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いつも手をつないで 10.
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 果南の細く長い指先の感触は幼い頃のそれとは違っていた。
 自分達は幼なじみだが、手を繋いで帰ったあの日、自分の胸に込み上げてきた思いは幼い子供が持つような他愛のない正義感や依存心などではないと涼一は感じていた。だからと言って、全てを曝け出して相手を求めるような欲望とも違っていて、涼一自身つかみ所がなく厄介だった。
 涼一に手を引かれて黙って歩いていた果南が、ふたりの住むマンションが見えるところまで来た時不意に口を開いた。
「・・・好き。涼ちゃんが好き」
 堪らず言ってしまったという風な微かな消え入りそうな声だった。
 涼一は振り返って果南を見る。
「俺も好きだよ」
 果南の瞳が揺れていた。涼一は繋いだ手を更に強く握り締め再び歩き始めた。
 それだけだった。
 あれからそのことにはひとことも触れないままふたりはいつも通りに過ごしていた。


「明後日だね。文化祭」
 果南が弁当箱をパステルカラーの水玉模様の袋の中に仕舞いながら言う。
 夏服のセーラーの白い袖から伸びる細長い腕。日焼けしていない白い肌は眩しいくらい美しかった。
「やっとだよ」
涼一は苦笑した。「客、入るかな・・・」
 涼一たちのクラスのホストクラブ改めホスト喫茶は、意外にもすんなり生徒会の許可が下りた。遊ぶ時はしっかり遊び、学ぶ時はきちんと学ぶ。それがこの学校のモットーだと生徒会長は弁舌していた。
 今回注目を浴びているのは3年生の男子生徒によるシンクロナイズドスイミングだ。整理券はあっという間に捌け、1回だけだった公演が午前、午後の2回に増えた。地元のテレビ局も取材に来るという話だ。
「これ終わったらやっとバレエに集中できるだろ?」
 放課後、文化祭の準備に追われていたここ二週間、果南は学校から帰った後スタジオワンに行きバーレッスンだけ先生から個人的に指導してもらっているということだった。
「うん。でも、楽しかったよ。今までこういうのあんまり参加してこなかったから」
「そっか」
「クラス委員やってよかったって思ってる」
「うん・・・」
予鈴の音と共に涼一が立ち上がると
「あのね、涼ちゃん」
 果南が涼一を見上げ躊躇いがちに言った。
「なに?」
「あたし、来週から笹野さんたちと教室でお弁当食べる」
「・・・」
「前から誘われてたんだけど、来週からそうしようと思ってる」
「そっか。よかったじゃん」
「この前、誰とも仲良くしたくないって言ったけど、あれ、やっぱり嘘だね」
果南は照れたように微笑む。「誘われて嬉しかった」
 涼一が頷いて去ろうとすると
「涼ちゃん、ありがとう」
 果南は思いつめたような声で言うとベンチから立ち上がった。涼一は驚いて振り返る。
「なんだよ、これでお別れみたいじゃないか」
「あのね、この前言ったこと、忘れてほしいの」
「忘れる?何を?」
 掠れた声で訊き返した。
「好きって言ったこと。・・・取り消すから」
 涼一は正面まで近寄って果南に向き合うと
「俺は取り消さないよ」
きっぱりと告げた。「なんでお前は取り消すの?テキトーに言っただけなの?」
「ちがう。そんなことない」
果南は首を横に振ると「でも、あんなこと言って、涼ちゃんが困ってると思ったから」
「困る?俺が?なんで?」
 涼一の心臓は早鐘を打っていた。それを隠して冷静な声で訊ねる。
「だって、涼ちゃん、つき合ってるひとがいるでしょ?年上の綺麗なひと」
「・・・」
 涼一は言葉を失い真っ直ぐ見詰めてくる果南から目を逸らした。口内が急速に渇いていく感じがした。果南は困惑しているように見えた。
「いつだったか土曜日に涼ちゃんが綺麗な女のひとの車に乗ってくのを見たことがあるの。涼ちゃん、次の日おんなじ服着て帰って来てた」
 涼一は片方の靴の先でコンクリートの地面をこつんこつんと蹴る。その足先を見詰めながら、しかし、頭の中は真っ白だった。
「あのひと、涼ちゃんのカノジョなんでしょ?」
 いや、ちがうよ、あのひととは身体だけの関係なんだ、とは口に出来なかった。
「そんなひとがいるのに・・・」
 果南はそこで言葉に詰まった。
───そんなひとがいるのに?
 そんなひと、とはひと晩一緒に過ごしてセックスまでするひと、と言う意味か。いるのに、の後に続く言葉はなんだろうかと涼一は考える。そんなひとがいるのに自分にまでちょっかいを出すなんて、なんて女たらしなんだと暗に批判されているのだろうか。
 果南が理恵子の存在に気付いているとはよもや思いもしなかった涼一は、表面上は冷静に見せていたが心の中ではみっともないほど狼狽えていた。
本鈴が鳴った。
 果南は涼一の横をすり抜けて行こうとした。涼一はその腕を捕まえる。
「涼ちゃん・・・」
「行くなよ」
「でも、授業が」
「行くな」
 涼一は今決着をつけてしまわないとダメだと思った。今全てを話し、全てを聞いてしまわないとずっと同じことの繰り返しになってしまう。
 けれど果南は教室に戻りたがっているような仕草を見せた。ふたりで授業をサボって再び噂になるのを恐れているのかもしれない。
 涼一がそのまま黙っていると果南は掴まれた腕を見て訴えた。
「涼ちゃん、怖いよ」
その顔は今にも泣き出しそうだ。「涼ちゃんがそんな顔したら、あたしどうしたらいいのかわからなくなる」
 涼一は腕を放した。
「あのときもそう。あの後もそうだった。涼ちゃんずっと怒った顔してあたしのこと睨んでた」
「睨む?俺が?果南を?」
 あの時、とはキスをしたときのことだろうか。
「涼ちゃんじゃないみたいで、怖くて、どうしたらいいかわからなかったんだよ。涼ちゃんがなにか言ってくれるのをずっと待ってた」
 涼一の身体からすうっと力が抜けていった。涼一はベンチに腰を降ろすと両脚に肘を突いて掌をこめかみに当てた。
「果南、お前は俺をちっともわかってない・・・」
 距離を縮めたつもりなのに、近づくとそこにあるのは温度差だった。果南は自分を好きなのか。それとも甘えたいだけなのか。果南が欲しているのはただ優しいだけの涼一なのかもしれない、と悄然とした。
「もう、戻れよ、教室に・・・」
 低く告げると、
「いやっ」
 果南は強く言い返した。
「ムキになるなよ。教室に戻りたいんだろ?さっきから気にしてるじゃないか」
「・・・」
「もう、いいよ」
「よくないよ。ちゃんと言ってよ。わかってないってどういうこと?」
 涼一は目を閉じると思い切って口を開いた。
「あのひとは、恋人とか、カノジョとか、そんなんじゃない」
「でも・・・」
「ただ、するだけの相手なんだよ」
言う必要のないことを喋っている、と頭の片隅で自覚していた。「好きなのはあの時も今も果南だけなんだ。だけどあのひととはずっと、その為だけに会ってる」
 見上げると果南は普段と変わらない表情を浮かべていた。
「え・・・」
「言ってる意味がわかんない?」
 口元に思わず嘲りの笑みが浮かぶ。あまりにも純粋な目の前の女にわざと汚いものを見せつけてやりたいような苛虐的な気持ちが沸いてきた。生理が始まったばかりのコドモに男の性がわかるのかよ、とひどいことを考えていた。
「セックスするだけ、ってことだよ」
「・・・」
 果南は目を大きく見開いて涼一を見た。
「果南が好きって言ってるのは多分上っ面だけ優しくていい子の俺だよ。心の中はいやらしくて浅ましくて、そんなんでぐちゃぐちゃなんだ」
果南の唇が震えているのに気が付いたが涼一は止められなかった。「お前が怖いって言った俺のほうが、本物の俺なんだよ。わかる?」
 果南の口元が微かに歪んだが目に涙は浮かんでいなかった。
「もう、教室に戻ったほうがいいんじゃないの?」
「・・・優しい涼ちゃんは偽者だって言うの?」
「え?」
「本物の涼ちゃんって何?ここで一緒にお弁当食べてくれた涼ちゃんは偽者なの?あたしになにかあったら助けてくれる涼ちゃんは偽者なの?」
「・・・」
「怖い涼ちゃんが嫌いだなんてあたしひとことも言ってないよ」
「果南・・・」
「だけど、今の話は、すごく、ショックだった」
 果南は息を継ぐようにそれだけ言うとゆっくりと歩いてドアの向こうへ姿を消した。
 涼一は暫く閉じられたドアを見詰めていたが、溜息をひとつ吐いてそれから空を仰いだ。全てを吐露してよかったんだというすっきりした気持ちと、やはり言うべきではなかったと後悔する気持ちとが胸の内側で交錯していたが、断然後者の思いのほうが強かった。
 涼一の淀んだ気持ちとは裏腹に空には白く軽やかな雲が幾つも浮かんでいて、穏やかな風に乗って流れていた。


 授業開始から15分遅れて教室に戻ると果南と自分の席だけがふたつ並んでぽっかりと空いていた。呆然と立ち尽くしたまま果南の机を見詰める涼一に級友と教師の視線が集中する。古典の若い女教師は遅れてきたことに対しては何も言わなかったが、早く着席するように促した。
 果南はそれから更に10分遅れて教室に入ってきた。その顔は別段落ち込んだ様子もなくただ教師に対して申し訳なさそうに
「遅れてすみませんでした」
 そう言ってから席に着いた。


「さっきのは一体何なんだよ。お前と江口、どうなってんの?」
 広瀬達也が放課後文化祭の準備をしている涼一に話しかけてきた。涼一は細かい飾りを作っていた手を休めると座っていた椅子の背もたれに深く身体を預けた。
「達也、付き合ってるコいないっていってたけどさ、好きなコはいる?」
「なんだよ。急に。どうせ俺はお前と違ってモテないよ」
 涼一は達也にだけは理恵子のことを話していた。由貴に対するアリバイ作りにいつも名前を借りていたのだ。
「いないの?」
「いるけど」
 むっとしたように答える。
「家で自分でやるときにさ、そのコ、オカズにしたりする?」
「はあああ?お前何言ってんの?」
 達也は無様に動揺していた。真っ赤になった顔は男の目から見ても可愛く、なんでこいつがモテないんだろうと涼一は疑問に思う。
「しないよな」
「しないけど」
「それとおんなじだと思うんだけど」
「何?あのおネエさんのこと?」
達也は目を細めると「お前、言ってること最低だぞ」
「最低だな・・・」
「モテるからってそんなこと言ってるといつかバチがあたるよ」
───もうあたってるよ。
 涼一は深く息を吐くと身体を起こして再び手を動かし始めた。
 達也は眉間に皺を寄せて涼一の表情を探るように見る。
「まさか、江口におネエさんのこと話したの?」
「・・・話した」
 うわっ、と達也は座っている椅子から立ち上がると
「ほんっと、お前最悪だぞ、それ」
 大声で非難した。
「そうなんだ。ほんと最悪なんだよ」
 果南はあの後、そのことには一切触れず涼一にいつもの調子で話しかけてきて涼一を驚かせた。
 軽蔑している表情も怒っている素振りも全く見せない。そして好きだと告げたこともやはり取り消されたようだった。
 結局何も変わらなかったのだろうか。
 涼一は真っ赤になって動揺している達也を揶揄いながら、ひたすら手先を動かすことに集中していた。



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