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しょっぱいチョコレイト 前.
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 黒板を這う先生の指先は、まるで女性のそれのようだといつ目にしてもそう思う。
 不健康に白く細い指先。透明感のある爪。チョークの粉にまみれた指が、つらつらと文字を紡ぐ。

 近世 四つの窓口
  長崎・・・オランダ(出島)、清(唐人屋敷)

 先生が連ねる文字をこちらもノートに追っていく。平成を生きるわたしたちが教わる百年以上も昔の出来事。正直過去のことなんてどうでもいいじゃん、歴史って、受験勉強にしなくちゃならないほど、本当に必要? って。そう思う。言うと先生はむっとするけど。
「ねえねえ。チョコレート、持ってきたー?」
 後方から囁く声。相手はだけどわたしじゃない。わたしの隣に座る女子。バレンタインデイの今日、わたしがチョコレートを鞄に忍ばせているなんて、きっとこのクラスの誰も思ってやしないだろう。
 真面目でお勉強好きな優等生。お色気はゼロ。同級生たちからのわたしの評価なんて、おそらくはその程度のものなのだ。
「持ってきたよー。だっけどさー。どうやって渡せばいいっつーのー? あー、もう、やだやだ。ちょー緊張してきちゃったよー」
「ね、手作り?」
「まさか。両思いでもないのにそういうのキモイじゃん」
「まあねー」

 対馬(宗氏)・・・朝鮮
 薩摩(島津氏)・・・琉球

 指先は女性のようでも先生の書く字はそれほどうつくしくない。どちらかと言えば雑。右上がりのかくかくした字。
「あ。そう言えばさー。2-Aの松本まつもとさん、君塚きみづかにチョコレートあげるんだってー」
「えー。まじー。どこがいいのよー、あーんな無表情で冷徹な男ー。もしかして松本さんってエムー?」
 君塚。
 いま教壇に立つあの男のことだ。
 無表情で無神経。おまけに無感動で無口で冷徹で。えーと。それから他になんだっけ?
 みんな色々言ってるけど。先生はただ単に大人なだけなんだと思う。自分の感情を閉じ込めることに長けてる大人。教師と言えどもあからさまに感情を剥き出す精神的コドモは案外たくさんいるけれど、君塚先生にはそういうところがまるでない。
 愛想がないうえ厳しいから。それもまた、生徒の評判が芳しくないことの理由のひとつになっている。大抵の先生が試験を前にこことここは必ず出すからと告げる、暗黙の了解とも言うべき平均点を上げる為の大サービスを、君塚先生は決してしない。万遍なく学習しなさいなどとのたまう。若い男でありながら女子生徒にも甘くない。お色気なんか通じやしない。話しかけても冷たい返事。見下すような視線。ブーイングの嵐、嵐、嵐だ。
 ……2-Aの松本さんってどんなひとだったっけっか?
「誰? 誰よ? なあ、誰がエムだって?」
 男子生徒の声が混ざる。榊原さかきばら。おいおい。突っ込むのはそこかよ。しかも何気に嬉しそうだし。聞こえないフリを決め込んでるのに、危うく吹き出しそうになって困った。
「だけどさー。君塚って噂あんじゃん? ほら、あのムチムチちゃん」
 ムチムチちゃん?
「ああ。古典の細川ほそかわ? あーんなまん丸な身体して細川ってねえ。え? できてんの? あのふたり」
「まん丸って何だよ。俺、あの先生好き。男はね、あれくらい肉付きがいいのが好きなの。キョニュウだし。メロンがふたつ入ってるみたいなあのブラウスの膨らみ。見てみ? たまんないよ?」
「げっ。榊原、ヘンタイ。スケベ」
 エスの上にヘンタイスケベか。散々だね、榊原。
「だけど君塚モテるんだね。意外ー」
「まあ。見かけはねー。そんなに悪くないからさー」
「おい。仙道せんどう
 エスでヘンタイでスケベな榊原に突然名前を呼ばれて上半身ごと斜め後ろを振り向いた。
 な、何ですか?
 ぎょっとしてるこちらの表情が余程面白かったのか、榊原は口を広げておおらかに笑った。
「お前は? 誰かにやるの? チョコレート」
「は?」
 思わず眼鏡をずり上げた。
「誰にもあげないんだったらさ。ボクちゃんに、ちょうだいいい」
 唐突に身をくねらせ猫撫で声で言う。
 どっと笑いが起こった。わたしの席の周辺だけ。バカ榊原。何ぬかす。
「そこ。うるさいぞ」
 君塚の声。氷でも投げ込まれたみたいに教室全体がしんと冷え切った。
「榊原」
「は、は、はい」
「授業中に妙な声を出すんじゃない」
「……はい」
 妙な声。
 ぶぶぶ、って。みんな下を向き笑いを堪えてる。
「それから仙道も」
「はい」
「前を向きなさい」
 上目遣いに先生を見ながら前を向いた。
 先生は一瞬だけ視線を合わせたけれどすぐに教科書に視線を落とす。
 感情の篭らない瞳だった。
 ほんっと冷たい男だな、君塚。


「仙道ちゃーん」
 授業が終わり、黒板を消す先生の後ろ姿をぼんやり眺めていると、またもや甘い声で名前を呼ばれた。ちゃんづけでわたしの名前を呼ぶなんて。この学校じゅう探しても榊原くらいのものだと思う。エスでヘンタイスケベだからね。仕方ない。
「何?」
 頬杖を突いたまま上目遣いにじろりと見た。
「ややや。何で? 何で仙道ちゃんそんなに冷たい声になんの? ボクちゃん泣いちゃうよ」
「榊原、仙道さんに嫌われてんじゃん?」
 ぎゃはははは、と。笑い声が響いた。
 先生を視線の端でそっと追う。ぱたぱたと。あの綺麗な指先を叩き合わせチョークの粉を取り除いてる。あの程度ではしつこくこびりついた指先のチョークは全て落ちてはくれないだろう。
「チョコ。まじでほしいっす。全然持って来てねえの?」
「は? ないよ」
 何言ってんの?
「えええ。バレンタインなのに? 義理チョコも友チョコもねえの? 余分なの、一個くらいあるだろう?」
「ない」
「しつこいなー、榊原」
「ねえねえ、もしかして榊原、仙道さんに気があるんじゃないのー?」
「え? わたし、ムチムチしてないよ? ガリガリだし。ヒンニュウだし」
 また周りがどっと沸いた。先生の背中が見える。すりガラスの窓越し、廊下を歩く人影が、先生に何かしら声をかけ頭を下げるのが見えた。
「やあだあ。仙道さん、真面目な顔して面白いこと言わないでよー」
 細川先生だ。
 榊原の言ったとおり。ムチムチの、メロンがふたつ。君塚先生の顔は見えないけれど。細川先生は朗らかに笑んでいる。さっき誰かが言ってたみたいに、まん丸って感じとはちょっと違う。胸とお尻の肉づきが極端にいいだけだ。艶かしい腰の線。大人の女だ。
「俺んちはねー、毎年バレンタインにいくつチョコをもらって帰るかで家での扱われ方が全然違うわけ。今年はゼロかー。義理チョコでもいいんだけどなー」
 頼むよう。ギッミーチョッコレートっ。
 榊原の情けない声を聞き流しながら、わたしは廊下のふたりにばかり気を取られていた。
「あー。ほれほれ。あのふたり、仲睦まじいじゃん。やっぱできてるんじゃないのかなあ」
「そう? 細川はともかく君塚は変わんないよ。あたしたちに向かって日本史教えてるときとおんなじ顔してる。あんな男とつき合っても絶対つまんないと思う」
 ねえ? と同意を求められ曖昧に頷いた。
「君塚っちは大人だからさー。関係ができててもひた隠しにしてんじゃねえのー?」
 榊原が案外まともなことを言うのでびっくりした。思わず顔をまじまじと見つめる。歳相応にあどけない顔だ。視線が合うとにっと笑うその顔もまた可愛らしい。
「何だよ。仙道ー、そんなに見つめてくれちゃって。ひょっとしてチョコ、くれる気になった?」
「ならない。全然」
「ちぇっー」
「ごめんね」
「謝んなよー。余計悲しくなるじゃねえかよー」
 大人。
 そう。
 先生は大人だ。
 だからわたしも大人なフリをする。精神的に大人なフリ。それがめいっぱいの背伸びだとは決して悟られないように。本当はもっと甘えたくて仕方ないのだとは絶対知られないように。十七という年齢にそぐわない冷静さで、聞き分けのよさでもって先生に接すると、最初のときにそう決めたのだ。


 先生の指先から、チョークの粉が綺麗に拭い去られていた。日の暮れた時間。灯りを少しだけ点した部屋で、先生の指先をじっと見つめる。
「いっぱい、洗った?」
 訊ねながら口づけた。いつ唇を添わせても、先生の指先は冷えている。その指先が無遠慮に直接素肌に触れてきた。わたしは声にならない声を出す。初めてのときもそうだった。冷たい、だったか。くすぐったい、だったか。震える息を吐き出しながら懸命に冷静である風を装っていた。
「今日、チョコレート、たくさん、もらった?」
 柔らかなベッドの上、頭を巡らし、先生の机の上を見遣る。学校の名前が入った古い茶封筒の中、チョコレートの赤いパッケージが顔を覗かせているのが見えた。
「あ。結構たくさんもらってるね」
 真上にある顔が嫌そうに顰められた。
「もう、黙りなさい」
「黙りなさい?」
 くすっと笑う。その言い方何だかおじさんっぽいよ、先生、本当はいくつなの? 揶揄うように言うと先生は口許を緩め白い歯を覗かせて笑った。普段細くて吊り上がり気味な目は、笑うと目尻が極端に垂れ下がる。教室ではなかなかお目にかかることのできない表情だ。
「……黙って」
「はい」
 先生が笑顔になるとわたしも嬉しい。
「仙道は?」
 先生が耳許で喋ってる。近過ぎてくぐもって聞こえた。
「え?」
「チョコ、持ってきた?」
「うん。チロルチョコ」
「え?」
 チロルチョコ?
珍しく先生が頓狂な声をだした。
「うん。コンビニで買ったの。チロルチョコのバラエティパックだよ。あとで一緒に食べよ?」
 先生は顔をまた真上に持ってくると、細い目をさらに細くして頷き笑った。
 嘘だった。昨日の夜。見慣れないレシピと格闘しながらチョコレートケーキを焼いた。膨らみ具合の足りない少しいびつなハート型に仕上がったそれを、丁寧にラッピングし、コンビニで買ったチロルチョコと共に今日一日鞄のなかに潜ませていた。
 手作りは重い? コドモっぽい? だけど、わたしと同じ年齢の女のコたちがつきあってる相手にするような、そんな真似もしてみたくなったのだ。
 眼鏡を外された。額に瞼に頤に、先生の唇が落ちてくる。先生が始終口にしているコーヒーの匂いが強くなる。先生の舌の動きは優しくそして淫猥だ。唇を強く吸いつつ、舌と唾液を舐めるように掬い取る。キスされてるだけなのに。わたしの身体は火がついたように熱くなる。
 去年の四月。
 先生が教室に入り初めて教壇に立ったその瞬間。わたしたちは恋に落ちていた。視線と視線でわかり合えるということが確かにあるのだと。わたしはそのとき初めて知った。
 距離を縮めることに躊躇はなかった。
 先生は官舎に入っていないのでちょう度よかった。ある夜、わたしはひとり、先生の暮らすアパートへ押しかけた。
 教師だから。いつもは真面目なひとだから。もしかしたら追い返されるかも知れないという不安も微かにはあったのだけれど。
「いつ来るかと思っていた」
先生は、わたしを強く抱きしめながらそう言ってくれた。その言葉にわたしは心底救われた。好きなひとが自分と同じ思いを抱いてくれていた。これほどの幸いがあるだろうか。
 先生の舌が、唇が、チョークの粉のついていないしなやかな指先が、わたしの身体を昂ぶらせる。
「先生……」
─── 怖い。
 やがてその瞬間が近づくと、わたしはいつもそれを口にしてしまう。そのときだけ十七歳のコドモに戻る。先生の肩に激しくしがみつき、小さく叫んでしまうのだ。そんなときですら先生は決して滾らない。いつもと変わらない冷静さでもって、わたしのしなる身体を往なすように、宥めるように、優しく抱きとめてくれるのだ。

 
 先生がシャワーを浴びている間に制服を着る。わたしは浴びない。いつもそう。湯冷めするのも嫌なんだけど、まさかシャンプーや石鹸の匂いをぷんぷんさせて家に帰るわけにもいかないから。
 スカートのホックを止めながら先生の机に近寄った。
 でもただ近づいただけ。何もできない。
 先生の机、及び鞄に触れてはいけないと、それは最初にここへ来たときに交わした約束ごとのうちのひとつだった。わたしと先生の間にはいくつかの決め事がある。学校で話しかけてはいけないだとか。名前は苗字以外で呼ぶ習慣をつけないだとか。わたしたちの関係は他者にバレてはつづけられないものだから。それはそれは慎重につき合っている。
 だけど。チョコレートは気になる。古い匂いのする茶封筒に顔を近づけた。いくつ入ってるんだろう。ふたつ? みっつ? 腰を折り首を傾げ中を覗いた。おそらくどれも市販のものだと推測する。誰と誰にもらったのかな。2-Aの松本さんとやらのチョコレートはここに存在するのだろうか。
 気になる。触っちゃいけないと言われたからと、顔だけこんなに近づけた状態で、封筒の中を凝視している姿は傍から見ればずい分と不恰好に違いない。でも気になるものは気になるのだ。
 と。机の下に置かれた、先生がいつも肩に掛けている黒いナイロン製の鞄が目についた。わたしはそれをじっと見つめる。鞄のファスナーが三分の一開いて、中から茶色いリボンが見えていた。
 とくん、と心臓が強く打った。
 少しも逡巡しなかった。しゃがみ込み、ファスナーを全開していた。
 薄いベージュの包み紙。正方形の平らな箱。濃い茶色のリボンには有名な洋菓子店のロゴが入っていた。この辺では手に入らないとても高級な代物だと、それは高校生のわたしでも知っていることだった。
 どうして? どうしてこれだけ他のチョコレートとは別に鞄に仕舞ってあるの?
 わたしはそれを手に取り長いこと考え込んでいた。心臓が嫌な感じに鳴っている。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
 その正方形の塊が、すうっとわたしの手から擦り抜けていった。
 上半身だけ裸の先生が、中腰の姿勢でわたしの隣に立っていた。濡れた短い髪からはまだ雫がしたたっていた。
 先生は右手にチョコレート、左手に鞄を持つと、鞄を机の上に置き、高級チョコレートを元の場所に仕舞い込んだ。ファスナーが音を立てて閉じられていく。
 先生はゆっくりとこちらを向き、言った。
「鞄には絶対触らないって。最初に約束しただろう」
 怒っているのかいないのか。平板なその表情から真意は窺えない。
「……ごめんなさい」
 不本意ながらも頭を下げる。約束を破ったのはわたしだ。一応謝る。だけど。
 ねえ、誰からもらったの? どうしてそれだけ別に仕舞ってあるの?
 訊きたい。でも口にできない。じりじりする。
 先生は背中を向けざっくりとしたセーターを素肌に直接着ると、下はジーンズを穿いた。
「そう言えば」
「え?」
「仙道たちのクラスも、今日はバレンタインの話に盛り上がってたな」
 何を言ってくれるのかと思えばそんなこと。先生はたったいま起こったことなんかなかったみたいな口調で喋っている。こちらの気持ちは宙に浮いたままだというのに。
 先生のばか。鈍感。
「う、ん……」
「どこのクラスに行っても、今日はみんなそんな感じだったな。女子より男子のほうが浮き足だってて、何だかおかしくて仕方なかった」
「そう、なんだ」
 先生は台所に立つとお湯を沸かし始めた。
「仙道も楽しそうだったな」
 楽しそう? わたしは先生のことしか目に入っていないというのに。先生の目にはそんな風に、クラスのみんなと同化してわたしという存在が映っているのかと思うと何だか悲しくなってきた。
「あたし、目立つの嫌なんだけど。榊原がふざけるから」
「そうだな」
「……」
 先生が振り返った。じっとこちらを見つめてくる。そうしてからにこっと笑った。
「何?」
「チョコレート、くれないのか?」
「あ、うん。……待って」
「なんだ。元気ないな、さっきから」
 元気もなくなるよ。先生がきちんと説明してくれないから。泣きたい気持ちでローテーブルの前に座り込み鞄を開けた。
 紺色の鞄のなかには教科書とノートと筆箱と、携帯電話と水色のポーチ。それからチロルチョコのどっさり入ったビニール袋。さらにその下。少し渋めの赤い色の包み紙。わたしは手を止めた。動けなくなっていた。包み紙には幾筋もの皺が寄っていた。長いこと鞄に押し込められてできた皺を目にした途端、本気で泣きたくなっていた。中身だって。元々いびつなそれは、さらに醜悪になっているに違いなかった。
 きっと。
 わたしはこのケーキを先生に渡すことはできないだろう。
 あのいかにも高級そうなぴんと張った包み紙と丁寧に交差され結ばれたリボンを思う。あれと比べられたりしたらこんなチョコレート。幼稚すぎる。ひと溜まりもない。
「仙道?」
 気づくと先生がわたしの前に立っていた。マグカップ両手にいつものコーヒーの香りを漂わせていた。
「どうした?」
 笑っている。
「わたし」
「ん?」
「さっきのチョコレートが食べたい」
言うなり立ち上がって先生の鞄のあるほうへ足を運んだ。勝手に鞄を手に取りファスナーを開けた。絶対触っちゃだめだって、言われてるのに、言われたばかりなのに。
「やめなさい」
「いいじゃない」
「仙道」
「どうして? どうしてだめなの?」
「それは俺がもらったモノで、仙道のモノじゃないからだ」
「何、それ」
 構わず茶色く四角い包みを手に取った。リボンを解きばりばりと包み紙を破っていた。
「仙道っ」
 きつく名前を呼ばれて固まった。
 顔だけ振り返ると間近に先生の唇が見えた。
「……よしなさい」
 咎め立てる声ではなかった。寧ろこちらのわがままを全て理解し包み込んでくれるような、優しいと言ってもよい声色だったのに。
 それがいけなかった。わたしの一番触れてほしくない部分に障った。
 わたしは先生に向き直ると静かな声で言った。無残に剥かれ裸にされた金色の箱は、それでも高級に見えるから不思議だった。
「これって、先生にとってそんな特別なチョコレートなんだ」
「そんなことはない」
「これだけ別に、大事そうに、鞄に入れて」
「そんなんじゃない」
「誰にもらったのか、わたし、知ってるよ」
 先生は真っ直ぐにこちらを見ていた。少しも悪びれず。視線を逸らすこともなく。
 惨めだ。
 こんなわがままでコドモっぽい自分はいますぐ消えたほうがいい。
「帰る」
 チョコレートの箱を放り出すように先生に渡すと、鞄とマフラーを手に取り玄関に向かった。動揺していた。短い距離だというのに足が何度も絡まった。
 後ろから肘をぐいっと掴まれた。
「いったいどうしたんだ」
 どうした?
 先生が悪いんじゃん。わたしの気持ち、全然わかってくれないから。他のひとからもらったチョコレートなんか。大事にしたりしないでよ。
 そんな理不尽で自分勝手な甘言を、わたしはどうしても口にすることができなかった。
「帰る。帰りたいの。離して」
「仙道。ちょっと落ち着きなさい」
「嫌。ここにいてももうつまらない」
 つまらない。
 さすがに先生が目を見張った。傷ついた顔になっていた。
 わたしの唇はみっともなくわなわなと震え始めていた。自分でも止めようがない。もう泣き出す寸前だった。
「今日、細川先生と、一緒にいるとこ、見たよ」
 どうしてそんなことを口にしたのだろう。あとになって考えてみても、自分で自分の気持ちがよくわからなかった。
「みんな噂してる。先生と細川先生のこと」
「……」
「わたしも」
「……」
「すっごく似合ってるって、そう思った」
 先生が大きく息を吸うのがわかった。
 すっと。肘から先生の指先が消えていた。
 先生はそれでもこちらを見ている。真っ直ぐに。髪の毛はまだ濡れていた。セーターにジーンズ姿の先生は、学校にいるときよりもずっと若く見えるけれど。それでもやはり大人の男のひとだった。
「ねえ、先生?」
「何、だ……?」
「わたしが一生懸命にならないと手にできないもの。先生たちは、何もしなくても、持ってるんだよ?」
 何が言いたいのか全く以ってよくわからない台詞だった。先生だって応えようがないないだろう。
 わたしは部屋を飛び出し階段を駆け降りていた。
 追って来てはもらえない。きっと呆れ果てたんだろうと思う。他人のもらったチョコレートの包装紙を、勝手に、しかも感情的に開けた自分を思い出すと、顔から火が噴き出すほどに恥ずかしかった。まあ、あんなコドモっぽい恥知らずな女は愛想を尽かされても仕様がない。
 ああもう。最悪だな。最悪のバレンタインだ。
 ちくしょう。
 前がよく見えない。
 本格的に泣けてきた。


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