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いつも手をつないで 14.
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 涼一がY町の駅に降り立ったのは土曜日の昼を過ぎてからのことだった。
 Y町は東側を海、西南を山に囲まれた小さな町だった。電車を降りると自分達の住んでいる空間とは違う匂いに包まれる。この前の夜来た時もそう思ったのだが、この町は海の香りに満ちていた。
 ホームに降りて陸橋を渡って改札に向かう。出口にバレエ教室の大きな看板が掲げられていた。
───こんな田舎にバレエ教室?
 涼一は軽く目を見張る。そう言えば同じ電車に髪の毛を団子状に纏め、白いタイツを履いた小学生くらいの女の子がふたり自分の斜向かいに座っていたなと思い出す。改札を出る際に振り返るとそのふたりが、何が面白いのか顔を寄せ合ってくすくす笑いながら階段を降りて来るのが見えた。
 つい果南と自分の幼い頃を連想してしまう。
 バレエを始めて暫く経つとふたりでバスに乗ってスタジオワンまで通うようになった。それまでは互いの両親の車での往来だったのでふたりきりでバスに乗るということがとてつもない偉業に思え、その頃読んだどんな冒険物の児童文学よりもワクワクしたものだった。ふたり一緒だったので少しも怖くはなかった。
 手を繋いでバスを待ち、バスの中では互いのレッスンバッグの中に隠し持って来たその時々の宝物を見せ合い僅か10分程度の時間を過ごした。それは小学5年生になって自転車で通い始めるようになるまで続いた。
 違う性を持つふたりが何故あんなに臆面もなく仲良くできていたのだろうか。今思うと不思議でならない。


 アパートの前に行くまでに涼一は更に30分以上の時間を費やした。
 果南には平気な素振りで話したが、やはり平静ではいられなかった。こっそり覗くだけのつもりだが、万一向こうがこちらに気が付いたらどういう顔をすればよいのか。母は自分だとすぐにわかるだろうかなどと、仮定の話ばかり空想しては、直ぐに打ち消していた。そうしてまた、もしこうなったらどうしよう、いや、そんなことはないだろうと打ち消す、その繰り返しだった。
 アパートの前の自動販売機で缶コーヒーを買ってそれを飲みながら入り口の高さ50センチ程度の植え込みの縁に腰掛けた。こうしていれば誰かと待ち合わせをしているように見えないだろうかと涼一なりに知恵を絞った。
 アパートは外観からしてかなり古いものだと推測された。白い鉄筋の4階建てのアパートが3棟連なっていて、上部にA、B、Cと割り振ってあった。町営のアパートだろうか。
 この建物を見た限りでは、母が涼一たちと住んでいた頃より豊かな暮らしをしているとはとてもではないが思えない。家族を捨ててまで母が得ようとしたもの。それがこの四角い箱の中にどんな形で詰まっているのか。
 母が家を出た当時、僅か9歳だった涼一の心の片隅にその頃からずっと靄がかかるように存在していたひとつの疑問。
 あの当時母を衝き動かしたものの正体。それは一体何だったのか。
 17歳になった今も涼一にはよくわからなかった。


 今日昼前に家を出る時少しだけ父親と言葉を交わした。
 パジャマのままでソファに座り新聞に目を落とした父は
「勉強は頑張っているか」
とか
「今日はどこかに出掛けるのか」
などの在り来たりのことしか口にしなかった。気の利いた台詞の吐ける人間ではなかった。昔からそうなのだ。
 土日ぐらいしかまともに顔を合わせることのない父は、見る度に小さくなっているように涼一には思えた。母が家を出た当時一気に頭を覆った白髪も今では少し薄くなってきたような気がする。
 あの頃はまだこの家の誰も家事には慣れていなくて家の中はひどい荒れようだった。姉が料理を始めるまでは食卓にはいつも出来合いの惣菜や、レトルトカレーが上っていた。
 このひとは一度も再婚をしようと思ったことはないのだろうか。
「コイビトはいたの?」
と訊ねたらどんな顔をするだろうか。
 ふ、と視線を感じて顔を上げると由貴が凄い形相で睨んでいた。
 先日涼一が母のことを口に出してからというもの、由貴は、涼一が父親にも同じ事を訊くのではないかと疑っていた。何故訊ねてはいけないのか涼一には解せなかったが由貴が怖いので取り敢えずコイビトの有無の確認は止めにした。


 5月下旬の日差しはかなり強く、涼一はキャップを被ってきて正解だったな、と思う。無論それは熱さを凌ぐ為ではなく顔を見られない為のものだったのだが。
 一時間程度そうしていると、なんだか自分のしていることがひどく馬鹿げたことのように思えてきた。こんなところで待っていたからといって必ず会えるわけではないし、会えたからといって話しかけられるわけもなかった。ましてや自分の胸にいつまでも影のように付き纏う疑念に対する答えが見つかる筈もないのだ。
 涼一は腕時計で時間を確認する。
 果南のレッスンはもう終わっただろうか。
 涼一は腰を上げ携帯電話を取り出しながら駅への道を引き返し始めた。果南の名前を表示させ通話ボタンを押す。
 前方から来る親子連れに視線をぼんやり合わせながら呼び出し音に耳を澄ます。3回聞いたところで涼一は慌てて電話を切った。
 心臓がどくんと強く打った。
 近づいてくる親子連れの女は母だった。
涼一は帽子を目深に被り直し連れの男の顔を見る。上下紺色の作業服を着て黒いゴム長靴を履いた男は母より優に10歳は若く見えた。身長は低く、とても色男とは呼べない顔立ちだった。
 そうしてふたりの間に手を繋がれて歩く男の子の顔に視線を移す。
 一目見て先天性の障害のある子供だとわかった。
 動揺した涼一は思わず顔を上げて母の顔を見詰めた。
 もし母がこちらを見ていたらまともに視線がぶつかっていたのだろうが、母の視線はその子にだけ強く注がれていた。
 涼一が最後に見たときよりも、経た年月の倍くらいは老け込んだ顔付きの母は、けれど母性だけをその顔に浮かべて笑っていた。
 涼一はその顔から視線を外し、俯き、歩く速度を速めた。
 3人と擦れ違った瞬間強い魚の生臭さと潮の香りが鼻を突いた。
 アスファルトの照り返しを頬と剥き出しの腕に感じながら、涼一は早足で歩き続けた。幸せそうな3人の親子から一刻も早く遠く離れたいと、ただそれだけで頭はいっぱいだった。
 やはり自分達は8年前に捨てられたのだと涼一は思った。
 父の白く薄くなった頭と、姉が毎日作る手料理を思い浮かべて涼一は強く胸を痛めた。


 防波堤に腰掛けた涼一は、寄せては返す波の白い泡飛沫をぼんやり見詰めながら、先程から止め処なく去来してくる様々な疑問や思いと心の内で葛藤していた。
 けれど結局そうすることに終止符を打った。
 いくら考えたところで詮無いことだった。
 自分は母ではないのだから、彼女の考えを想像することはできても結局真実は掴めない。
 元より人間の心の襞の細かい内側など誰にもわかる筈がないのだ。己の気持ちでさえ読めないことがあるというのに。
 涼一はもう母への疑念をここで捨ててしまおうと思った。
 ただ、擦れ違った涼一に、母が全く気が付かなかったこと。いや、その視界にすら侵入することができなかった事実が涼一を打ちのめしていた。そしてそんなことに打ち倒されている自分が酷く情けなかった。
 涼一はそこから遠く見える幾艘かの漁船に視線を移して、そこで初めて、母と一緒に居た男の子が本当に母の子供だとしたら、自分にとっては父親の違う弟になるのだということに気が付いた。けれど母への思いを断ち切ろうとしている涼一には少しの感慨もなかった。
 不意にジーパンの後ろポケットに仕舞った携帯電話が着信メロディを奏で始めた。
 涼一はサブディスプレイに表示された果南の名前を見詰めながら、しかしそれを直ぐに開くことはしなかった。音楽が鳴り止んだことを確認してから携帯電話の電源を切る。今果南に会いたくはなかった。
 防波堤に足を上げて膝を抱え込みその脚の間に顔を落とした。
 今浸りたいのは永田理恵子と過ごしたあの芳しい水蜜桃のような時間だった。 他の事は一切何も考えずに別人のようになってただ肉の欲するままに波間を漂うだけの時間。
 それで今日起こった出来事を全て忘れることができるわけでもないのに、涼一はただひたすらあの時間を取り戻したいと願っていた。


 駅のホームのベンチに座った涼一は何本も電車をやり過ごしていた。
 陽はとっぷりと暮れ、空が青白く染まっていく様をただぼうっと眺めていた。
 上りの電車がホームに入ってきた。数人の乗客が降りてくるのを目の端に留める。後10分もすれば下りの電車がまたやって来るだろう。
 涼一は今日だけは父と姉の待つあの家に帰りたくないと思った。携帯電話のアドレスをスクロールさせながら永田理恵子の名前が表示されたところで親指の動きを止めた。
 その名前を暫く見詰めていたが、涼一は結局携帯電話をそのまま閉じた。
もう終わったのだ。
 溜息を吐いて顔を上げる。視界の端に人の影を感じて視線を移した。
 薄いピンク色のTシャツにジーンズを履いた背の高い少女がこちらをじっと見詰めていた。
「・・・果南」
 果南は今入って来た上りの電車から降りてきたようで、階段の下に佇んでいた。涼一は思わず顔を背ける。
 どうして来たのかと怒りを覚えた。放っておいてほしいのに。
 果南は遠慮がちに近寄って来た。その気を使うような仕草が一段と涼一を苛立たせた。
「涼ちゃん・・」
 涼一は顔を背けたままで訊ねた。
「何で来たんだよ?」
「・・・だって、電話掛けてくれたでしょ?」
「・・・」
 ああ、そうだった、失敗したな、と涼一は思った。
「こっちから掛け直しても出てくれないし。電源切ってあったから何かあったのかと思って」
「何かって、何だよ?」
 涼一は顔を上げると睨みつけるようにして訊いた。果南は少し躊躇ってから口を開いた。
「おばさんに会えた?」
「会えたよ。向こうは俺に気が付かなかったけどね」
「・・・」
「何で来たんだよ。来るなよな。ちょっとは遠慮ってもんを考えろよ」
「涼ちゃん・・・」
 涼一は立ち上がると果南と向かい合った。
「幼なじみだからって何でもわかってるような顔するな。はっきり言ってムカつくんだよ、そういうの」
 酷いことを言っているという自覚はあったが、止められなかった。果南は唇をきゅっと噛んで睨み返してくる。
「帰れよ」
「・・・」
「もうじき電車が来るから、それに乗ってひとりで帰れっ」
 涼一はそう言い放つと果南の横を通って改札を抜けた。
 使用されていない切符を渡された駅員が何か話しかけようとしたが、涼一の剣幕に圧されてそのまま口を閉じた。
 振り返らずに早足で歩く。
 果南が着いて来ていることに気が付いて駅を出たところで踵を返した。
「着いて来るなっ」
 涼一の乱暴な言い草に身体をびくっとさせたが、果南は怯まなかった。
「・・・だって、涼ちゃん、ほっとけないよ」
「そういうのがムカつくって言ってるんだよ」
「一緒に帰ろう?」
「俺は帰らないよ」
「・・・」
「今日はあの家に帰りたくないんだよ。かあさんのことを知ってる人間に会いたくないんだよ。なんでここまで言わないとわかんないんだよ・・」
 畳み掛けるような涼一の言葉に果南は少し困ったような怒ったような複雑な表情を見せた。
 だから会いに行かないほうがいいって言ったのに。そう思っているのかもしれない。
「帰れ。果南の出る幕じゃない」
「じゃあ、あたしも帰らない」
決然と果南が言った。「今日、ずっと涼ちゃんと一緒に居る」
「は?」
涼一は唖然とする。「お前何言ってんだよ?俺はほっといてくれって言ってんの。ひとの話をちゃんと聞けっ」
「でも、ほっとけないよ」
「・・・」
「おばさんに会いに来たことはあたし以外誰も知らないんでしょ?」
「・・・」
「涼ちゃんの話を聞いて上げられるのはあたししかいないんだよ?それがわかってて、涼ちゃんを置いて帰ることなんかあたしにはできないよ
 突然涼一は心臓を鷲掴みにされたような胸苦しさを覚えた。
 先程からずっと抑え込んできた来た思いが忽ち足元から膨れ上がってくるような気がして慌てて果南から目を逸らして暗い海のほうに視線を預けた。キャップを深く被り直す。
「どんなに邪険にされたって、今日は一緒にいるよ。・・・今、そう決めたの」
 涼一は身体中いっぱいになって今にも溢れ出しそうな思いで、自分の唇が震え始めたのがわかった。ぎゅっと拳を握り
「だから、・・・」
そういうのが嫌なんだよ。そう言おうとしたが喉奥から込み上げてきた思いに邪魔された。
 果南は涼一に歩み寄ってくるとそうっと涼一の拳を掬ってその指先を握り締めてきた。涼一は果南の瞳を見詰める。そこに母性のような光を見つけ、それが切なくて、堪えきれなくなって、そっと自分の額を果南の肩に乗せた。
 遠くでぽんぽんぽんと漁船の音が響いていた。


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