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いつも手をつないで 18.
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 涼一は自転車のサドルに跨ると左足の踵でスタンドを跳ね上げ、ハンドルを抱えてくるりと向きを変えた。「Studio 1」と書かれたプレートを一瞥してから正面を向きペダルを踏む。
 来たときと同様、太陽の陽射しは剥き出しの皮膚に痛いほどきつく、直ぐに身体中から玉のような汗が噴き出してきた。
 涼一は駅へ向かった。
 きっと果南はY町にいる、と確信していた。
 携帯電話は電源が落とされているようで繋がらなかった。
急な勾配を下りながら、果南がこの3日間、どんな思いでいたのだろうかと考え胸を痛めた。自分が馬鹿げた台詞を口にしてしまったことがいけなかったのだろうか。そのことが果南を苦しめているのだろうか。
 そして、果南の為に自分ができること。
 それはたった今バレエ教師の口から提案された、そんなことしか本当にないのだろうか。
 自転車はペダルを踏まなくとも急な下り坂を猛烈な勢いで進んでいく。向かってくる湿気を孕んだ生暖かい風を受けながら、涼一はひたすら果南にこれから会えることを願った。


 涼一がバレエ教室に足を踏み入れると一瞬で懐かしいような独特の汗の匂いに包まれた。
 高い天井。広い空間。壁の二面は鏡張りで、高さのそれぞれ異なったバーが設置されている。僅かにエアコンが効いていた。
「こんにちは」
 静謐な空間に柔らかな声が反響した。
 誰もいないと思っていた涼一は驚いて声の聞こえてきたほうを向く。
隅にポツリと置かれた木製のスツールからバレエ教師の山瀬が立ち上がった。
「・・・こんにちは」
 涼一はぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさいね。こっちから電話したのに、来てもらって。この後またレッスンがあるから」
「いえ・・・」
 山瀬は黒いレオタードに濃い灰色のカーディガンを羽織り、黒いレッスン用の膝下まである巻きスカートを履いていた。細い形のよい脚も同じく黒のタイツで覆われていた。
 山瀬は奥の更衣室からパイプ椅子を持ってくると木製のスツールの傍に広げた。
「座って」
「はい・・・」
 涼一は再び頭を下げる。気まずかった。これから何を言われるのか。自分達はこのひとに叱られるようなことは何ひとつしていない。それでも何故だか極度に気が張り詰めていた。喉がからからに渇いているのは暑さの所為だけではない。
 涼一は先程電話口で
「どうして俺に電話してきたんですか?」
と訊ねた。山瀬は笑いながら、
『あなた達、Y町のバレエ教室に時々行ってるでしょ?』
と言った。『あそこの先生はあたしの友達なのよ。昔同じバレエ教室に通ってたの』
 そういえばそんなことを初めてあの教室に行った日に果南が口にしていたなと思い返す。
『果南のことは彼女も顔だけは知ってるから、お宅の可愛い生徒さんが時々すごいハンサムな男のコとうちの教室に見学に来てるわよ、ってちょっと前に会った時に言われて。直ぐに涼一君の顔を思い浮かべたわ』
「・・・」
『いつからふたりがそうなったのか知らないけど、実際、果南の踊りは変わったのよ』
 呟くように言った。
「・・・変わった?」
 涼一は息を呑む。けれど山瀬の口から出てきた言葉は涼一が思っているような悪い意味のものではなかった。
『踊りに深みが出てきたの。色気っていうとちょっといやらしいわね。でも、いいことなのよ。必要なことよ』
 その後暫く間が空いた。涼一は受話器を空いていたほうの手に持ちかえる。掌がひどく汗ばんでいた。
『でも、最近はすっかりここに来ても覇気がなくなったって言うか、やる気が感じられなくなって。・・・つい涼一君とのことを口に出してしまったの』
 何を言ったというのか。涼一が問う前に山瀬のほうから
『会って話がしたいわ。今からここに来られる?』
 いつもは冷静な彼女からは想像もつかないほど焦燥に駆られた声だった。
 果南の出発の日まで2週間と少し。
 こんな間際になっての教え子の反乱に動揺を隠せないでいるようだった。
 切る直前、
『あ』
と山瀬は言った。『このことを果南のご両親は知らないの。言わないで欲しいの』
 切羽詰まった声だった。
「え?」
『ご両親は今頃になって果南を手放すのを躊躇してるのよ。こんなことが耳に入ったら本当に留学できなくなるわ。だから、言わないでほしいの』
 はい、と返事をする以外、涼一の口にするべき言葉はなかった。


「あのコの才能が並じゃないのは涼一君もわかってるわよね」
「・・・」
 涼一は黙って頷く。
 初めてここへレッスンに来た日のことを涼一はよく覚えていた。
 果南の体型を見る山瀬の顔付きは、自分や他の生徒に向けられているものとは明らかに違っていた。幼い涼一にもそれはわかった。
 果南の関節は俗にいう二重関節と呼ばれるもので初めてレッスンに来たときから楽々と股関節を90度に開いて立つことができた。片脚を膝を伸ばしたままで顔の直ぐ間近まで上げることも容易くして見せた。二重関節をもっている場合、軸が掴みにくく故障しやすいという欠点もあるとされているが、果南に関してだけいえばそれはないようだった。
 そしてトウ・シューズを履いたときに綺麗に出る足の甲の形。ここに通う誰もが羨んでいた。
 身体的なことだけではなく、踊りに対するセンスも持っていた。レッスン中説明された振り付けを果南だけは直ぐに覚えることができた。
 傍から見てもわかる程気持ちが踊りにだけ向いていた。他の何を犠牲にしても構わないというプロ意識のようなものが小学校の高学年辺りからすでに芽生えていた。
 何より踊ることが好きだったのだ。
「向こうに行ったからってどこまでできるかなんて保証はないけど。あのコのやる気次第では大きなバレエ団のプリンシパルにだってなれると、私は思ってるの」
 プリンシパル。涼一は胸の中でその単語を反芻する。
「あのコの才能はここに居たんじゃ開かないのよ」
「・・・」
「こんな言い方をしたくはないんだけど。・・・邪魔をして欲しくはないの」
 涼一はぱっと顔を上げるとバレエ教師の顔を見た。責めるような眼差しが向けられていた。
 頭から冷水を浴びせられたように全身が一気に冷えた。
 邪魔。
「涼一君があのコを好きなら尚更でしょ?」
 少しずつだが言い方が威圧的になっているのを涼一は感じた。
「先生は・・・」
「え・・?」
「先生は、俺にどうしろって言ってるんですか?」
「・・・」
「果南を突き放せって、そういうことですか?」
「突き放せとは言ってないわ。優しく言って聞かせる事だってできるでしょ?コイビトドウシなんだから」
「でも、そんな関係はもうやめろってことでしょう?」
「何かを手にしようと思ったら別の何かを捨てないといけないことだってあるのよ。もう高校生なんだからそのくらいのことわかるでしょう?」
 互いの声が大きくなっていた。涼一は今にも喚き出しそうな、けれど懸命にそれを堪えようとしているバレエ教師の色を失った口許を見詰める。
「果南は留学したくない、って言い出したのよ。バレエを辞めてもいいって。こんな土壇場になって。」
 涼一の顔から血の気が引いた。膝の上でぎゅっと拳を握る。
「今のあのコから踊りを取ったら一体何が残るって言うの。今までしてきたこと全てを無駄にしてどうするつもりなの。いっときの感情でそういうことを言ってもらいたくはないわ」
 このバレエ教師の、これ程感情的な顔を見るのも声を聞くのも初めてだな、と涼一は思った。眉間に深く皺が刻まれていたが、それでも実際の年齢よりはるかに若く見えた。
 山瀬は椅子から立ち上がると気持ちを落ち着けるように自分の身体に腕を回して涼一に背を向けた。バレリーナらしい細い、けれど筋肉のついた背中だった。
「辞めるか辞めないかは果南が決めることじゃないんですか?・・・俺や先生がこんなこと話したって何にもならない」
 そう口にしながらも涼一は心の内では責任を感じていた。自分の所為だと思っていた。
「君に頼もうとしたのは間違いだったわ。涼一君ならわかってくれると思ってたのに・・・」
 語尾が震えていた。泣いているのかと間違うほどに沈んだ声だった。
「若いコは恋愛感情だけが一番大事だと思ってるトコがあるものね。・・・本当はちっともそんなことないのに」
 嫌味なものを多分に含んだ言い方だった。
 ああ。だから。そんな考え方をしてるからあなたは未だに独身なんだ。当て付けがましくそう言い返してやりたかった。
───・・帰ろう。
 ひとを呼び出しておいて、何なんだ、と思った。売り言葉に買い言葉でひどいことを言ってしまいそうだった。それより一刻も早く果南に会いたかった。
 涼一は椅子から立ち上がるとパイプ椅子を折り畳んで傍の壁に立て掛けた。
「・・・お邪魔しました」
「待って」
弾かれたように山瀬が声を張り上げた。「果南に会うんだったら、お願いだからレッスンに出てきてちょうだいって、言って」
お願い、ともう一度縋り付くように言った。
「あのコ、もう3日もレッスンしてないのよ。それがどういうことか涼一君にだってわかるでしょ?」
「・・・」
 ああ、そうか。このひとも必死なんだな、と涼一は悟った。真剣に果南のことを考えているのだ。
 涼一は頭を下げるとドアに向かって歩いた。途中で足を止めて振り返る。
 涼一の顔には無意識のうちに自嘲の笑みが浮かんでいた。
「果南は」
「え?」
「果南はバレエを辞めたりしませんよ」
「・・・」
「そんなこと、先生が一番わかってる筈だ」
 果南がバレエを捨てられるわけがない。
 戸惑いを見せる山瀬の顔から視線を外すと涼一はスタジオワンを後にした。


 果南はY町のバレエ教室にいた。
 小学校高学年くらいの年齢の子供達がレッスンを受けているのが涼一にも見てとれた。
 果南は真っ白なTシャツにジーンズを履いてカーキ色の大きなバックを斜めがけにした格好でレッスンの様子をじっと見詰めていた。
 ぴんと伸びた背筋から首筋にかけてのライン。
 外向きの足。
 綺麗な筋肉のついた細い腕。
 誰が見たってひと目でバレリーナだとわかる。
 いくら持って生まれた才能があったとはいえ、この身体を創り出す為にどれほどの時間と精神力を要してきたことか。
 涼一に気が付くと、途端に果南の顔が歪んだ。
 涼一は果南にゆっくり歩み寄っていく。頭のてっぺんに掌をそっと乗せた。すでに果南の目からは大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちていた。
「ひとりで来るなよ」
「涼ちゃん・・・」
「ん?」
ごめんなさい、と果南は涙声で言った。
「何?」
「ごめんね、涼ちゃん。ごめん・・・」
「・・・」
「ごめんなさい・・」
「何謝ってるんだよ」
「あたし、やっぱり、バレエをやめられない。・・・・踊りたくて堪らないの」
「ばっかだな。そんなこと」
「ごめんなさい」
 果南は顔をくしゃくしゃにしていた。
───何て顔だよ。
 この教室の中にいる生徒達よりもコドモみたいだ。
「わかってるよ」
涼一は笑いながら果南の頭を片手で抱き寄せた。「わかってる」
 自分に言い聞かせるようにそう言うと涼一は自分のTシャツの肩口が濡れるのを感じながら大きなガラスの向こうの子供達に視線を送った。
 涼一と果南が抱き合っているのを放心したように見ていた子供達は青い光沢のあるレオタードを着た教師に注意されたようで、全員が一斉にびくりと身体を震わせた。その様子がおかしくてぷっ、と涼一は吹き出す。
 教師はちらりとふたりに視線を送ったが、すぐに厳しい目つきに戻って子供達にまた何か言っていた。
 涼一は果南の小さな頭に自分の頬を擦り付ける。
 果南はいつからここにいたのだろうか。
 ここに来る前に海へは行ったのだろうか。
 抱きしめた果南の髪の毛からは潮の香りがほんのりと漂っていた。


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