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─ 1994年4月 ─

 がたがたと震える手でスコップを握りしめ土を掘った。
 細い筋の幾つも入った薄っぺらな桜の花びらが、そこらじゅう散らばり、雑草と共に黒い土を覆い隠している。それを払うこともせず、スコップの尖端を突き立てた。
 隣には、新聞紙にくるまれた“はな”が、横たわっている。そのままの姿でもよかったのだけれど、わざわざ新聞紙で包んだのは、やはり“はな”の顔を見たくなかったからだ。それでも怖かった。怖いので、見ないように見ないようにして、掘った。
 酔っ払いの騒ぐ声が遠く聞こえる。お酒の入った人間は声がとても大きくなる。きっと、あのなかの誰も、自分がいなくなったことに気づいてはいないだろう。話に夢中になっていた。こちらも、その隙を狙って姿を消したのだから。初めからそのつもりでついて来たのだから。
 草を分け入って山の奥へと入って行った。ここにしようと決めた場所は、一本の桜の樹の下だった。
── 早く。早くしなくちゃ。
 もしも、こんなことをしていることがバレたら、間違いなく気味の悪い人間だと思われる。誰にも知られるわけにはいかない、と思った。
 焦れば焦るほど、上手くいかない。わかってはいるけれどく気持ちを抑えられない。誰にも知られないように短時間でコトを終えなければと、ただそれだけに心が行ってしまう。
 テレビで放映される二時間モノのドラマでは、山中に埋められた死体の話がしょっちゅう出てくる。みんないとも簡単に深い穴を掘り、死体をそこへ放り込む。実際自分で行ってみると、山の土を掘り起こすこと自体が、そんな容易なことではないように思えた。木の根は強く張っているし、雑草も多い。スコップは、腕を動かすたび細かな石に突き当たる。テレビなんて本当にあてにならない。ほとんど乱暴と言っていい仕草で土を掘っていった。異様に太ったみみずが千切られたばかりのふたつの身をくねらせるのに行き合っても、少しも怖くなどなかった。とにかく早く掘らなければ埋めなければと。そればかり考えていた。
「遊ぼ」
 新聞紙の中からくぐもった“はな”の声が聞こえた気がして、からだが跳ねた。ぶざまに尻もちをつき、後ろ手に両手を突いた。呼吸がうまくできない。ひいひいと乾いた声ばかりが出る。目を丸くして新聞紙に包まれた塊に目を遣ったけれど、動いている気配はまるでしなかった。新聞紙に躍る、ここ何年も世間を騒がせている事件、「ロス疑惑 ○○さん銃撃 ××被告に無期懲役」の文字がぼんやりと霞んでいく。いつの間にか下瞼に溜まっていた涙を袖口で拭った。
 気のせいだ。そんなことあるはずがない。首を何度も横に振った。
 いまにも新聞紙ががさごそ音を立て動き出すような心持ちがして急き立てられるようにからだを起こし、作業に戻った。震える指先に、真っ黒な土がこびりついていた。爪のなかも黒くなっている。気持ち悪かったけれど、今更やめることなどできない。
「遊ぼ」
 悲鳴が喉から零れ落ちそうだ。
 目を見開き黒い土だけを見つめただひたすら手を動かした。
 そんなはずはない。そんなこと。あるはずがないのだ。
 幻聴だ。
 自分はきっとおかしくなっているのだ。そう。ここ数ヶ月、ずっと追い詰められていたから。
── もう一生“はな”から逃れられない。
 そんな気持ちとも今日でお別れだ。ようやく今日で解放される。
 やがてこれでよし、と思える深さの穴が出来上がった。暫くその暗くいかにも冷たそうな穴を見つめた。自分の罪の深さや重さを、推し量ろうとしたけれど、上手くいかなかった。それも、ほんの僅かな時間のことだった。
 “はな”を抱え上げる。穴の底へ置こうとした途端、強い風が吹いた。新聞紙が捲くれ上がりそうになり、慌てて“はな”の顔に被さっている新聞紙を右手で抑えた。掌に“はな”の顔の凹凸をはっきりと感じる。
 う、う、と。嗚咽を堪えながら土をかけていった。
「どうして」
 もうお願いだから話しかけるのはやめてほしい、と思った。
「あたしたち友達だったのに。あんなに仲良しだったのに」
 そうだ。自分達は友達だった。いつもどんなときもいっしょにいた。仲の良いキョウダイのように。
 だけど自分は変わった。“はな”だけが“はな”のままだった。
 土で覆われていく新聞紙の下。“はな”の見開いた大きな目が見えるようだった。愛くるしい“はな”の目。そこを縁取る長い睫。
「ごめん、なさい。ごめ、んなさい」
 嗚咽の交じる謝罪の言葉をただぼんやりと聞いていた。手は休むことなく土をかける。もう、新聞紙の文字は見えなくなった。
 “はな”が謝ることなど何もない。そう思ったが、よく耳を澄ませてみると、それは、自分の唇から溢れ出ている声だった。ただ、本当に心からすまないと思っているのかどうか、自分自身さだかではなかった。
 大丈夫だ。“はな”は苦しくなどないはずだ。“はな”は呼吸をしていない。“はな”の目は何も見ていない。決して動くことなどできはしない。心臓だって── 。
 土を両掌で押さえならしていった。そこだけ色を変えた土をぼんやりと見る。周りにあった落ち葉や桜の花びらを掻き集めてみたけれど、何だか無理矢理つぎはぎを当てているようにしか見えなかった。
 いい。構わない。
 立ち上がり、からだについた土を払った。ずっと突いていたジーンズの膝のところだけ、土が染み込んで変色している。ごしごし擦ってみたけれど、元には戻らなかった。
 スコップを新聞紙にくるみ、持ってきた大きな紙袋に入れた。
 踵を返しそこを後にする。酔っ払いの声がまたわっと響いた。
 後ろ髪を引かれているわけではなかった。後悔もしていない。
 またどこかで自分は“はな”と再会する── 。
 そんな予感がすでに芽生え始めていた。
 感傷だ。首を横に振りながら車に戻りトランクを開ける。中に紙袋を放り込もうとして、ひゅうっと音を立てて息を呑んだ。
 新聞紙の塊があった。
 いま埋めたばかりの“はな”をくるんだ新聞紙の塊が。「ロス疑惑 ○○さん銃撃 ××被告に無期懲役」の文字が目に飛びこんできて息ができなくなった。
 どうして── 。
 唇に両手を当て後退りする。呼吸がまともにできなかった。ひゅうひゅうと息を吸い込む音ばかりが耳につく。全身が心臓になったみたいにばくばくとからだ全体が脈打っている。
 手を離れた紙袋がトランクの縁に当たり、新聞紙の塊の上に落ちた。ごつんと、やけに重い音がして、はっとなる。
 違う。
 “はな”ではない。“はな”なら、こんな音はしない。もっと“はな”のからだは柔らかだ。
 ようやく正気を取り戻し、思い出してみると、それは最初から置いてあった家族の持ち物だった。新聞紙だって黄ばんでいる。同じ文言だと思い込んでいた文字だって、ありはしない。触れると硬い感触がした。中は見なかった。トランクの縁に両手を置き、大きく息を吐き出した。
 動揺してバカみたいだと、自分で自分を笑う。
 花見客がところどころ島を作っているその継ぎ目を縫って歩く。
 明るい場所へ出た時にはもう、感傷的な後悔などきれいさっぱり拭えていた。
 皆のいる場所に戻り、何食わぬ顔で、青いビニールシートの上に座った。
 あぐらを掻いた声の大きな男が何か言い、みんながどっと笑った。何がおかしいのかわからないままいっしょに笑う。花見に来たというのに誰も桜など見てはいない。自分の背中のほんの僅か向こうに“はな”が眠っている。ここにいる誰も、そのことを知らない。
 桜を仰いだ。白い桜も照る日射しも眩しいほどにうつくしい。ついさっきまでの醜い出来事が夢のように感じられた。夢だったらいいのにと。そう思った。いや違う。いっそ悪い夢をみたことにしてしまおう。そう思い直した。
 そのまま視線を落とす。眼下に広がるのは自分達の住む小さな街だ。今日も変わらずそこにある。いくつも建ち並ぶ工場の屋根とタンクと煙突と海。海面はきらきらと、魚の鱗のように煌いている。
 目の前を桜の花びらが二枚、ひらひらと舞い降りていく。そっと手を伸ばしそれを掴んだ。
 
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HOMENOVEL HANA