで駅に向かって、それで忘れてしまったのだろうか。
 まさかまだ仕事が終わってないなんてこと、ないよね?
 今も会社にいるというのなら、ここへ着くのは真夜中になってしまう。
 それでもいい。尚也に会えるのならそれでも構わない。そう思いながらも、わたしはつい、携帯電話のボタンを操作していた。
 開いたカーテンをぎゅっと握りしめ窓の外を見る。真っ暗な空には星も月も浮かんでいない。遮るものの何もない視界には、ただ黒い闇が広がるばかりだ。
『── はい』
 どこか遠いところへ放り投げるみたいな無関心な低い声。携帯電話のディスプレイを見ればわたしからの電話だということはわかるはずなのに。どうして尚也はこんなあからさまに嫌そうな声を出すのだろう。
「尚也? わたし、あの──」
『何?』
「何って……」
『いま仕事中。残業してんだ。切るぞ』
「今日、第三金曜日だよ。約束の── 」
 懸命に喋るわたしの意思を電波ごと打ち砕くように、はあ? と面倒臭そうに尚也は言い放った。
『仕事中って言ってんのがわかんないのかよ。忙しいんだよここんとこ。ったく。相変わらず空気、読めねえなあ、芳乃は』
 乱暴な語気。
 あまりの衝撃にショックで固まっている間に電話は切られてしまった。
 空気が読めない。相変わらず。
 と、尚也は言った。
 呆然と耳から遠ざけた携帯電話をぱちりと閉じる。ゆっくり振り返り、狭いキッチンに視線を遣った。白熱灯の光に照らされ、今まさに活躍しようと出番を待っている食材たち。きらきらと白く光る表面とはあべこべに、底部には暗く重い影を纏っている。
 一瞬にして生ゴミと化してしまったそれらを、わたしは口を半開きにしたまま力のない目で、ただ見つめる。


 尚也の態度はある時期を境に明瞭に変わっていった。
 春になったらお花見をしようと、何度も話をしていたのに。長ったらしい言い訳をおどおどした口調でいつくもいくつも並べ立て、尚也は三月も四月もここへは来ることをしなかった。わたしのほうから尚也の元へ行くことさえも、仕事を理由に拒んだのだ。
 あれからだ。
 わたしは春以降、一度も尚也と顔を合わせていなかった。わたしの髪の色が明るい茶色から少しトーンを落とした黒に近い色になったことも、寂しさを紛らわすため、始終食べ物を口にしていたわたしの体重が八キロ増え、すっかり人相が変わってしまったことも、この部屋から以前は見えていた鉄塔が取り払われてしまったことも。尚也は知らない。
 わたしに対し最初気を遣っていた尚也の口調が、つっけんどんで横暴なものに変わるまで、さほど時間はかからなかった。
 毎日かけ合おうよと約束した電話でさえ、尚也のほうからくることはなくなった。
 かけた電話の向こう側に尚也以外の人間の気配がしたことだってある。
 それでもわたしは尚也に何ひとつ問い質せないでいる。
 真実を追及することは、ひどく愚かな行為に思えた。
 もしそんな愚行に及んだなら。この恋は、すぐにでも終わってしまうだろう。
 或いは尚也もそれを望んでいるのかもしれない。わたしのほうからこの恋を終わらせる、ことを。
 うしないたくなかった。
 来月わたしは三十一歳の誕生日を迎える。
 尚也をうしなったわたしに、新しい恋を手に入れる力はもう残されていない。
 きっと今だけだ。
 気が弱いくせに短気で、味オンチなくせに講釈ばかり垂れるかっこつけの男を、わたし以外の女が長く愛せるとは思えなかった。電話の向こうで気配だけを濃密に滲ませる新しい女は、じき尚也を見限るだろう。傷心の尚也は臆面もなくまたここを訪れ、わたしを好きだと言うだろう。
 そのときを想像し、わたしはひっそりほくそ笑んだ。
「カップラーメンあったっけ……」
 のしのしと床を踏みしめ歩き、流しの下の扉を開ける。
 きらめく新鮮な食材たちはどうしよう。三分待つ間に冷蔵庫へ片づけようか、それともベランダのポリバケツへ捨ててしまおうか。
 考えることすら億劫だ。わたしは何もかもどうでもいい気持ちになり、カップラーメンの容器を包む透明な膜を片手でぱりぱり無作法に剥いだ。

(完)

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