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─ 2009年5月 ─

 ああ、田神エリカがいるな、と。社員食堂の、少し離れた位置に座る後ろ姿を花は認めた。事務服を着た女子社員三人が、テーブルの左端に詰め座っている。一番右側の、テーブルの中央寄りに腰を下ろしているのが田神エリカだった。ふたつに分け三つ編みにされた栗色の髪。華奢なうなじと光沢のある肌。花は暫し見惚れ、そっと視線を外した。
 総務の女子社員との飲み会からすでに三週間以上が過ぎていた。
 花は今にも襲ってきそうな眠気を堪えながら定食の鯖の味噌煮を口に入れる。五月に入り、ゴールデンウイークを終えたばかりの職場は気怠い空気に満ちていた。まだ気持ち全部が仕事に向かっていないのだ。心の半分を、夏休みよりも長い黄金週間に残してきた感じ。午前中の仕事はのんびりと終えた。午後からはさすがに忙しくなりそうだったので、そろそろ仕事モードに切り換えなければならない。
「それでねえ、かっちゃんの実家っていうのが結構な田舎にあってさあ」
隣に座る美冬がきゅうりの酢の物を箸で摘みながら喋る。「親戚の人に長男の嫁だからしっかりね、なあんて言われて。ちょっと複雑なんだよねえー」
 新婚の美冬は初めて帰省した瀬戸家の空気にあまり馴染むことができなかったらしい。単に愚痴を言っているだけというよりは寧ろ本気で沈んでいるように見えて、花はどう慰めていいのかわからなかった。結婚なんてそんなもんじゃんなどとは、美冬も独身の花に言われたくはないだろう。
「長男の嫁ってなんだろうねえ。あたしはただかっちゃんと結婚したって意識しかなかったんだけど。こういう考え方って甘いのかなあー」
 ふ、っと。
 どんよりと暗い影を背負う男が花の横を通り過ぎて行った。美冬と同じ部署で働く四十代半ばの男性社員だ。苔生した岩のように陰鬱な背中を見つめながら、少しも世の中を楽しんでいないように見えるあの男にも、みんなと同じようにゴールデンウィークという名の浮かれた時間があったのかと思うと、何だか不思議な気がするのだった。
「ねえ、美冬」
「ん?」
「あの人、名前、何ていうんだっけ?」
 花は目線だけでそっと示した。美冬は気を削がれたような顔で花の目線を追う。
「ああ。鴻上こうがみさん? 鴻上さんがどうかしたの?」
「どうもしないけど」
花は味噌汁をすすりながら小声で言った。「クラいよね、あの人。仕事中もあんな感じ?」
 鴻上はトレイをテーブルに置くと、椅子に腰かけた。ちょう度、田神エリカとテーブルを挟んで座る形になっているが、いつも伏し目がちな鴻上の視界に女子事務員三人の姿は映っていないだろう。
「あーんな感じよ」
美冬はさも嫌そうな顔で言った。「クラいだけならともかく根性も、どっかねじ曲がったやつでさあ」
「そうなの?」
「話しかけてもうんともすんとも言わないし、人が仕事で失敗してあたふたしてても手助けするどころか逆に、ひひひひひ、なあんてこっそりほくそ笑んでるんだよね」
「マジ?」
「マジよ、マジ。──ねえ、それよりさ、花は休みの間どうしてたの? カレとどこか遊びに行った?」
 カレ。充のことか、と花は思った。
「ううん。どこも」
「なんだ。おうちでセックス三昧か」
 花は飲み込みかけていたご飯粒を盛大に噴き出した。
「やだ、花、きったなあーい」
 セックス三昧はそっちでしょうが、と言おうとしてやめた。瀬戸の実家に帰省していたのだから、さすがの仲良し新婚夫婦もそれどころではなかったに違いない。
「もうっ。変なこと言わないでよ、バカっ」
 顔を真っ赤にして撒き散らしたご飯粒を拾い集める花を、美冬はけけけと笑っている。あんたも相当根性ねじ曲がってるな鴻上のこと言えないよ、と花は呆れた。
「何やってるんですか、花さん?」
 葉月と連れ立ってやって来た大仲が目を丸くしながら向かいに座った。何でこのタイミングで葉月が来るの、と花は思わず泣きそうになる。
「花がいっしょに暮しているカレとゴールデンウィーク中セックス三昧だったって話をしてたのー」
 この女── 。
 言うだろうとは思ったが、本当に言った。
 花はばしっと派手な音を立てて美冬の後頭部をはたいてから憤然と腰を下ろした。向かい側に座った大仲は顔を真っ赤にして、そ、それはそれは、などと言っている。葉月のほうは敢えて見ないようにした。
「大仲と葉月は? 休みの間、どっか── 」
 美冬が言いかけてやめたのは、広い社員食堂に大きな音が響き渡ったからだ。食堂にいた誰もが一斉にそちらを向いた。
 鴻上が椅子を倒し、床に尻餅をついていた。怯えたように。後ろに突いた手と尻で、じりじりと後退っている。
 視線を田神エリカに注いだまま。大きく目を見開いて。
 社員食堂にいる数十名の動きが止まった。動いているのは驚愕の形相を張りつけた鴻上だけだ。
 鴻上の顔を初めてまともに見た、と花は思った。案外平凡な顔つきをしている。ただ、表情は尋常ではなかった。
 土気色の肌。充血した瞳。わななく唇。
 何をそんなに怯えているのだろうか。
「あ、あ、あ……、な、何で」
 そこにいた全員が鴻上の視線に導かれ田神エリカを見た。
 田神エリカは立ち上がり、皆と同じように、困惑気味に鴻上を見下ろしている。
「オレは、知らない、オレは、オレは……、あ、あ」
 後ろに突いていた手に重心をかけ四つん這いになった鴻上は、犬のように滑稽な格好でばたばたと数歩前進した。やがて壁に行き当たると、何かに縋るように手を伸ばし、壁を支えに二本足で立ち上がる。
 鴻上は田神エリカに怯えているのだった。田神エリカへの恐怖が鴻上にあんな奇妙な行動をとらせている。花は呼吸すら忘れて鴻上の一連の動きを見つめていた。
「うああ、うあ、あ……」
 あたふたと、何かに追われるように、呻き声を上げながら鴻上は社員食堂を飛び出して行った。
 しんとなった社員食堂で。鴻上に注がれていた視線はそのまま田神エリカへと向けられた。
 息を呑むほどうつくしい、ツクリモノめいた容姿の田神エリカへと。


 終業のベルが鳴ると同時に花は、
「ちょっと休憩」
 葉月に断ってから部屋を出た。
 待ち合わせたフロアのベンチで大仲は自動販売機で買ったらしいコーヒーを手に花を待っていた。昼休みのあと、花のほうからメールを送り、呼び出したのだ。
 以前、大仲は田神エリカのことを、やばいとこがあるらしい、と言っていた。そのやばい部分を詳しく話してくれないかとメールで頼んだのだ。
「花さん、田神さんと、知り合いなんですか?」
 ベンチの隣に腰を下ろすなり、怪訝そうな顔で大仲が訊ねてきた。昼休みに目にした奇妙な光景と花の唐突な好奇心。大仲も混乱しているようだった。
「知り合いっていうか」
買ったばかりのコーヒーに唇をつけながら花は言った。「知ってる人に似てるんだよね。びっくりするくらいそっくりなの。だけど名前だけが違うんだよ。だからずっと彼女のことが気になってて。で、今日のあれでしょ? 前話したとき、大仲、彼女のこと、何か知ってるみたいだったじゃん? それでメールしたんだけど」
 大仲は花の言っていることが理解できないような顔をしていた。やがて眉間に皺を寄せると不審そうな色をさらに深めた。
「なんか、変ですね」
「え?」
「みんなと逆のこと言ってますよ、花さんだけ」
「みんなと逆? あたしだけ?」
「そうです」
大仲は腑に落ちない顔で頷いた。「田神エリカを昔から知ってた人は、外見が別人みたいだって言ってるんです。それも日に日に変化していってるって」
 別人。日に日に変化。
 そんなことがあるだろうか。
「田神さんを昔から知ってる人が、うちの会社にいるの?」
「いますよ。女子社員の中に、何人か」
「彼女、ここの出身なの?」
 事務採用の女子社員は殆どが地元の人間だ。
「そうみたいですね」
 大仲は何か言い淀んでいるようだった。じっと手にした紙コップの中身を見つめている。噂話をぺらぺら喋っていいのかどうか迷っているのだと花にも伝わる顔だった。
「よくない話、なんだね」
「そうなんです」
大仲は首肯すると、「花さんが知りたいって言うんだったら話しますけど。どうせ他の人間の、例えば瀬戸さんの口から入るかもしれないし。でもあくまで噂話ですからね。真偽のほどはわかりませんよ」
「うん。わかってる」
 終業時間直後は賑やかだった職場がしんとした静けさを取り戻している。
 やや間を空けてから、大仲は口を開いた。
「自殺したんです」
「え」
「田神エリカです。未遂で済んだんですけど。どこかの山で、自家用車で練炭焚いて死のうとしたって話です」
「山?」
花の胸が騒いだ。「……どこの、山?」
「は?」
 大仲が訝しそうに花を見た。反応するのはそこじゃないだろうという顔だった。
 わか山城跡地で一斉に花びらを散らす艶やかな桜の樹の群生を、花は思い浮かべる。息を吸い、大きく一度瞬きをした。
「後遺症なのかどうなのかわかりませんけど、病院で目を覚ましたときにはそれまでの記憶を全部うしなってたって話です。記憶喪失っていうのは、僕もこの間、飲み会のあと本人の口から利いたから間違いないです。記憶がないと色々不便なんだって、割とあっさり口にしてました。女子達の話だと、失恋のショックで自殺して、フラれた原因が容姿に問題があったから、だから生き返った今、美容整形を繰り返してるんだって。そんな風に噂されてるんですけど。どうなのかな。真面目そうな感じでだったんですけどね、この前話したときは。整形を繰り返すようなコには思えないんですよ、全然」
 苦しそうな顔で話す大仲の横顔を見ながら、ひょっとして大仲は田神エリカに惹かれ始めているのかもしれないと花は疑った。いつの間にそんな仲になったのだろう。飲み会のあと、と言ったから、帰り道がいっしょだったのかもしれない。自分と葉月のように。
「彼女、両親がいないんです。養護施設で育ったって言ってました。高校も行かせてもらったし、ときどき施設に顔を見せないといけないらしいんですけど。行っても全く何も思い出せないし、記憶のない彼女を施設の人も胡散臭そうな目で見るから辛いんだって言ってました」
「大仲」
「……はい?」
「大仲、ほんとは話したくなかったんだね。ごめん。あたし、大仲がそんなに田神エリカさんと仲良くなってるなんて知らなくて。知ってる人の噂話なんかしたくないよね。ほんと、ごめん」
 大仲は思いがけないことを言われた顔で、いえ、と首を横に振った。その首が朱に染まっている。
「いいんです。それより、花さんの言った、彼女に似た知り合いの人って、今、どうしてるんですか?」
「あー。ううん。よくわかんないの。もうずっと会ってないから。だから彼女見たときはほんと、びっくりした」
 花は笑ったが大仲は真剣な顔をしていた。
「でも、田神さんは花さんのこと、知ってるみたいでしたよね?」
 花を強い視線で見ながら言った。
 社員食堂での出来事を思い出す。何かに追われるように去って行った鴻上。その背中を追いかけていた田神エリカの視線が、花を捉えた瞬間止まった。
 射るように。
 田神エリカは花を見つめた。周囲の視線は全て田神エリカに向けられているというのに。田神エリカは構うことなく小石川花を見つめていたのだ。まるで花と自分だけしかそこに存在していないかのように。


 携帯電話片手に何やら考え込んでいる葉月に、
「お先に」
 花は言い、部屋を出る。葉月は小さくお疲れ様でした、と返したけれど、視線を携帯電話から外すことはなかった。
 外に出ると、ぽつぽつと外灯の照らす構内を正門に向かい歩いた。すっかり日は落ちていて、肌に触れる夜気は秋口のように冷たい。
 足が重い。マンションのあの部屋に帰りたくない、と花は思った。
 ゴールデンウィークの間じゅうセックス三昧、などと美冬は揶揄ったが、からだを重ねるどころか、花は充と長いこと会話さえ交わしていなかった。互いが互いを避け合っているような状態なのだ。花は充の顔など見るのも嫌だと思うようになっていたし、充は花に出て行けと言われることを恐れているのか、常にこそこそと身を隠し、花がいる間は自室からから出て来ない、というのが当たり前のようになっていた。花への恋心など欠片も残っていないに等しいくせに。居住地の確保という物質的な問題だけでマンションに居座っている。充の自尊心はいったいどこへ行ってしまったのだろうか。
 孤独だ、と思った。
 野ネズミのようにこそこそと逃げ回る後ろ暗く張りつめた充の横顔。不機嫌な瀬戸美冬のあからさまな嫌がらせ。セックス三昧は、花のお気に入りの葉月がいたからこそ、故意に発した言葉に違いなかった。それから。大仲晃平の花に向けられた不審そうな瞳の色。葉月の花への無関心な態度。
 ほんの少し前まで仲良かったはずの誰もが急速に離れていくような感覚がした。
 こんな感覚は前にもあった。そう。ずっと昔。まだほんの子供だった頃のことだ。
 輪郭の薄い影を見ていると、ふと視界に白いミュールを履いた細い足首が映った。爪先がこちらを向いている。花は顔を上げた。
「あ……」
 思わず立ち竦んだ。
 小さな顔。華奢な顎。マシュマロのように白い頬。
「田神、さん」
 違う、と思い、花は愕然とした。以前見たときの顔と違っている。ほんの僅かではあるが、印象が変わっているのだ。
 より“はな”に近くなっている。
──日に日に別人みたいに変化していってるって。
 花を恐怖が包み込む。
「花ちゃん」
 心臓が止まるかと思った。
 “はな”そっくりの顔をした田神エリカに、親しみを込めた声で「花ちゃん」と呼ばれ、花は飛び上がるほど驚いた。
 田神エリカは目に涙を溜めていた。感極まったように息を呑み、涙を堪え、唇を開いた。
「花ちゃん。花ちゃんでしょう?」
 知らない。わたしはあなたを知らない。田神エリカという女をわたしは知らない。
 花は今にも喉を切り裂き飛び出しそうな悲鳴を懸命に堪える。
「花ちゃん」
 やめて──。
「あたし、“はな”よ」
 やめて、お願い。向こうへ行って── 。
 またどこかで自分は“はな”と再会する── 。
「あたし、“はな”なの。思い出したの。よかった。やっと会えたね、花ちゃん」
 嬉しそうに抱きついてくる“はな”のからだを花は振り払うことができなかった。
 予感は当たった。
 どんなに遠く逃げようとも。いかに残酷な手を使い突き放そうとも。
 わたしは“はな”から一生逃れられない── 。
 花の全身を絶望が重く支配した。

 
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