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─ 2009年4月 ─

 新幹線の車内に明るいメロディが流れ始め、もうそろそろT駅に到着する頃だと教えてくれている。ほとんど爆睡中といってもいい状態だった小石川花こいしかわはなは、瞼を三分の一開けただけの眠そうな顔をゆっくりと上げた。不思議なもので、他の駅に到着する際のアナウンスでは全く目は覚めなかった。目的地に近くなると自然耳が反応してしまうものらしい。本能ってやつか? 花は思う。
「小石川さん、上着」
 隣からハスキーな男の声が聞こえ、ふああい、とあくび交じりの返事を洩らす。差し出されたこげ茶色のスーツの上衣を受け取り、首を左右に傾け軽く肩を回した。変な姿勢で眠っていた所為か肩ががちがちに凝っている。
「もう着くんだ。早いな」
「何言ってんですか。新神戸過ぎるまでは、まだ着かないのーって文句言ってたひとが」
「だって。もうちょっと寝てたい……」
「寝ててもいいですけどね。明日の朝は博多から出勤ってことになっちゃいますよ」
 開けていたノートパソコンを片づけながらさらっと言う。呆れているのか笑っているのか、嫌味なのか冗談なのかわからない声。花は肩を竦め上着に袖を通し男の向こうの窓を見遣った。トンネルを抜けたばかりだというのに、夜の帳の下りた外は暗く、景色なんかまるで見えない。花と、隣の男の横顔を映すだけだ。ひとも住んでいないような田舎。というか山の中、だ。
 株式会社K.T.化学と、社名の大きく入った封筒を覗いている後輩の葉月誠はづきまことをちらりと見た。こいつもしや、ずっとオベンキョしてたのか。感心だな。普段開発室で作業服に身を包み分析やら研究やらに没頭している姿は何やら研究者特有の偏執狂じみた匂いをぷんぷん撒き散らしていて、イマヒトツお近づきになりたくない雰囲気を漂わせているのに。こうやってスーツを着こみ書類を目にしている姿は颯爽としたビジネスマンに見えなくもない。ビジネスマンにしてはやや髪の毛が長すぎるか。葉月の耳を隠す程度に長い髪を見つめ考える。それにしてもノンフレームの眼鏡が今日はやけに知的に見えるではないか。そんなこと。いつもは思ったこともない。三日間、ずっといっしょにいたからかもしれない。葉月を今回の出張に同行させたのは成功だったと花は思っている。プレゼンは完璧だった。プレゼン、と言っても、小さな会議室で担当者ニ、三名程度を相手に自社製品がいかに優れているかを説明するだけなのだけれど。今回は都内の三社を回った。その後、幕張で行われている展示会を覗き、ヘルプをしつつ、三時間程度時間を潰した。それから新幹線に乗ったのだ。
「何ですか?」
 見られていることに気づいた葉月が顔をこちらに向けないままに訊いてきた。視線を手元の腕時計にやっている。
「いや、いい男だなと思って」
「……そりゃどうも」
 ふざけのない口調で褒めてやったのに。にべもない。
「スーツ、意外と似合ってるよね。何だか一流企業のビジネスマンに見えなくもない。普段作業服でいるのがもったいないかも」
 葉月はふっと視線だけを上げ、花を一瞥すると、言った。
「小石川さんも。フツーのOLさんに見えなくもないですよ」
「何だ。フツーかよ」
 唇を尖らせシートに深く沈みこんだ。葉月が口許を緩め笑う。
「じゃあ、一流企業のOLさんってことで」
 そこだけコドモじみた笑顔になった。
 窓の外が少しずつ賑やかになっていく。ここら辺りは工場地帯で昼間の風景は殺伐としているものの、夜になるとコンビナートや工場に張り巡らされた灯りがいくつも点り、その景色は思わず見入ってしまうほどにうつくしい。
 花が山口県のS市で暮らすのは今回が初めてのことではなかった。転勤族だった父親に連れられて、三歳から五歳くらいまでに一回と、二度目は小学校六年生から中学校二年生の夏休みまでの約三年間をこのS市で過ごした。一度目にこの市で暮らしていた頃の記憶は、花のなかには全くない。
 隣県のH大学の大学院にいたときに、院の卒業生にうちの会社に来ないかと誘われた。所在地を聞いた花は、数日悩みはしたものの、最終的にはK.T.化学で働くことを決めていた。できれば都会に出たい、というのが本音ではあった。が、福利厚生がしっかりしていて女性でもちゃんと産休育休の類が取れること、仕事さえきちんとできれば女性も出世できること、そういった前例がいくつもあること、など、長く働けそうなことが決め手となった。女性で理系で大学院までいっていると、あれこれ選べない、といった理由もあるにはあったのだけれど。
 このS市に自分はよほど縁があるのだろうと、クリスマスのイルミネーションを思わせる白い灯りを見ながら花は思う。
 立ち上がった葉月が腕時計に目を落としている。開発室では花も葉月も腕時計などしない。部屋の壁時計と携帯電話でコトは足りる。腕時計を身につけるのは時間を気にしなくてはいけないときだけだった。
「さっきから、時間気にしてるけど、デート?」
 小さな声で訊ねると、
「まあ」
と歯切れの悪い返事。
「残念だな」
「何が、ですか」
「今回葉月、大活躍だったから、褒美に居酒屋で打ち上げでもしてやろうと思ってたのに。ま、デートじゃしょうがない、か」
 言うと、葉月はじっと花を見た。レンズの向こうの。一重の切れ長の目で。
「もし本気でそんなこと言ってるんだったら、こっち断りますけどね。小石川さんだって、三日も家空けてたんだから、早く帰らないとまずいでしょ」
「……」
「まだ例のひとといっしょに暮らしてるんですよね」
「あー。うん、まあ……」
 今度は花のほうが歯切れが悪くなってしまう。
 葉月は何かまだ言いたそうに唇を開いたが、結局何も言わなかった。何も言わないまま、新幹線を下り、改札を抜け、また明日、と目だけで挨拶を交わして、同じようなキャリーケースをごろごろ引き、駅前で別れた。


 二年前、葉月が入社したとき花は二十六歳で、室内で一番若かった。次に入ってきた後輩の面倒を見るのは小石川の仕事だと言われていたので、躊躇うことなく手取り足取り仕事を教えた。葉月はぼうっとしているところもあったけれどそれは新人なら誰でもあることで、どちらかといえば優秀だった。打てば響く感触があった。
 半年くらい経った頃、仕事帰りに食事に行かないかと誘われるようになった。花は断らなかった。大抵は割勘だったが、ときに葉月のおごりだったり、花のおごりだったりした。花にとって葉月は可愛い後輩で、それ以上でも以下でもなかった。どうやら向こうはそうは思っていないようだぞと気づいたのは、休みの日にもいっしょに出かけないかと誘われたときだった。
「行ってもいいけど。あたし、いっしょに暮らしてる男がいるよ?」
 このとき一瞬だけめずらしく動揺した顔を見せた葉月は、けれどすぐにいつもの淡白な表情に戻ると、
「そうなんですか。じゃ、やめといたほうがよさそうですね」
そう言ってあっさり引いた。それで終わり。
 以降葉月のほうから花を食事に誘ってくることはなくなってしまった。それにしても葉月は淡々としている、と花は思うのだ。感情の起伏というものをあまり見せない。
 そのは、葉月にもカノジョという存在ができることもあるようだった。“も”というのは、複数回告白されおつき合いをし、結局は振られている、と聞かされているからだ。そういう情報は本人ではなく、同じ会社のコから仕入れる。出会いは大抵コンパで葉月は見てくれがいい分すぐにカノジョができるのだが、振られるのも早いという。なぜか。
「あいつ、女のコにあんまメールとかしないみたいなんっすよねえ」
 メールかよ。そんなことが理由で別れるなんて最近の若いモンは身軽だねえ。そんなこと言って、花さん、俺らとふたつしか歳違わないじゃないっすか。
 そんな会話を交わした覚えがある。
 花は携帯電話を取り出し自宅に電話を入れる。自宅の電話にはナンバーディスプレイがついていて、花の電話番号が表示されたときだけ、同居している男が電話を取ることになっている。誰も出なければいいのにとちらりちらり思うのは、最近ではもう慣わしみたいなものだった。
『……花?』
「うん」
『おっそいよ。腹減って死にそうだって』
「うん」
でもこっちは仕事だから。とは言えない。言わない。言わないように気遣っている。
 電話をかけながら歩く花に街頭のチラシ配りのお兄さんが割引券を手渡してくる。花は一旦立ち止まりキャリーケースから手を離す。飲み食べ放題。男性\2800。女性\2300。お。安い。
「ねえ、これから出て来ない?」
『ええ?』
「いまから買い物して料理すると時間かかっちゃうじゃん。ね、出ておいでよ。美味しいもの、食べようよ」
 飲み食べ放題\2800と\2300だけどな。
『いや、俺、もう出たくないから。な、コンビニで何か買ってくれば?』
「あー。そう。……うん。そうか。そうだね」
『悪いな。頼むよ』
「うん。じゃ、もう少し待ってて」
 左手で携帯の電源を切り、右手に持っていた割引券をくしゃりと潰す。
 仕様がない。
 そう思う。
 自分にはどうもつき合う男をダメオ君にしてしまう素質があるのではないか。花がそう思い始めたのは、いま電話に出たみつるという男といっしょに暮らすようになって数ヶ月経った頃のことだった。
 花は大学生のときに二度恋愛というものを経験している。二度とも相手は同じ大学に通う学生だった。
 ひとり目の相手は、花とつき合うようになって一ヶ月くらいで大学に出て来なくなってしまった。な、代返頼むよ、花ちゃん。思い出せる奴の姿といえば、その台詞を言っている際の、媚びているような、けれどどこかで花を見縊っているような、腹が立つくらい調子の良いぺこぺこ頭を下げる格好だけなのだった。まあ、元々軽い男ではあったのだ。奴が大学に出なくなって半年くらいでふたりの関係も自然、消滅した。その後奴を学内で見たことは一度もなかった。退学したのかどうかも結局花にはわからないままだった。
 ふたり目の相手とは結構長くつき合っていたように思う。ダメオ君になる片鱗が見え始めたのは、花が大学院へ行くことを決めたあたりからだった。向こうはすでに大手企業への就職が内定していた。いやあこりゃめでたいことだ、と花は内心毎日浮かれていたのだが、向こうは日々沈んでいく気配が窺えた。なぜだと訊ねる花に相手は社会に出ることが途轍もなく不安なのだと言った。いいな、君んちは金持ちで、院まで行かせてもらえるなんて羨ましいよ。そんなことまで言い出す始末だ。花はけれど、相手の話をちゃんと聞いた。迂闊な言葉で慰めたりもしなかった。結局相手は内定していた大手企業への就職を蹴ってしまった。いまにして思えば一種の成功恐怖みたいなものだったのではないかと思う。そのときははっきりと花のほうが振られた。いまでは実家に戻り家業を継いでいるらしいと、風の便りに聞いてはいる。
 充はどうだったろうか。端から花の収入を当てにしていっしょに暮らそうと言い始めたのか、或いは、花の発する何かしらの負の気のようなものが充をダメにしてしまったのか、よくわからない。ただ現在充は仕事をしていなかった。それが現実だ。
 商店街のアーケードを抜け、赤信号を点すスクランブル交差点で一旦立ち止まる。暗い夜空を仰いでみたところで星を見ることなどできはしない。この辺りは地上の明かりが賑やか過ぎるのだ。今夜は月も見えなかった。
 桜の花を耳にかけたりポケットに挿したりしているほろ酔い加減の男女の集団が目についた。そうか。もう桜の季節なんだなと初めて気づく。
 花は両掌を胸の前辺りで開き、じっと見つめた。
 なるようにしかならないよ。花は自分に言い聞かせる。
 確かに思い通りにならないことは多々あるけれど。自分は不幸などではない、と花は思う。どちらかといえば幸福だ。
 歩行者用の信号が青に変わった。花はキャリーケースのハンドルを握ると、白い縞模様のペイントの上を斜めに渡る。どこのコンビニに寄ろうかな。セブンイレブンかローソンか、それとも十時まで開いてるスーパーで割引きシールの貼られた惣菜でも買っちゃおうかな、そのほうが安上がりかも。そんなことを考えながら。
 
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HOMENOVEL HANA