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 葉月は遠いところに目線を当てながら喋っている。怖がっている印象はまるでない。ただ淡々と。ひとつひとつの事柄を思い出しながら、丁寧に言葉を繋いでいる。
「後はもうパニックですよ。霊感が強いって俺が思ってるうちのひとりは人形に向かって遊ばない遊ばないってうわごとみたいに呟いてるし。もうひとりは口も利けずただ白い顔に脂汗を浮かべて涙を流してる。で、神社の息子は俺らの後ろで扉を叩きながら助けてくれーって叫んでるような。そんな状況でした」
「……葉月は?」
「俺は。……ただこちらを見ている黒い目が不気味で怖くてしようがなかった。そこから目が離せないでいました。生きてるんですよ。目だけが。とてもツクリモノとは思えない光を発してた」
 生きている人形の、黒々とした目の光。葉月はパーカーのポケットに手を突っ込み肩を少し縮めていた。寒いのだろう。四月とはいえ、夜の気温は低い。
「それ、もらっていいですか?」
花の手にしているペットボトルに視線を送り、言う。「喉、渇いちゃって」
「いいけど。寒いんでしょ? 何かあったかい飲み物買って来ようか?」
「大丈夫ですよ。小石川さん、まっすぐ歩けないくらい酔ってるくせに何言ってるんですか」
 葉月は笑うと、花の手からペットボトルを受け取り、口に含んだ。本当に喉が渇いていたようで、ごくごくと何度も喉仏が上下している。長い指先で青いキャップを閉め、それを自分の脇に置くと、ハスキーな声で再び話を始めた。
「……ずっと泣いてた友達が失神したんです。すごい音立てて床に倒れて。そのとき。何ていうのかな、人形がそいつを一斉に見る気配が伝わってきて。俺らバカみたいに動けなくなってた。頭空っぽですよ。白目剥いて倒れてる友達を助け起こすこともできない。ちょっとでも動いたら人形に見られるぞって、そう思うと、……もうダメでした。それだけのことがマジで怖かった。たぶん、俺ら三人とも同じ恐怖を感じてた。どれくらいそうしてたのかな。気づいたら、外の光が入ってきて── 」
 外の光。
 人工の灯りだけが点る蔵のなか、扉が開き、一条の自然な陽光が射す。その瞬間の、子供たちの安堵する表情。それは、花にもはっきりと想像できた。
「誰か、来てくれたの?」
 葉月は当時の気持ちを思い出したのか、ほっとしたような顔で笑った。
「そうなんですよ。そこの── 」
 そこまで言って唐突に言葉に詰まる。
「何?」
 花を見る葉月の目が大きく開かれた。普段表情に乏しい葉月には有り得ないくらい、驚きを全面に押し出した顔だった。
 まるで。花についている何かに気がついたかのような、見てはいけないものを見てしまったかのような顔。花もいっしょになって息を呑む。
「な、な、何よ、葉月」
 声が震える。
「小石川、さん?」
「な、な、何?」
 思わず花は葉月の腕に手を伸ばし掴まった。そうしないと自分の背後にいる、いや、いるはずのない何者かに連れ去られてしまいそうな気がしたからだ。葉月はじっと花の顔を見ているばかりで何も言わない。花は駄々っ子のように掴んだ腕を揺らした。
「な、な、な、何よ。早く言いなさいよ」
「あ、いや」
葉月は焦ったように上半身を引いた。「な、なんで。何で小石川さん泣いてるんですか?」
 泣いてる── ?
「え?」
 葉月の腕から指をはずし、慌てて目許を拭った。指先がしっとりと濡れている。
── 遊んで。
 まさか。泣くなんて。花は呆然と自分の指先を見つめる。
 恐る恐るといった様子で葉月が俯いた花の顔を覗きこんでくる。
「小石川、さん?」
「……よ」
「え?」
「どうして、急にそんな怖い話、始めるのよー」
 目の前にある肩を思い切りはたいた。ばしり、と。衣服の擦れる音が静かな公園に響く。
「え。だって、小石川さんが幽霊を信じるか、なんて言い出したりするから。だから話したんじゃないですか」
 防御の姿勢を取っているつもりなのか、両腕で顔と上半身を隠す葉月の、その二本の腕をまたべしべしと叩いた。
「だって葉月、幽霊なんか信じてないって言ったじゃない。幽霊信じてないひとの口からそーんな怖い体験聞かされるなんて誰も思わないでしょー」
「そ、それはそうかもしれないですけど」
「信じられないよ、ばか」
「ば、ばかー?」
「そうよ、ばかよ」
「ばかはないでしょ、ばかは」
「だって」
「ちょと、小石川さん、ちゃんと話し聞いてくださいよ。これには、まだつづきがあって」
 花は目を見張る。
「な、なあにー? それまだつづきがあんのー?」
「── 花?」
 ふいに背後から名を呼ばれ、花は固まった。自分の頭より少し上の位置を捉える葉月の目に、困惑の色がほんのわずかひろがるのが見てとれた。
「花、だろ?」
 一旦俯き、ゆっくりと振り返った。チェックの厚手のシャツに綿パンを穿いた男が自分を見下ろしている。
「充」
「何だ。お前、何やってんの、こんなとこで」
 そっちこそ、普段ひきこもっているくせに、どうして今日に限ってこんな時間にこんな場所にいるのかと問いたかった。
 充の視線が花から葉月へと移る。隣の男の立ち上がる気配がした。
「あ。えーと。こっち、後輩の葉月」
慌てて花も腰を上げた。「あ、あのね。お酒飲んでたら気持ち悪くなっちゃって、あたし、そこのトイレで吐いたんだよ。二回も。それで、ちょっと休んで帰ろうと思って。で、葉月に相手してもらってた。いい後輩でしょ?」
回らない頭で懸命に言葉を選びながら話す。充は、ふーんと、相槌を打ってはいるが、花が話している間中、花ではなく葉月を見ていた。花は充のほうばかり見ていたので葉月がどんな表情をしているのかはわからない。
「……じゃあ、俺、これで」
 いつもと変わらぬ葉月の声が聞こえてきて、
「あ、うん」
慌てて葉月のほうを見た。「ありがとね、葉月」
「いえ」
 普段となんら変わらない顔で頭をぺこりと下げ、葉月は花と充の横を通って行った。背の高い後ろ姿を、花は気づかないうちに、その姿が見えなくなるまでずっと追っていた。
「帰ろう、花」
「あ、うん」
 葉月が歩いて行ったのとは反対の方向へ足を踏み出す。昼間は子供達の遊び場になっているらしいジャングルジムと滑り台、砂場が一体となった遊具の横を抜け、公園を出る。小さなスナックや小料理屋が並ぶ薄暗く細いうらぶれた通り。カラオケの音がそこらじゅうから洩れ響いているのに、気持ち悪いくらい、自分と充の足音だけが耳に障った。
「小説、進んでる?」
 発した質問には、何ら期待が込められていないな、と花は自分のことながら呆れた。たぶん、充のほうは気づいていないだろうけれど。
「ああ、まあ」
「いつが締め切りって言ってたっけ? ほら、例のミステリー大賞に出すってやつ」
 別におかしなことを言ったつもりはなかったのだけれど。妙な沈黙がふたりの間に落ちた。ああ、と呟くように返事をする充の声が何だか遠く聞こえた。
「あれはダメだ」
「ダメ?」
「うん。うまくラストがきまらなくてさ……」
「そうなの? でも書くだけは書いたんでしょ?」
 充は返事をしない。顔を見たけれど、そっぽを向いていて、花と視線を合わせようともしなかった。気まずくなり視線を外す。ふたりから少し離れた先を、キジ猫が早足で横切っていった。
「もったいないね。いい線いきそうって言ってたのに。出すだけでも、出してみれば?」
「いやいいんだ。それに俺はもともと純文を書きたいと思ってたんだし」
「ジュンブン?」
「純文学だよ。だけど純文学じゃ食ってけないって、ネットなんかだとそう言われててさ。だから。ミステリに手を出してみたんだけど。なんか自分の信念を曲げてまで書くのがバカバカしくなってきたんだ」
「ふうん。そう……」
 それ以上何を聞く気にもなれなくて花は黙った。マンションのエントランスに入り、オートロックのテンキーボタンを押す。煌々とした灯りの下で改めて充の顔を見ると、頬がほんのり赤く染まっているのがわかった。何だ、充もお酒を飲みに出ていたのか。
 部屋に入ると、花はまっすぐキッチンに向かった。喉が渇いていた。公園を抜ける葉月の手に握られたペットボトルを思い出す。グラスを持とうとした手に、濡れた自分のではないハンカチが握られていて、花は何だか切なくなった。
 グラスに水を満たし、勢いよく飲んだ。
「花」
 耳に生ぬるい吐息が触れ、花はびくりと身体を揺らした。自分でも驚くくらい身体のほうが反応していた。
「何だよ、そんなにびっくりすることないだろ」
 苦笑いしながら言い、後ろから伸ばした手で花の身体を抱きしめる。首筋を舌が這っていた。花は瞼を閉じ身体をくの字に折り曲げた。
「……やだっ」
「どうして?」
「気分悪くて吐いたって言ったでしょ。飲みすぎたの。いまもまだ吐きそうなの」
 花は精一杯身を捩り、充の腕から逃れる。露骨に嫌がる花の態度に呆気に取られたのか、充はあっさりと花を解放した。
 ずりあげられたカットソーの裾を直す手が震えていた。髪の毛を整えるふりをしながら、首筋に残る充の唾液を拭った。
 ダメだ── 。
 もうダメ。これ以上自分を誤魔化せない。そう思った。
「花」
「何?」
 充の顔を見ることはできない。花は自分の身体を抱きしめるようにして、シンクのほうを向いていた。
「俺、花と別れる気、ないからな」
 ごくりと息を呑む。身体だけでなく心までもが強張り硬くなっていく気がした。
「別れる気、ないよ、俺。花と別れたら、もう行くとこなんかないし」
 脅すような言い方ではなかった。寧ろ、花に捨てられることを心底恐れている、哀れみさえ請う声音だった。
 キッチンの白い灯りの下。冷蔵庫の水が流れるような音だけが聞こえてくる。
「だけど、充」
 ゆっくりと顔だけを充のほうへ向けた。泣きそうに目尻を下げた充を見た瞬間、躊躇いが生まれた。
 悪いのは充ではない。充が仕事を辞めてしまったからとか。働かないからとか。そんなことは関係ないのだとようやく花は悟る。
 自分の心が変わってしまっただけなのだ。自分が他の男に惹かれてしまったから。
 それでも── 。
「あたしたち、もう、とっくに終わってるよ」
 言わなくてはいけないと思った。
「……」
「そうでしょう?」
 充は一瞬だけ、強い光を帯びた目で花を睨みつけたが何も言わなかった。何も言わず、キッチンを出ていった。
 花は一気に脱力し、その場に蹲る。
 明日からどうすればいいのか。この部屋で充とふたり、どんな風に暮らしていけばいいのか。まるでわからなかった。
 
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HOMENOVEL HANA