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いつも手をつないで 16.
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 翌朝。
 果南はY町にある有名なバレエ教室をちょっと覗きに行ってみたいと言い出した。
 そういえば駅に大きな看板があったなと思い返す。
「山瀬先生のね、お友達がやってるの」
 山瀬というのはスタジオワンのバレエ教師の名前だ。独身の女性で50歳近いというのに30代前半にしか見えない。由貴がつい最近出会ったらしく、そんなことを言っていた。女性の年齢のことなど涼一にはよくわからないが、小柄で顔が小さく色が白かったことだけは涼一の印象にも残っている。確かに最後に会ったその当時も40代には見受けられなかった。
「今日日曜だろ。休みなんじゃないの?」
「ううん。日曜日に幼児クラスをやってるんだって」
果南はまだ8時にもなっていないというのにさっさと服を着て帰り支度を始めている。「ちっちゃい子って、すんごく一生懸命で可愛いの」
「ふうん」
涼一はまだ眠く、とてもベッドから抜け出す気にはなれない。「果南・・」
「何?」
「ここって10時まで居ていいんだよ。俺もうちょっと寝てたいんだけど」
「え?そうなの?」
果南はベッドの縁に腰掛けて涼一の顔を覗きこんでくる。「涼ちゃん疲れてる?」
「うん。めちゃくちゃ」
 果南は、うつ伏せになって瞼を閉じている涼一の髪の毛を撫でた後布団に潜り込んできた。涼一の横でくすくすと笑い声を立てる。涼一は片目だけうっすら開けて訊く。
「何?」
「昨日、涼ちゃん、ケダモノだったね」
「はあ?」
 ケダモノ?ケダモノって何だ?突然、何を言い出すのかと思う。昨日の自分はそんなだったろうかと一気に顔が熱くなる。
「あのね、前に笹野さんちに行ったときに笹野さんの友達が言ってたんだけど、一日に2回以上する男は間違いなくケダモノなんだって」
「何だよ、それ。あほくさ・・」
涼一はごろんと仰向けになる。「あいつもろくな友達いないんだな」
 昨日は何時に寝入っただろうか。あまり睡眠をとった気がしない。なんで果南はこんなに元気なんだろうかと不思議に思う。日頃の身体の鍛え方の違いだろうか。だとしたら自分は随分男として情けない。
「果南は?」
涼一は果南の頬に掌を当てて訊く。「もうなんともない?」
 果南は初め意味がわからずきょとんとしていたが、
「うん。大丈夫だよ」
頬に乗せられた涼一の手を取って頷いた。「涼ちゃん」
「ん?」
「へへ。涼ちゃん大好き」
恥ずかしそうに言う。
「ばか」
「あ、照れてる」
「・・・」
 涼一は果南の身体を抱き寄せると、「あー、もう頼むから寝かせてくれ」
 そう言って果南が身動き取れないくらいに両腕と両脚を絡ませて全身で抱きしめた。抱え込まれた果南は弱々しい力で暴れながら、涼一の胸の下でケダモノケダモノと叫んでいた。


 バレエ教室は殆どフルオープンと言っていいほど開放的な造りになっていた。さほど高くない塀の向こうの建物には大きな窓ガラスがあって、その向こうで未就学児の女の子たちがぷくぷくと肉付きのいい身体をレオタードに包んでぎこちなく体操をしていた。あれがバレエだとはとても思えない。自分達もあんなふうだったろうかと涼一は記憶を辿る。
 果南は何が楽しいのかその様子を飽きもせず30分くらい眺めていた。涼一はその間ずっと、塀に背中を預けた形で座り込んで欠伸ばかりしていた。
 それからもう一度海岸沿いに出て、少しだけ海を見てから駅に向かった。
電車の中で果南が言った。
「さっきの子供たち見てたらね、バレエ始めたばかりの頃のことをいっぱい思い出しちゃった」
「俺たちはあんな肉付きよくなかったぞ。最近のガキはいいもんばっか食ってんだな」
「もう。涼ちゃんってば。ひとが真面目に話してるのに」
 果南が横目で睨む。
「すみませんねえ・・」
 涼一は肩を竦める。電車の揺れが心地よく睡魔に襲われていた。
「あのね」
「うん?」
「ちょっとだけ、スランプ気味だったことがあるんだ」
「え」
 果南の言葉に涼一は軽く驚いた。
 意外だった。
 果南には類まれな天性の才能があるし、おっとりした性格もあってか、スランプとは無縁だと端から涼一は決めつけているところがあった。だが、よくよく考えてみれば果南くらい長く何かひとつのことを続けていれば、壁にぶつからないことのほうが変なのだ。
「いつ頃?」
「うーん。コンクールのちょっと後ぐらいから・・かな」
「へえ・・」
 全然わかんなかった。ひとり言のように涼一が呟くと
「うん。先生以外誰もわかんなかったと思う。先生もね、その時には何も言わなかった」
 涼一はバレエ教師の顔を再び思い浮かべる。そう言えばそういうタイプだったかも知れない。どうしたらいいのかわからなくて悩んでいるとき、あまり声を掛けてこなかった。叱ることもない代わりに助言らしきことも殆どなかった。おそらくは自分で答えを見つけろということなのだろうが、当時は子供だったのでそんな先生を冷たい人間だと感じていた。
「その時にね、先生に幼児クラスのレッスンを少し手伝いなさいって言われたの」
 2回レッスンを手伝っただけでスランプから抜け出せちゃった、と果南は笑った。「なんかねえ。変に気取ってたっていうか。目からウロコだったな」
「・・・」
「ちっちゃい子ってね、ただ一生懸命なのよ。誰にどう見られたいとかじゃなくって」
「今日もそう思った?」
 あのコロコロと小太りのコドモたちを見て果南はそんなことを感じていたのかと涼一は感心する。果南は笑いながら頷いた。
 それから後はふたりで外の景色を黙って眺めていた。涼一は再び強烈な眠気を感じ瞼を閉じた。


 果南は笹野悠里に会いに行くからとひと駅手前の駅で降りた。
「おい」
「何?」
「あんまり変なことべらべら喋んなよ」
 降りる直前に牽制をいれる。
 これから悠里の家で自分の名前が出ることは間違いなかった。
 果南は意味深に笑うと
「ケダモノってことは秘密にしとく」
そう囁いて下車していった。
───あほか。
 窓越しに手を振る果南を見ながら涼一は呆れる。全くあいつはいつまで経ってもコドモだ。昨夜のことを思い返しても、やはり果南は幼かったと涼一は感じていた。
 涼一は目線を上にして車内広告を見る。ぼんやりと揺れながらそうしていると、突然ひとりにされた寂しさに襲われた。先程まで寂寥感など微塵もなかった胸の内が、一気に寂しさでいっぱいになっていく。
 母親に捨てられてしまった自分。
 すっかり忘れていたのにひとりになった途端こうなのだ。
 そして少しだけ涼一は果南と昨夜してしまったことを後悔し始めていた。
果南は夏の終わりには自分の前から姿を消してしまうのに。迂闊なことをしてしまったと右手の親指の間接を唇に当てた。
 けれど再び果南に会えば、そんな悔悟など直ぐに消え去ってしまうこともわかっていた。
 いつだって不安定に揺れる自分の心を涼一はよくわかっていた。
 それにしても。
 果南はこうなってしまったことに後悔はないのだろうか。本人には訊きたくても訊けなかった。
 そして。
 これから自分達はどうなっていくのだろうか。
 電車が少しスピードを落とし始めた。駅が近づいていた。涼一は見慣れた風景が視界に映り始めて何故かほっと安堵した。別にここに辿り着けないかもしれないと心配していたわけでもないのに。
 涼一はポケットから取り出した切符に目を落としながら、もしかしたら果南より自分のほうがずっとコドモなのかもしれない。そんなことをぼんやり考えていた。


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