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いつも手をつないで 1.
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 全部で6車線から成る国道の横断歩道を突っ切って山に向かう急な坂道を磯崎涼一(いそざきりょういち)は自転車を立ちこぎしながら登る。たった今部活を終えたばかりの脚には結構堪えるが一気に上りきる。やがて住宅街に入り、一際目立つ目的地の白い洋風の建物の前まで休むことなく両脚を働かせる。洋館の前の駐車場には沢山の赤やピンクの色とりどりの自転車と高級外車2台が停まっていた。
「きっつー・・」
 涼一は自転車から降りると少し荒くなった息を整えてから「Studio 1」というプレートの張られた扉を開けた。涼一の自室より広いと思えるようなエントランスの向こうには大きなガラスをはめ込んだ引き戸が2枚ある。涼一はエントランスに入るとまずこちらに視線を向けたふたりの中年女性に頭を下げ、靴を脱ぎ、ガラス窓から中を覗く。軽やかなピアノの音に合わせ膝を曲げたりつま先立ちしたりするレオタード姿の女の子たちのなかに、頭ひとつ分皆より飛び出したピンクのレオタードを着た少女に眼を向ける。少女は涼一に気が付くと一瞬だけ笑顔になったが、すぐに口元を引き締め踊りに集中した。
「磯崎君は、もう踊らないの?」
 中年女性のうちのひとりが声を掛けてきた。小奇麗な身なりをして、一目見ただけで裕福な家庭の人間だと分かる。
「いや、もう・・。今、陸上やってますから」
「そう。勿体無いわね。男の子の踊り手がとうとういなくなったって、先生すごく残念がってたわよ」
「・・・」
 涼一は曖昧に笑うと視線を先程の少女に戻した。
 涼一がこのバレエ教室をやめたのは1年半前の中学入学の頃だ。踊ること自体は嫌ではなかったのだが、大勢の女の子に囲まれる毎日のレッスンとタイツ姿ははっきり言って苦痛だった。それでも一緒に習い始めた幼なじみの江口果南(えぐちかなん)に引き止められてずるずると中学にはいるまで続けたのだった。
 自分は果南に甘いと思う。果南は同い年で涼一より背も高いのだが時々妹みたいに思えることがある。涼一には7歳違いの姉しかいないから本当の妹に対する気持ちがどんなものなのかは分からないのだけれど。


「出るのよ、涼ちゃん」
 昨日のことだ。果南が涼一の部屋にやって来て声を潜めて言った。
「は?」
「で、る、の」
「何が?幽霊?もうそういう季節は終わったよ」
 ちっがーう、と果南は大袈裟に首を振ると
「痴漢よ、ちかん。ヘンタイおやじが出るんだって」
 バレエ教室のスタジオワンから二人の住むマンションまでの道に一箇所だけ少し暗い通りがあるのだが、そこに自分の大切なものを可愛い女の子に触らせようとする変態野郎が出没しているのだと果南は懸命に涼一に話してくれた。涼一は果南のきらきらした瞳を見ながら先程から自分の胸に渦巻く嫌な疑念を口にした。
「まさか、俺に、スタジオワンまで迎えに来てくれって言ってんの?」
「あったりー」
「勘弁してくれよー」
 涼一は机に顔を伏せると訴えた。「いやだっ。絶対だめだ。俺、部活だけでへとへとなんだよ。そんなことしてたら絶対死ぬ」
涼一たちの住むマンションからからスタジオワンまでは3km程度なのだが、その上り坂の傾斜具合は半端ではなかった。
「冷たあい。涼ちゃん」
 果南は涼一のベッドに腰掛けると口を尖らせた。「まだ生理も始まってないのに、バージン奪われたらどうしてくれんのよ」
 涼一はぎょっとした。
「お前、俺の前でそういうこと言うのやめろよ」
「涼ちゃんの前だから言うの」
「あっ、そ・・」
 涼一は頬杖を突き溜息を落とした。


───生理も始まってない、ねえ。
 涼一はガラス戸越しに果南の凹凸の少ない鉛筆のような身体を見詰める。
───あいつ、集中力ないなあ。指先にもっと神経集中させろよ。
 果南は踊りのセンスは悪くないのだが時々注意力が疎かになっていけない、と涼一は思う。バレエは常に隅々まで神経を研ぎ澄ませた身体だけで表現する究極の芸術だ。ちょっとでも気を抜くと美しさのバランスが損なわれてしまう。果南はその辺がまだまだ甘い。
 けれど果南のあの体型はバレエ向きだと涼一は昔から思っていた。線の細さもそうなのだが、長い腕、脚、首、そして小さな顔。体型だけならこの教室に通う全部で100人近くいる生徒の中でも一番秀でている。そして生まれつきの股関節の柔らかさと綺麗な足の甲の形は先生でさえ羨ましがるほどだ。
 涼一はレッスンが最後のストレッチに入ったのを確認すると、スタジオの扉を開けて外に出た。


 果南は大きな鞄を肩から斜め掛けにして、誰よりも早く教室から出てきた。いつもは何をするにものんびりしているくせに、一応涼一に気を使ってはいるらしい。
「どうだった?あたし、前よりちょっとは上手に踊れてた?」
「集中力なさ過ぎ」
 涼一の言葉に果南はうっ、と詰まる。
「涼ちゃんにもわかるようじゃ、だめだなあ、あたしも」
 ふたりは自転車に跨るとペダルを踏む。少し漕いで次の角を曲がると急な下り坂だ。先程涼一が渡った横断歩道を通り暫く行くと緩やかな勾配に変わる。来た時と違って帰りはペダルを殆ど踏むことなく家に辿り着くことが出来る。果南の言っていた痴漢の出る暗い通りを抜け、コンビニの前を通ると後は交通量の多い明るい道沿いに出る。ふたりが通った小学校、幼稚園を横目に過ぎる。幼い頃いつも手をつないでふたりで通った道だ。左手には新幹線の高架橋が続く。その下を貨物列車が走っていた。
 少し前まであんなに暑かったのに、肌に当たる風はもう冷たい、と涼一は半袖を着て来たことを少し後悔した。



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