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いつも手をつないで 13.
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 磯崎涼一は今朝立ち寄ったコンビニで購入した昼食用のパンの入った袋を手に屋上の扉の前に立った。立ち入り禁止の札の掛けられたドアノブにはいつもの如く鍵は掛かっていない。
 ドアを開けると給水タンクの陰のベンチに江口果南が座っているのが見えた。果南は手にしたプリントを食い入るように見詰めていて近づいて来る涼一には全く気が付いていない。おそらくそれは先週行われた中間試験の答案用紙だろうと涼一は推測する。
 涼一は後ろに回りこんで点数を確認した。英語の答案用紙だったが、38の赤い数字が見て取れた。
「ひっでえ点数」
 果南は肩をびくっとさせると丸く開いた目で振り返った。慌てて手にしたプリントをくしゃくしゃっと丸め、真っ赤になって抗議する。
「覗き見するなんてひどいっ」
「お前、それ、赤点じゃないの?」
「違うよ」
果南はぷっと膨れた顔で言う。「ぎりぎり免れたもん」
「お前さあ、9月から何処に行くんだっけ?」
「・・・ロンドン」
「英会話習いに行ってるんだろ?」
「会話と文法は違うもん」
 果南はむっとしたまま丸まった紙を手提げ袋に入れると、そこから弁当箱を取り出した。
 三年生になってクラスが別々になってしまったふたりは時々こうして屋上で昼ご飯を一緒に食べる。それは大抵果南のほうからメールで誘ってくるのだった。
 涼一はチキンカツとキャベツを挟んだサンドイッチを頬張りながら目の前に広がる青空と、連なる山の稜線を見詰めた。そうして涼一はテレビで一度だけ目にしたバレエコンクールの決勝での果南の姿を思い出していた。
 薄いオレンジ色の衣装を身に纏って軽やかに脚を上げもう片方の爪先だけで身体を支え舞う果南の肢体は、本当にその為だけに存在しているように思えて涼一は軽い畏怖の念を覚え、そして思い出す度果南を少し遠くに感じるのだった。
「・・お前さ、一年経ったらこっちに戻って来るの?」
 果南は首を傾げると
「んー、行ってみないとわかんない」
「そりゃ、そうだな」
 果南は9月から一年間の休学届けを学校に出していたが、そのまま退学する可能性のほうが高いと言った。イギリスに残るか、日本に戻ってもどこかのバレエ団に所属するか。純粋に踊りだけで暮らして行こうと思ったら日本では無理だろうな、と涼一は思った。
 けれど果南の父親は高校を卒業することを強く望んでいるらしかった。留学先にロンドンを選んだ理由も出来るだけ政治情勢の良いところをという両親の意向を汲んだからだと果南はおしえてくれた。果南自身はもっと東の国を希望していたらしい。
 どちらにしてもやはり、果南は少しずつ自分から遠のいていくのだと涼一は自分に言い聞かせていた。
「あたしがいなくなったら寂しい?」
 涼一の気持ちを見透かしたようなその言葉に、涼一は缶コーヒーに口をつけたまま果南と視線を合わせる。果南は笑っていなかった。
「・・まあね」
「・・・」
「揶揄う相手がいなくなるからな」
「それだけ?」
「それだけ・・って」
 涼一には果南がどんな答えを期待しているのか量りかねた。
「涼ちゃん、あたしのこと、もうどうでもよくなってる?」
「は?」
「それともあのひとのことまだ好きなの?」
 涼一は果南の瞳を見詰め返しながら、これだから女というイキモノは手に負えないと心の中でぼやいた。
 毎日のように顔を合わせていても一年前の文化祭の日から今日までそのことには全く触れなかったくせに、突然思い出したように気持ちをぶつけてくる。タイミングとか頃合とか関係なくそのときの気分の高揚だけでこちらの心を掻き乱されたのでは堪らない、と涼一は思った。
「俺とつき合えないって言ったのは果南のほうだろ?」
 涼一は怒ったようにそう言うと残りのサンドイッチを口に押し込んだ。コーヒーで喉に流し込む。今更その話を蒸し返したくはなかった。
 涼一の強い語気に果南は黙り込んだ。手元を見ると弁当箱の中身はまだ半分も減っていない。
「早く食わないと昼休み終わっちゃうぞ」
「うん・・・」
 果南はちっともおいしくなさそうな仕草で箸を口元に運んでいた。涼一は落ち込んだ様子の果南を横目で見ながら溜息を吐く。結局折れるのはいつも自分のほうなのだ。
「今度の土曜日、デートしようか?」
「え?」
 果南は涼一の言葉に驚いたように顔を上げた。覇気のなかった表情に輝きが戻る。
「何時にレッスン終わる?」
「えっと、3時くらいかな・・」
「じゃ、夕方映画観に行こう。・・・行ける?」
「うん。行く」
「終わったらケータイに電話して」
 言いながら涼一は、なんで自分はこんなに果南の落ち込んだ姿に弱いのだろうかと心の中で呆れていた。僅か3ヶ月後には別れが待っているというのに、今更コイビトドウシの真似事なんかしてどうするんだよ、とそっと自身を非難していた。


 これまで比較的自分のペースで勉強を進めてきた涼一だったが、三年生になってから初めて塾というものに通い始めた。科目別の塾で、五科目、週2回通っている。
 涼一は東京の私立大学の理工学部への進学を決めていた。だからといって今現在、特別なりたい職業があるというわけでもなく、どんなに赤点に近い点数を取ろうとも、ただひとつの目標に果敢に向かう果南のほうが余程立派だと心の内では羨望していた。
 涼一はその日塾を9時に終え、駅前のコンビニに寄っていくと言う友人の広瀬達也と別れると自転車で家路を辿った。
 JRの駅前には、この時間になるといくつものおでんやラーメンを振舞う屋台が建ち並び、おいしそうな匂いがそこらじゅうを漂っていた。涼一は家を出る前におにぎりをふたつ胃に収めたにもかかわらず、すでに強烈な空腹感を覚えていた。
───あー。腹へった・・。
 屋台に歩道の殆どを占拠され狭くなった道を自転車に跨って走る。ひとりの中年の女とすれ違った瞬間、涼一は急ブレーキを掛けた。
 目を見開いて正面を向いたまま暫く固まっていたが、思い切って振り向いてみた。心臓の音が周りの人に聞こえてしまうんじゃないかというくらい強く激しく打っていた。
 擦れ違った女の後ろ姿をじっと目で追った。茶色く染めた髪の毛を肩まで伸ばした女は年齢の割に長身の痩せた身体を地味な色合いの服装に包んで駅に向かって歩いていた。
 涼一はまさかという思いでその姿を見つめていたが、屋台の脇に自転車を停めると迷わず女の後を追った。
 女は駅の自動販売機で切符を買うと改札に向かった。切符を買うときの横顔で涼一は確信した。
母だ。
 8年前姉と涼一を置いて家を出て行った母親だった。我が子より男を選んだ女だった。
 涼一は適当な場所までの切符を震える指先で買うと改札を抜けた。女は上りのホームに立っていた。一定の距離を置いて涼一もホームに佇む。そっと女の姿を盗み見た。
 家を出て行った当時の派手さは微塵も無く、年相応の格好をしていることに涼一は内心驚いていた。そして涼一はやはり自分の顔は母親似なのだと改めて思った。くっきりと二重の目元も高い鼻梁も形がそっくりだった。
 ホームに電車が入ってきた時涼一は躊躇わずにその電車に乗った。
 元母親の跡をつけてどうするつもりなのか、涼一自身わからなかった。ただ、忘れていた母親への憤りと苛立ちがふつふつと胸の奥から甦ってくることだけは確かだった。


 その日11時を過ぎて帰宅した涼一を由貴は嗜めた。父親はすでに床に就いていた。
「姉ちゃん」
涼一はすっかり主婦のように腕前を上げた姉の煮物を口に運びながら訊ねた。「あのひとに会ったことある?」
「あのひと?誰よ?」
 まだ涼一の遅い帰宅を怒っている由貴は眉間に皺を寄せて聞き返す。
「かあさんだよ。出て行ってからさ、会ったことある?」
 涼一の正面にテーブルを挟んで座っていた由貴は、涼一の言葉に目を丸くするとその身を乗り出した。
「あんた、まさかあのひとと会って来たの?」
「姉ちゃんはかあさんがどこにいるか知ってんの?」
「知るわけないじゃない。何よ、何があったのよ」
 由貴は取り調べを行っている刑事のようにテーブルを掌で強く叩いた。
 涼一は由貴の剣幕に怯む。
「会ってなんかないよ。今日似てるひとを見かけたんだ」
 由貴は猜疑心の塊のような目で涼一を見詰めた。
「ほんとだって。だから、ちょっと気になって訊いただけだよ」
「もしあのひとから連絡してきても、会ったりしたら承知しないわよ」
「・・・わかってるよ」
 塾を出た時に涼一を支配していた空腹感はすっかり姿を消し、涼一はのろのろと箸を口に運んだ。いつもはおいしく感じる由貴の手料理だが、今日は味も色も失って見えた。
 由貴はダイニングの椅子を引くと立ち上がってソファに移動し、リモコンを翳してテレビを着ける。お笑い芸人のつまらない深夜番組を暫く黙って眺めていたが
「あのひと、この辺にはもういないんじゃないの?」
 独り言のようにそう呟いた。涼一も小さな声で
「・・そうだね」
と返しながら、今日のことは姉と父には絶対に話さないでおこうと思った。


 翌日の昼休み、涼一は自分のほうから果南を屋上に呼び出した。
 屋上は風が強く、果南のセーラーの襟がぱたぱたと肩口で翻っていた。
「ごめん、土曜日映画に行けなくなった」
 落胆の表情を隠そうともしない果南に、涼一は昨日の事を話した。もし昨日の事を話せるとしたら果南しかいないと思っていた。
 元母親を偶然見かけその後をつけたこと。母親はここから電車で一時間先のY町の駅で降り、歩いて10分程度の場所に位地するアパートのなかに消えていったこと。
 涼一の話を顔色を変えて聞いていた果南だったが、
「ちょっと待って、涼ちゃん。土曜日、何をするつもりなの?まさか、おばさんに会いに行くつもり?」
「・・・どんな風に暮らしてるか見るだけだよ」
「やめたほうがいいよ」
「なんで?」
 果南はそんなこともわからないのかという瞳で涼一の顔を覗き込む。
「見なくてもいいものを見ることになるよ」
「・・・」
「涼ちゃんだって、わかってるんでしょ?」
 涼一は果南から視線を外して自分の足元に目を落とした。砂埃が小さく舞っていた。
 いつもはぼんやりとしてコドモっぽく見える果南だが、こういう時の発言は妙に的を射ている、と涼一は感心した。
 母が自分や姉に一度も会いに来なかったことが全てを物語っていた。母は今の生活に涼一たちの存在が介入することを望んでいないのだ。
 けれど、涼一は自分達を裏切って出て行った母親がその犠牲の上で今どんな暮らしをしているのかどうしても自分の目で確認したかった。
「アパートの前まで行ってみるだけだよ。会えるとは限らないし・・」
涼一は顔を上げると作り笑顔で言った。「映画は来週にしよう、な」
「涼ちゃん・・」
 涼一はいつものようにコンビニの袋からサンドイッチとメロンパンと缶コーヒーを取り出す。途端に突風が吹いて、白いレジ袋が宙に舞った。あ、っと思うまもなく風をはらんだ白い袋は屋上のフェンスを乗り越え姿を消してしまった。


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