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いつも手をつないで 12.
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 涼一が以前そうしていたようにマンションのエントランスで理恵子の部屋番号を押すと
「どうぞ」
 昼間の電話とは一転した優美な声が返ってきてオートロックのガラス張りの扉が開いた。
 重い足取りでエレベーターに乗り込む。
 理恵子は玄関のドアを開けるといつもの余裕のある笑顔を涼一に見せた。きちんと化粧を施したその顔を見て本当に綺麗なひとだな、と改めて涼一は思う。確かに果南の言ったとおり、身体だけでなく、このひと自身に惹かれていた時期もあったのだ。
 理恵子は着替えもせずに涼一が来るのを待っていたようで、学校で見たときと同じ白のサマーセーターに小花柄のスカートという服装だった。
「絶対来ると思ってた」
 そう言って扉を閉じると直ぐに涼一の首に抱きついて来た。久しぶりに絡み付いてくる理恵子の身体からは甘い女の香りがして涼一の理性を刺激する。涼一は込み上げてくる欲望と葛藤しながら、ここへ来るまでに考えてきたシナリオどおりの言葉を発した。
「やめてよ、理恵子さん。俺直ぐに帰るよ。カノジョが下で待ってるんだ」
 わざと冷めた声音を作った。
 驚いたように身体を離した理恵子は涼一の瞳を見詰める。
「嘘」
 辟易ろいだ声だった。
「嘘じゃないよ」
「・・・」
「姉ちゃんに何もかも話すって言ってたけど、それでも構わないと俺は思ってる。今日はその覚悟で来たから・・」
 理恵子は少し何かを考えているような仕草を見せたが、すっと離れると涼一に背中を向け玄関から入ってすぐのキッチンの椅子に腰掛けた。涼一は靴も脱がないで狭い玄関に佇む。
 涼一は理恵子が離れてほっとすると同時に軽い未練も感じていた。おそらく自分があの嫋な身体を抱きしめることは二度とないだろうと思うと名残惜しさを拭えない。
 理恵子は長いメンソールの煙草を取り出して銜えたが、火も点けずに細い指に持ち直した。涼一の目を見ることはしないで訊いてきた。
「カノジョって今日一緒にいたあのコ?」
「うん」
「いつから付き合ってるの?」
「ここに来なくなるちょっと前」
「もうすることしたってわけ?」
「うん。したよ」
 涼一は平気な顔で嘘を吐き相手を傷付ける自分に驚いていた。
「そんな風なコには見えなかったけど・・」
 理恵子はもう一度煙草を口にすると火をつけた。ベージュのグロスの塗られた唇から吐き出される紫煙を見詰めながら、涼一は、初めてこの部屋でそれを肺に吸い込んだときのくらくらする程の快楽を伴った、軽い眩暈のような感覚を思い出していた。
 この部屋は、いつも自分の位置する世界とは異なった淫靡な雰囲気に満ちていた。だから自分はここに足を運ぶことをやめられなかったのだ。けれど果南を再び近くに感じるようになって自分の中での魅力あるものは一転してしまった。
「ここへ来てるってことは、私とのことも話したってことよね?」
「うん。話した」
 理恵子は涼一の言葉にぷっと吹き出すと
「信じられない。ばかね」
煙草を挟んだ指を口元に当てたままくすくすと笑う。「隠れて続けることもできるのに、そうしようとは思わなかったの?」
 理恵子の初めて見せる言葉とは裏腹の弱々しい、そしてその奥に潜む未練がましい口調に涼一は居た堪れなくなる。
「もう、終わりにしたいんだ」
 からからに渇いた喉から、その言葉をやっと吐き出した。それは考えてきた脚本に沿った台詞ではなく、今の涼一の本音だった。こんな自分みたいな男に縋って来る理恵子を見たくはないと思った。
 その言葉に理恵子の顔からすうっと笑みが消え目尻が引き攣るのを涼一は認めた。
「いいわよ、終わりにしてあげる」
 震える指先で煙草を灰皿に押し付けると、ずっと目を合わせなかった理恵子が睨むように涼一の顔を見据えた。涼一がその顔から視線を逸らすと、いつも理恵子の使うブランド物のパールピンクのライターが飛んで来てその頬を掠めた。金具の部分で擦れて左頬に鋭い痛みが走る。
「終わりにしたかったら別の男のコ連れて来なさいよっ」
理恵子は激しい音をたてて椅子から立ち上がると叫ぶように言った。「涼一君と同じくらいかっこよくて、優しくて、セックスの上手なコっ、今すぐここに連れて来なさいよっ」
 あまりの醜悪な台詞に涼一は呆然とする。
「・・理恵子さん。それ、本気で言ってるの?」
「本気よ」
「理恵子さん、カレシいるんでしょ?なんで、彼とちゃんと向き合わないの?なんで、別のひととそんなことしようとするの?」
「あんたに言われたくないわよっ」
 今度は携帯電話が飛んで来て瞬時に瞼から頬骨にかけて強烈な痛みに見舞われた。
「・・・っ」
 避けようと思えば出来たのかもしれないが、涼一は敢えてその痛みを受け止めた。足元に落ちた携帯電話はごつんっ、と鈍い音を立てて一度だけ跳ねた。
「ばっかじゃないの・・」
「・・・」
「あんな優柔不断な煮え切らない男、とっくに別れたわよ・・」
 涼一は軽く目を見張る。いつ、と訊こうとしてやめた。聞いてもどうしようもないことだ。
「あたしが誰を好きか、なんて考えたこともなかったでしょ?」
「・・・」
 理恵子の唇が歪んだ。泣いているのかと思ったが、どうやら無理矢理笑顔を作ろうとしているようだった。
「涼一君は、あたしのからだしか見てなかったものね」
「・・・理恵子さん?」
「気付きもしなかったでしょ・・」
 涼一が理恵子の言葉を咀嚼できないで見詰め返していると理恵子は再び椅子に腰を降ろして何もかも諦めたように微笑んだ。
「もう帰っていいわよ」
 溜息を吐くように言った。
「・・・」
「待ってるんでしょ?あの可愛い女のコ」
「・・・」
 涼一が躊躇っていると、
「帰りなさい」
震える声でもう一度そう言った。
 涼一は後ろ手にドアノブを触る。ぎっ、と鈍い音が部屋に響いた。
「さよなら、涼一君」
 理恵子の言葉に涼一は頭を下げると扉を開いて外に出た。ごめん、と喉元まで出掛かった言葉を呑み込んだ。
 直後、閉じた扉の向こうから理恵子の号泣する声が聞こえて涼一は思わず振り返った。ドアに手を当てる。
 けれどこの扉を開けるわけにはいかない。理恵子の気持ちを知ってしまった今は尚更だ。
 嗚咽の混じる理恵子の泣き声に涼一の心は瞬時に凍りついた。怖かった。ひとりの人間にこんな泣き声を上げさせることのできる自分の残酷さに恐怖すら覚えた。
 胸が苦しくて息が出来ない。
 涼一は二、三歩後退ると翻って駆け出した。エレベーターではなく非常階段の扉を開く。一刻も早くここから立ち去りたかった。
 マンションから出ると外はぽつりぽつりと小粒の雨が降り始めていた。
 濡れるのも構わず涼一は走リ続けた。
 酷いことをしてしまった、と思った。
 今にして思えば思い当たる節は幾らもあった。理恵子はいつだって涼一の言葉を待っていたのだ。それなのに自分はその身体を好きなように貪り、気持ちはいつも別の女のところにあった。初めに誘ってきたのは理恵子のほうだし、いつも大人の余裕を見せていたのでそんなことは大した事じゃないと心のどこかでふたりの関係を軽くみていた。
 最低だ。
 果南は涼一とつき合えるかどうかわからないと言った。
 当たり前だ、と思った。
 自分のような無神経で幼稚で鈍感な人間にひとを好きになる資格なんかないし好きになってもらえる筈がない。
 足を踏み込むたびに顔の筋肉が揺れ理恵子から受けた傷が疼く。顔に当たる 雨が沁みて余計に痛みを増していた。
少しずつ早くなる雨脚に目は開けていられなくなり、外灯のない暗い夜道で涼一は何か硬いものに足を引っ掛け子供のように派手に転倒してしまった。手を突いたが、目尻から頬に掛けてアスファルトで擦り剥き、火傷をしたようにかあっと皮膚が熱を持った。
 ごつごつとした道路の上に両手と両膝を突いた格好で、涼一は肩を揺らして笑った。こんなにみっともないくらいに動揺している自分が可笑しくて仕方がなかった。
 傷つけたのは自分のほうなのに、どうしてこんなにも胸が苦しいのかわからない。
 ドアを開けて涼一を迎え入れた時の理恵子の嬉しそうな美しい顔がいつまでもちらついていた。そんな理恵子に対してわざと冷たい言葉を放った自分を涼一は嫌悪した。
 どしゃぶりになった雨を背中に受けながら涼一はいつまでも肩を震わせていた。


 翌日、学校は文化祭の代休だったが、その次の日になっても顔の腫れは完全には引かなかった。
 朝、洗面所の鏡を覗き込むと、携帯電話を受けた瞼は昨日よりは幾分よくなったもののまだふっくらと目を三分の一隠してていたし、ライターの金具でできた傷口も思っていたより酷かったようで細い線状に腫れていた。もっと悲惨なのはアスファルトで擦った反対側の頬だった。まだ半分程度はじゅくじゅくとして瘡蓋にもなっていなかった。
「ひでえ顔。・・天罰かな」
「やだ、涼一。天罰だなんて、どんな悪いことしたのよ?」
 独り言を由貴に掬われる。由貴には雨で滑って転んだと言い訳したが、ちっとも信じていないようだった。
「あー。こりゃほんとにひどいね。人相変わってるよ。今日学校休んだら?」
 一瞬涼一もそれを考えたが、文化祭の後片付けがまだ残っているし、今日は委員会もあった。大人しい果南ひとりを出席させる訳にはいかないと涼一は考えて、そんな自分に苦笑した。


 涼一が教室に入ると、一瞬にして教室が静まり返った。
───何だよ。そんなに酷い顔かよ・・。
 けれど静かだったのはほんの僅かな時間で、うちのナンバーワンが怪我をしただの、ホストは顔が命なのになにやってんだ、だのすぐに囃し立てられた。涼一は能天気なクラスメイトの反応に少しだけ救われた気がした。
 委員会が終わって教室でふたりきりになった時、初めて果南は顔の傷のことについて触れた。
「どうしたの?」
「転んだ」
「嘘」
「嘘じゃないよ。ここはほんとに転んで擦りむいたんだ」
と、涼一は右頬を指差した。
「・・目は?」
「訊くなよ」
「・・・」
「答えたくないんだ」
 涼一の強い口調に果南は戸惑ったように
「うん、わかった」
とゆっくりと頷いた。理恵子とのことについても果南は何も訊かなかった。


 結局果南と涼一は特別につき合ったりすることもなく一年間だけ同じクラスで過ごした。


 そしてその年の冬、果南はスイスのバレエコンクールで幼い頃からの夢だったスカラシップを受賞した。


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