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しょっぱいチョコレイト 中.
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 何度振り返っても、先生の姿は見えなかった。
 大きな道に出た。街灯や行き交う車の多さで、日の暮れたこんな時間でもとても明るい通りだった。いつもは通らない道。普段は先生が車で送ってくれる。こことは違うもっと人通りの少ない道を選んで。
 眼鏡を外し涙を拭った。
─── よしなさい。
 あの包み込むような優しさの正体は何なのだろう。
 先生は、わたしの精一杯の背伸びをとっくに、いやおそらくは最初から、ずっと気づいていたんだと思う。
 大人らしい包容力と寛容さを持った先生の目に、懸命に大人のフリをしていたコドモ染みたわたしは一体どんな風に映っていたのだろうか。
 じわっと。また涙が滲んできた。
 眼鏡をかけてもう一度振り返った。
 いない。いるわけがない。きっと呆れられた。鞄の中のケータイさえも震えない。
「……仙、道?」
 先生が追いかけてくるかも知れない方向とは逆のほうから。わたしが帰ろうとしている方角から声をかけられた。
 わたしと同じブレザーを着た男のコ。歳相応にあどけない顔をした男のコだ。
「榊原……」
 榊原は別の道から出てきたのか、交差点の信号をちょう度渡りきったところのようだった。自転車に跨り、こちらを見るその目を丸くしていた。
「どうしたの。泣いてんの? お前」
「や。泣いてないよ」
 言いながらもほろほろと涙が零れ落ちてきて困った。
「えええ。ど、ど、ど。どうしたんだよ」
「いや、ほんと。大したことじゃないんだけど」
 へへ、と。涙を拭き拭き誤魔化すみたいに笑った。
「色々、ね、あるよね」
「色々」
と。復唱するみたいに榊原は呟いた。跨っていた自転車から降りる。
「大丈夫かよ」
「大丈夫だよ」
 榊原はわたしと並んで歩き始めた。泣いてる顔を見てはいけないとでも思っているのか、横目でちらりと見ては視線を逸らす。知らんふりしたほうがいいと思うのならば行ってしまえばいいものを。もしかしてほっとけないとか、そんな風に心配してくれているのだろうか。榊原って案外お節介なんじゃん、と、何だか可笑しくなっていた。
 自転車はつーつーとチェーンの音を鳴らしている。榊原は薄っぺらい紺色の学生鞄を自転車の籠に入れ、肩からは分厚い黒色のスポーツバッグを斜め掛けにしていた。
「あー。あれだな」
「え?」
 榊原がこちらを見ないままに言った。
「バレンタインにカレシと喧嘩、とか。そんな感じ?」
 足元に視線を落とす。ふふ、と笑った。
「まあ、ね。そんなとこ、かなあ……」
 ふと。自転車の音が止んだ。一旦止まった榊原の靴を見つめる。こちらは黒のローファーだけど、榊原のはアシックスの紺色のスニーカー。その紺色の足先はアスファルトの上、すぐにまた動き始めた。
「あー。そうかー」
「ん?」
「やっぱ、仙道、いたんだ。カレシ」
「……一応ね。でも、いるようには見えないでしょ? わたし、ダサいし、恋愛とか縁なさそうに見えない?」
「いや、見えるよ。カレシ、いるように見える」
「そう?」
「仙道、大人っぽいからな」
 大人っぽい。わたしが?
「あれだろ? カレシもきっとうんと年上の社会人とか大学生とか、そんなんだろ?」
 榊原をじっと見つめた。当たりと言えば当たりだ。榊原は今日の昼間も思ったけれど、結構鋭いとこがある。
「どうしてそう思うの?」
「だから。仙道、大人っぽいんだってば。なんかさ。俺らみたいなガキなんか相手にしてもらえそうにない感じ」
「わたしが?」
「そうそう」
 驚いた。
 そんな風に見えてたんだ。
「そんなこと、全然、ないんだけどな」
 榊原は遠くを見ていた。
 榊原が出てきた通りから。うちの学校の生徒が何人か現われてはわたしたちを追い抜いていく。
 そこは学校とは離れた、部活用のグラウンドがある場所だった。今頃そんなことを思い出していた。
 先生のアパートから少なからず近い場所にそんなものがあったなんて。確認するみたいにもう一度振り返ってみた。先生のアパートはもう視界には映らない。
 まあでも。ふたりでこの道を歩いたことは一度もなかった。ひっそりとこっそりと誰にもバレないように会う。そんな関係だったから。
 榊原は振り返ったこちらの行動をどう思っているのか。前を向いたままで何も訊かない。
「部活?」
「ん? そうだよ」
「こんな遅い時間まで? それに寒いよ?」
「部室でミーティングして、そのあとだらだら喋ってた」
「何部?」
「は?」
 榊原はわたしの顔をまじまじと見てから、がっくりと、あからさまな仕草で肩を落として見せた。
「何だよー。知らなかったのかよー」
「うん。知らない」
「ボクちゃんはね、テニス部なんですよ。結構、県体勝ち抜いて朝礼のときに壮行式とかやってもらってるんすけどねー……」
「え? そうなの? ごめん、知らなかった」
「いいけどさ。仙道、ほんと、俺に興味ないのな」
「ごめ……」
「ま。謝られてもね」
 榊原の苦く笑う顔を見ながら、また一段と気分は落ち込んでしまっていた。
 わたしはこの一年近く、先生のことで頭がいっぱいだった。他の男のコのことなんか全く瞳に映っていなかった。恋煩いっていうやつだ。なのに挙句がこの体たらく。情けないなあ。
「あ、そうだ。ねえ、榊原」
「ん?」
「今日、結局、チョコレートってもらえたの?」
「あー、まあねー」
「何だ。もらえたのか」
「何だって何だよ。義理だよ。義理。義理チョコね。マネージャーが部員全員に配ってた」
 あははははは、と声を上げて笑ってやった。
「そうなんだ」
「笑うなよな」
 自転車に乗った男子生徒数人がヒューヒューと口笛を鳴らしながら横を通り過ぎて行った。
「同じテニス部のひと?」
「うん。後輩。勘違いしてんな、あいつら」
 たちまち小さくなっていく背中。また。横を、今度は女子生徒が通り過ぎていった。こちらは榊原の知り合いではないのか、大人しく、風のように過ぎていった。
「榊原」
わたしは鞄を探りながら言う。「チョコレート、あとふたついらない?」
「は?」
 チロルチョコのバラエティパックと、赤い包みを取り出した。皺の寄った包み紙。先生に渡すことのできなかったチョコレートケーキ。直視できない。思い出すとまた泣けてきそうなので一気に言った。
「これさ、チョコレートケーキなんだけど。よかったらもらってくれない?」
「え」
「手作りなんだけどさ。別に榊原の為に作ったわけじゃないから、重くはないでしょ?」
「え。いや、えええ」
 榊原は明らかに退いていた。頬を引きつらせ、困惑した顔で、チョコレートの包みに目を当てている。
「家に持って帰るの、かっこ悪いじゃん。もらってよ。ついでにほら、チロルチョコもあげるから。あ、味はね、こっちのチロルチョコのほうが断然おいしいと思うんだ。ケーキなんて作ったのわたし初めてだし」
「や、やだよ、もらえねえよ。ちゃんとカレシと仲直りしろよ」
「手作りのケーキって保存料とかはいってないからさ、早く食べないとダメになっちゃうんだってば。昨日作ったから、もう今日中に食べたほうがいいと思うんだよね」
「や、だけど」
「今日中に仲直りは無理なんだよ」
 手を出してくれないので無理矢理自転車の籠に放り込んだ。榊原は相当戸惑っているようで、渋い顔になっていた。
「いいのかよー」
「いいの、いいの。よかったね。チョコレート、みっつになったじゃん。家で大きい顔、できる?」
「そりゃ、できるけど……」
「おまけに手作りだからね。自慢してよ」
「仙道、まじで大丈夫? 無理してね?」
 戸惑い気味だった榊原の瞳に、心配の色が滲んでいた。
「大丈夫だってば」
 ちくしょう。また泣けてきた。榊原が変に優しいからだ。それに。先生が追いかけてきてくれないからだ。
 またわたしは後ろを振り返っていた。いない。こんな、同じ学校の生徒がたくさんいる通りを、先生がわたしを追いかけてくるはずがなかった。それでもわたしは長いこと後ろを見て、先生の姿を探していた。
「腹減ったなー」
すっかり落ち込んだこちらの顔は見ないようにしている榊原が、不自然に明るい声で言った。「な。チロルチョコ、いま、食ってもいい?」
芝居がかった声色だ。ばか榊原。余計泣けてくるじゃないかよっ。
「あ。うん」
 わたしは自転車の籠に手を伸ばして袋を開けると、開け口を榊原のほうに差し出した。榊原は自転車のハンドルを握っていないほうの手でひとつ取って、歯と唇と指先を器用に使いながらチョコレートを口に入れた。
「うまい」
「何味?」
「え? なんだろ? あ。苺?」
榊原は顎をしゃくった。「ほら。仙道も一個くらい食えよ。腹減ってるからメソメソ泣けてくるんだよ」
「メソメソって」
「泣くなよ。こっちはどうすりゃいいのかわかんねえんだよ、さっきから」
「ごめん……」
 わたしは袋の中身を覗いた。ミルク味が食べたいなと、白黒の斑模様の包みを探したけれど、よく見えなくて、結局適当に選んでいた。気づくと頬が濡れていた。
 そんなに泣くようなことじゃないのに。
 ただの痴話喧嘩と呼べなくもない、軽い出来事のはずなのに。
 だけど。
 追いかけてくれない先生。
 電話をかけてもこない先生。
 何だか嫌な予感のようなものが、胸の内を渦巻いていた。
 それは先生の気持ちがどれほどこちらに向かっているのか疑念に思う、そんな思いもあったのだけれど、ただそれだけじゃなくて。それに伴う自分の心の変化への予感でもあったのだ。
 先生に追いかけてきてほしかった。
 大勢の前でも構わずわたしを捕まえてほしかった。
 あんな高級なチョコレート。突き返してほしかった。受け取らないでほしかった。
 あれは間違いなく細川先生からの、本命チョコだ。
 本当にわたしを好きなのならば。
 理性的でない先生を見せてほしいと思っていた。
 これまでずっと我慢してきたのに。絶対無理だとわかっているのに。幼いコドモが願うようなわがままが、こちらの望みどおりにしてほしいという勝手な思いが、結界が崩れたみたいに溢れ、押し寄せてくるのだった。
 手がかじかんでいた。不器用な動きで包みを開くと小さな四角い塊を口の中に放り込んだ。
「うまいだろ」
 うまいだろって。何自慢気に言ってるんだ榊原。元々はわたしがあげたチョコレートだ。
「しょっぱいよ……」
 二月の寒空の中、チョコレートはかちかちに硬くなっていた。口の中でゆっくりと蕩けていく甘いはずのそれは、どうしてだろう、とても塩辛い味がした。


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