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いつも手をつないで 2.
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 マンションの駐輪場に着くと
「ねえ、ご飯食べたら後で一緒に宿題しよ?」
 無邪気に誘う果南に涼一は苦い顔になる。
「やだよ。何時になると思ってんだよ」
 果南は涼一の顔を覗き込んだ。
「涼ちゃん、やっぱり、この前うちのお母さんが言ったこと気にしてるんだ」
 涼一はそれには答えず、エレベーターに乗ると、10階と13階のボタンを押した。果南は構わず続ける。
「あれから涼ちゃん、うちに来ないもんね」
「・・・」
「涼ちゃん」
「ほら、着いたぞ、降りろ」
 むっとした顔の涼一に果南は少し気後れした感じで黙って降りる。
「今日は迎えに来てくれてありがと」
「うん・・。じゃ、な」
 エレベーターの扉が閉まったので果南は話すのを諦めて笑顔を作って手を振った。


「果南、涼ちゃんとふたりでいる時はドア、開けときなさい」
 2学期が始まって間もなくの事だ。ふたりで果南の自室にいる時に唐突にドアを開けて入ってきた果南の母親にそう言われた。初め意味が分からずきょとんとしていたふたりだったが、その意味を察した涼一はかあっと顔が赤くなるのが自分でも分かった。辱められたというほど大層なことではないのかも知れないが、それでもその言葉とその時の果南の母親の険のある眼差しは涼一の心をざらつかせた。そして、5年前に家を出た涼一の母親を思い出させた。


 果南の母と涼一の母は、今住んでいるマンションが出来た13年前に知り合い、お互い同じ歳の子供がいるということもあって親しくなっていった。毎日公園で遊び、休日には一緒に家族でキャンプに出かけたりしたこともあった。幼少時代の殆どの時間を果南と涼一が共有しているのはそういった事由からだった。7歳違いの姉よりも涼一は果南と過ごす時間のほうが多かったのだ。その頃のことを考える時、決まって思い出すのは陽だまりの中の土と草木の匂いだ。一日がとてつもなく長く穏やかな時間だったと思う。
 涼一が小学校に入ったと同時に母が外に働きに出始めた頃から少しずつ事情が変わってきた。元来が自由奔放な性格だったのかもしれない。20歳の時に姉を産んでからずっと家の中に閉じ込められていた反動からか母は急激に女性の香りを漂わせるようになった。母の変化は幼かった涼一にもはっきりと分かった。家の中には父と母の諍いの声が絶えなくなり、江口家との交流も全くなくなっていった。
 結局父と母は涼一が9歳の時に離婚した。
 後で知ったのだが、母の浮気は一度や二度ではなかったらしい。果南の母がそのことを知らない筈はない。そして涼一の顔立ちは、その母に年を追うごとに似てきているのだ。


「ただいま」
「おかえり、涼一君」
「あ」
出迎えてくれたのは姉の友人の永田理恵子(ながたりえこ)だった。「こんばんは」
 言いながら涼一はちょっとだけ頭を下げて彼女の横を通り抜けて自室に入る。なんとなく眼を合わせ辛い理由が涼一にはあった。すれ違った理恵子の身体からは、微かにコロンの香りがした。
 永田理恵子は短大卒業後、銀行に就職した姉の同期入社の友人だ。時折こうして仕事の後にこの家に遊びにやって来る。
「涼一、こっち手伝って」
 台所から呼ぶ姉の声がした。夕食の仕度をしているらしい。涼一はダイニングに行くとそこで初めて理恵子と目を合わせた。理恵子は白いニットのカットソーに濃い茶色のロング丈のスカートを履いていた。理恵子は小柄で細いのに胸の膨らみだけは豊かで、涼一はいつも目のやり場に困る。今日の服装は特にその部分を目立たせていた。
 涼一は微笑みかける理恵子から目を離すと姉の由貴(ゆき)がカウンターに用意した煮物の入った器や箸などをテーブルに移した。
「ちょっと、由貴。涼一君、目、合わせてくれないよ」
───な、何言い出すんだ、この人っ・・。
 涼一は焦ってコップを落としそうになった。由貴はぷっ、と吹き出すと、
「セイショウネンは照れ屋なんだから、からかわないでよ、理恵子」
「セイショウネン・・」
「姉ちゃん、変なこと言うな」
「だって、ほんとのことじゃん」
 由貴は含み笑いを涼一に送る。涼一はここは黙っていたほうが得策だと考え、仏頂面で口をつぐんだ。
 今日の夕食は姉の手作りの南瓜の甘辛煮と豚肉のしょうが焼きと野菜サラダ、買ってきた惣菜のほうれん草のごま和えだった。料理は殆ど姉がする。母が家を出た時からずっとそうだった。両親が離婚するまでの数年間一時的に生活態度が荒れたこともあったが、離婚が正式に決まった後は
「あんな人はこの家にいないほうがいいの」
と清々した顔で言ったのを涼一は今でも時折思い出す。
「涼一君は、本当に綺麗な顔してるのね」
 食事の途中でいきなり理恵子が顔を近づけてそんなことを言った。涼一は顔を背けると
「いや、もう・・」
 そういうことを言うのは止めてください、と続けようとしが声にならなかった。理恵子の人差し指と中指がそっと涼一の頬を撫でる。理恵子はうっすら笑っていた。由貴はキッチンに立ってカウンターの向こう側にある冷蔵庫からビールを取り出していて、こちらの様子は見えない。理恵子の指が動けなくなった涼一の唇をなぞる。涼一は自分の血液が身体の一箇所に集中するのを自覚した。
「涼一はお母さんにそっくりなんだよね」
「へえ。由貴はお父さん似?」
理恵子は手を戻すと、何食わぬ顔で由貴と話を続ける。「そういえば由貴のお父さんって見たことないね。いつも遅いの?」
「そう。典型的な仕事人間。だからお母さん、逃げちゃったのかなあ」
 二人の会話は涼一の耳には全くはいらない。涼一は理恵子の手元を盗み見ながら、考える。誘惑されているのか、からかわれているだけか。
「ごちそうさま」
 身体の熱が収まったのを確認してから、涼一は立ち上がると自分の部屋に戻った。これ以上理恵子と一緒にはいられないと思った。


 涼一はベッドに突っ伏して思う。果南の母の懸念は最もだと。ここのところ、身体と心に起こる変化を涼一は自分自身持て余していた。特に涼一を苦しめているのは夜毎見る卑猥な夢だ。覚醒している時でさえ夢想する。そんな時現れるのは決まって今家にいる永田理恵子だ。
 いつまでも幼い子供のままではいられない。
 そして、この自分の異変を果南にだけは知られたくない、と涼一は思った。


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