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いつも手をつないで 17.
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 夏休みに入る直前の終業式の日の朝。
 クラスが違っている為なかなか顔を合わすことのない笹野悠里に校門を抜けたところで肩を叩かれた。悠里は相変わらず涼一よりも短髪で、男っぽい。強い陽射しにもかかわらず涼しげな顔で涼一の顔を覗き込んでくる。涼一はちらりと見遣ってから直ぐに顔を正面に向けた。
「はよ。・・・何?」
「ひとり?」
「うん」
「果南と一緒に来ないの?」
 つい最近まで悠里は果南のことを『江口さん』と呼んでいた。涼一は少し戸惑いながら
「来ないよ」
素っ気無く答える。自分と果南とのことを冷やかされるのが嫌で涼一はずっと悠里を避けていた。悠里はふうん、とつまらなそうに言ってから
「もうじきお別れなんだからさ、もっとべたべたしてもいいのに。ふたりとも前とあんまり変わんないよね」
「・・・」
 確かに。ひと前ではそうだな、と涼一は思った。
 まだ朝の8時だというのにむっとするような暑さだ。自分達を追い越していった下級生の首筋に流れる玉のような汗を目にした涼一は不快な暑苦しさを感じて目を逸らした。それでも校舎の影に入った途端、少しその熱気から逃れることができた。涼しげな顔の悠里の鼻の頭にも、よく見ると小さな汗の粒が浮かんでいる。
「果南も磯崎も離れ離れになるのなんかどうってことないって顔してる」
「そう?」
「幼なじみだからそうなの?なんか、兄妹みたいな余裕があるっていうか。フツーのカップルとは違うよね」
 悠里の口から出てきた兄妹みたいという言葉に涼一の心はぴくりと反応した。
 昇降口への短い階段を上がりながら悠里が溜息混じりに呟いた。
「遠距離はさ、結構きついと思うよ」
 涼一はふっと、視線を悠里に移す。
「何?家庭教師のカレと遠距離になったの?」
 悠里は制服の袖口についた髪の毛を払いながら、
「そうなんだ。4月から社会人になったんだけどさ。勤務地がね、すんごく遠くになっちゃって。新幹線で会いに行ったり、来てもらったり」
きついんだな、これが。独り言のように言う。初耳だった。涼一自身悠里とまともに話すのは久しぶりだったし、果南もそんなことは言っていなかった。
 涼一は少し考えてから
「お前さ、それ果南に話した?」
「え?うん。時々愚痴きいてもらってる」
言ってから慌てて掌を口に当てた。「あれ?今から遠距離しようってひとに言っちゃいけなかったかな?果南、何か言ってた?」
 涼一は少し首を傾げてから
「いや。特には・・」
 話題に上らせても少しも不思議ではないことを、話さないことのほうが不自然じゃないかと思う。涼一には何故なのか解せなかったが、果南は自分が留学してから後のふたりの未来のことを一切口にしなかった。
 ───涼ちゃんと本当の兄妹だったらよかったのに───
 この前涼一の部屋でふたりきりになった時、突然そんなことを言った。
 その時の果南の幼い子供が駄々をこねるような物言いと、それとは正反対の思いつめた顔付き。
「磯崎?」
「うん?」
「やだな、なんて顔してんのよ、永遠の別れってわけじゃあるまいし」
悠里は豪快に笑いながらばしっと涼一の肩を叩いた。「たった1年でしょ?1年くらい浮気しないで果南の帰りを待ってなさいよ」
「ばっか。痛いよ」
 涼一は苦笑しながら答えたが、果南が1年で帰ってくる可能性の低さを悠里に伝えることはできなかった。


 涼一と果南は学校やひと前では以前とまるで変わらないただの幼なじみのように無邪気に振舞っていた。何故そんな風を装うのか自分達にも初めはよくわからなかった。出発までのふたりの僅かな時間を他人の詮索や中傷で邪魔されたくないからかも知れない。涼一はそんな風に考えていた。そして互いにそれを暗黙のうちに了解し合っていたのだ。
 そしてふたりきりになった時、ひっそりと抱き合った。
 場所は大抵家に姉も父もいない時の涼一の部屋か、Y町のあの海沿いの白いホテルだった。Y町に行ったときには必ずバレエ教室を覗いてそして海を見てから帰る。
 5月のあの日からふたりはそうやって過ごしていた。夏の終わりに来る別れのことがお互いの口から出ることはずっとなかったのだ。
 夏休みに入って直ぐのその日もふたりは白いホテルで過ごした。
「涼ちゃんと本当の兄妹だったらよかったのに」
 受験勉強の為に睡眠は一日5時間という日が続いていた。うつ伏せになってうとうとと眠りに落ちかけていた涼一の横で膝を抱えて座っていた果南が再びそんなことを言った。果南はいつもそうするように下着の上に涼一のTシャツだけを身につけて、自分の足の爪を指先でごしごし撫でていた。トゥシューズを履き爪先だけで自分の体重を支える生活を何年も続けている為、果南の足の爪は変形している。よく血豆もできるらしいその足先を、時折労わるように擦っていた。
「・・なんで?」
 果南の顔があまりに真剣だったので、兄妹だったらこんなことできないじゃん、と冗談交じりに言おうとした言葉を涼一は飲み込んで訊ねた。
「だって」
 果南は唇を歪めて笑った。まだ視線を自分の爪先に置いたままで。
「兄妹だったら涼ちゃんに忘れられることもないし、ずっと繋がってられるもん・・」
「忘れる?忘れるって何だよ」
涼一は肘を突くと上半身を少し起こした姿勢で果南の顔を覗き込んだ。「お前、それ、本気で言ってんの?」
「だって、涼ちゃん、コイビトドウシは別れちゃったらそれでお終いだけど、兄妹だったらずっと兄妹のままでいられるよ」
「俺はやだよ。果南と兄妹になりたいなんてこれっぽっちも思わないよ」
 涼一は身体を起こすとベッドから抜け出して浴室に向かった。
「涼ちゃんは平気なの?」
「何が?」
「離れ離れになっても平気なの?」
 ふたりがこうなってしまってから初めて果南がそのことを口にしたな、と涼一は冷静に聞いていた。
「どう言ってほしいわけ?」
涼一はできるだけ優しく訊ねたいと思っていながら出てきた自分の詰問するような口調に驚く。「どう言えば果南は満足なの?」
「満足・・」
「俺が本当に平気だと思ってんの?」
「・・・」
 果南は一瞬口を開いたが、直ぐに噤んだ。そのまま視線を涼一から外して膝に唇を落とす。
「何?」
「・・・」
「言いたいことがあるんならはっきり言えば?」
 まるで喧嘩を売っているようなきつい言い方だった。その台詞に反応したようにぱっと上げた果南の顔には、怒りとも悲しみともいえない複雑なものが滲んでいた。
「涼ちゃんモテるからあたしのことなんか直ぐに忘れちゃうでしょ?」
「は?」
「別に涼ちゃんあたしじゃなくてもいいんだよね。こういうことできれば誰でもいいんだよね」
 過去の永田理恵子とのことを当て擦っているのだと思った。
「何言ってるんだよ?全然、意味わかんないよ」
涼一は浴室のドアノブに手を掛けると振り返って言った。「それに・・」
「・・・それに?」
「俺が果南から離れていくわけじゃない。離れていくのは果南のほうじゃないか」
「涼ちゃん・・」
 涼一は自分の口から零れ出てきた言葉に自分自身呆れながら、今にも泣き出してしまいそうな果南をベッドに残して浴室に消えた。
 少し熱めのシャワーを頭から浴びる。
 できれば果南が出発するまでの僅かな時間をつまらない口論で潰したくはないとずっと思っていた。知らない土地へこれからひとりで行くのだから、相当な不安を抱えているだろう果南の気持ちをできるだけ労わってやりたいと思っていた。なのにこのザマだ。
 誰よりも好きで、誰よりも大切にしたいと思っているのに、涼一は時に何故だか果南に辛く当たってしまう。他の人間には決して見せないような辛辣な態度をとってしまう。自制が全く利かない。
 身体を重ねている時ですらそうなのだ。そうしているときの果南を誰よりも幼いと感じていながら、他の女のコが相手だったらおそらくは口にしないだろう要求を果南に強いてしまうことがある。
 今だって本当はもっと何か別の思いやりのある言葉をかけてあげるべきだったのだ。頭ではわかっているのにできない。そのことが余計涼一を苛立たせる。
 ずっとそばに居た所為なのかも知れない。近過ぎるから上手く行かないのかも知れない。本当はこんな関係になってしまったこと自体が間違いだったのかも知れない。そう。まるで本当の兄妹みたいに。
 涼一は両手をタイルの壁に突いて考え込んでしまった。
 がちゃ、と音がしてそちらに目を向ける。先程と同じく涼一のTシャツを着たままの果南が目を真っ赤にして立っていた。
 涼一は蛇口を捻ってシャワーを止める。
 近寄って来た果南は拳で涼一の胸を殴った。ぴしゃっと音がして水飛沫が舞う。涼一は目を瞬いて果南の行為を受け止めた。
「涼一のばかったれ」
 涼一は睨みつけてくる果南の側頭部にそっと掌を這わせた。
「・・・ごめん」
「涼ちゃん、ひどいよ」
「・・・泣いてた?」
「何でひどいことばっかり言うの?どうして優しくしてくれないの?」
「ごめん」
「ほんとはあたしのこと好きじゃないの?」
「好きだよ」
涼一は果南の小さな頭を抱え込んだ。「好きで好きでどうしようもない」
 果南の着ている自分のTシャツが涼一の腹部にぺたりと張り付いた。
「・・・」
 果南が何か言った。声が小さくて聞き取れない。
「え?何?」
「・・・行きたくない」
涼一の胸で果南は小さく呟いた。「行きたくない。ずっとここにいたい。涼ちゃんと離れたくない」
「果南・・・」
「どうすればいいの?」
「果南」
 行かなくて済む方法なんてひとつしかないではないか。
 涼一は思い切って、本当はずっと考えていたことを口にした。
「お前、バレエ辞められる?」
 告げた刹那、ぱっと果南の身体が涼一から離れた。
 お互いの腕を掴んだままで見詰め合う。
 涼一を見る果南の瞳から熱が消えていた。そこにあるのは涼一に対する猜疑心だけだ。涼一の胸にさあっと冷たいものが広がっていった。
「嘘だよ。冗談」
涼一は笑った。「果南、これ俺のTシャツだぜ。こんな濡らしてどうすんだよ。帰れないじゃないか」
 果南は言われて初めて気がついたようで、慌ててTシャツの裾を摘んだ。
「・・・あ。そうだね、ごめん」
「脱いで来いよ。一緒にシャワー浴びよう」
 こっくりと頷いて浴室から出て行く果南の後ろ姿を見送りながら、馬鹿なことを口にしてしまったと涼一は思った。
 果南を引き止めることはできない。
 自分がついて行くこともできない。
 十代の自分達にできることなど限られている。
 もう、どうしようもない。
 涼一はどんなにもがいても打開できない隘路に塞がれた自分達の未来を思ってただ悄然と肩を落とした。


 涼一はその年、夏休みの時間の殆どを塾と図書館で過ごした。
 6月下旬に行われた模擬試験で涼一は志望校の合格判定Aを初めてもらった。
「お前、やなヤツだな」
 そう言った達也も学部こそ違うが涼一と同じ大学を受験することを希望していた。判定はCだったらしい。本人は絶望的だと頭を抱えていたが、まだ夏休みに入ったばかりだし、何とかなるんじゃないかと涼一は思っていた。
「そう言えばさ」
「ん?」
「俺の取り柄は勉強ができるとこだけだって、果南に言われたことがあったな」
「何だ、それ。勉強だけっていう言い方がなんかムカつくな」
受験生に勉強以外のなんの取り柄が必要だって言うんだ、と達也は不貞腐れていた。
 あれから1週間が過ぎたが果南とは会っていない。ただ毎日の電話とメールの遣り取りだけはしていた。
 例え今遠くに行ったからといってふたりの関係が終わりになるわけじゃない、と涼一は果南に言い聞かせていた。
 幼い頃からの自分達の時間を思えば、そんな簡単に別れはやって来ないよ、と。
 ただ、果南はそうじゃない、と言った。ずっと一緒にいたいのだと言った。今も、これから先もずっと離れたくないと泣いては涼一を困らせた。


 その日塾から帰ると直ぐに自宅の電話が鳴った。
 最近では家族3人がそれぞれ携帯電話を持っているので家の電話が鳴ることは滅多にない。大抵は胡散臭い営業の電話だった。
 面倒臭いなと思いながら涼一は受話器を上げる。
 柔らかな女の声で山瀬です、と相手は名乗った。
 最初、誰だかわからなかったが、
「涼一君?」
と訊かれて
「あ」
と涼一も声を出した。「せんせい・・」
 スタジオワンのバレエ教師だった。
 こんにちは、と言いながら自分に一体何の用だろう、と涼一は首を捻る。
 簡単な社交辞令のような挨拶の後、
「最近果南と会った?」
 バレエ教師はそう訊いてきた。
「え・・」
「ここ3日くらい」
「え、いえ、会ってませんけど」
「そう・・」
 涼一は受話器をぎゅっと握り締める。思いがけず胸の鼓動が速くなり、バレエ教師の次の言葉を待つ時間が通常の何倍にも長く感じられた。
「果南がね」
「・・・」
「一昨日からレッスンに来なくなったのよ」
 バレエ教師は声を潜めてそう告げた。


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