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いつも手をつないで 3.
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 涼一は学生服に舞い落ちる桜の花びらを振り払いながら、ぱらぱらと幾人かの生徒が集まる掲示板へと近付いて行った。ここ数日家に閉じこもっていた涼一の目に春の日差しは眩しかった。
 新しいクラス分けの名簿を見ながら、結局中学校3年間ふたりが同じクラスになることは一度もなかったな、と涼一は思った。涼一はA組。果南はD組だった。
「ありゃ、果南と別のクラスになっちゃったなあ。あ、磯崎君とは一緒か。よろしくね」
 肩越しに声を掛けられる。振り向くと果南と仲の良い有熊紀子(ありくまのりこ)が笑顔で立っていた。名前の通りの大柄さは相変わらずだ。身長は果南と同じくらいだが、体重はゆうに10`以上は多いと思われた。深緑色のブレザーの肩周りが窮屈そうに見える。
「果南は?」
「知らないよ」
「あら、冷たい」
紀子がからかうように目を細めてにやにやしている。「ふたりの仲は最近うまくいってない?」
「やめろ。そういうんじゃないって知ってるくせに」
「果南はバレエ馬鹿のお子様だからね。初恋もまだだね、きっと」
 そういえばあれこれ下らない話はするくせに、果南は誰がかっこいいとか、好きだとか、そういう異性に関する話は一切しないな、と涼一は思った。


 涼一のスタジオワン通いは今も続いていた。
 もう、例の変質者は出没していないようだったが、涼一自身が自分の意思で果南の踊りをずっと見ていたくなったからだ。
果南の踊りを見るのは気持ちが良かった。身が引き締まるとでも言うのだろうか。
 ぴんと伸びた背筋と手足は清々しく、高く跳ねてもぶれない重心、おそらくは彼女の思い通りに反り返る柔軟な背中。身体の芯を何か硬いものが走っているように見えて、それでいて嫋々とした草花のような儚さも併せ持っていた。柔らかな鋼だ、と涼一は思った。
 帰り道、涼一は果南に訊ねた。
「お前、ずっとバレエ続けんの?」
「うん。そのつもり」
 躊躇なく答える。
 果南は今年の冬、国内のバレエコンクールの中学生の部で3位に入賞したのだ。その頃からめきめきと成長を続けている果南は教室の先生と相談して2年後に有名な国際コンクールに出場しようと決めたと言う。
「あのコンクールでスカラシップ取ったら1年間の海外留学費用出るんだよ。生活費も。うち、お父さんサラリーマンだし、下に弟もいるし、それがめちゃくちゃ魅力なんだ」
 スカラシップより上の賞もあるのに初めからスカラシップを受賞することを目的にしているところが果南らしいと涼一は笑った。
「で?涼ちゃんは、毎日あたしの踊り見て少しは自分も踊りたくなって来た?」
「・・まさか」
「そっか。先生に誘惑するように頼まれてるんだけど、だめか」
 大袈裟に溜息混じりに天を仰ぐ。
「誘惑ってなんだよ。・・それに俺たち受験生じゃん。部活だって後ちょっとで終わりなんだぜ。今更そんなことしないよ」
「受験生、か。やな言葉。・・涼ちゃんもうどこの高校受験するか決めてる?」
 涼一は自分たちの住むマンションから歩いて通える高校の名前を上げた。県内でも有名な進学校だ。
「ふうん。まあ、涼ちゃんなら受かるよ。涼ちゃん、頭いいのだけが取り柄だもんね」
「おまえ、平気な顔してむかつくこと言うな」
 文句を言いながら、でも、自分はどうしてその高校に行きたいのだろうか、と考える。ただ漠然と自分のレベルに合った高校に進学して、大学に行って・・そしてその後は?
 おそらく中学3年生で将来の青写真を的確に語れる人間はいないだろう。涼一だけではないのだ。けれど今自分の横にいる果南を涼一は羨ましいと思った。果南はすでに自分の生きる目的を手に入れている。
「あたしも涼ちゃんと一緒の高校に行きたいなあ・・」
駐輪場で自転車の鍵を抜きながら果南が呟いた。「涼ちゃんと離ればなれになるの、やだな。不安だよ」
「なに言ってんだか」
 果南の成績ならおそらく涼一と同じ高校に入ることは出来るだろうと思われた。しかしバレエを続けるのならなにもそんな進学校に行く必要はないのだ。学歴を必要としないプロのバレエダンサーには、高校を卒業していない人間は沢山いる。
「紀ちゃんがさ、最近しょっちゅう言うんだよね・・」
「有熊が?なんて?」
 ふたりでエレベーターに乗り込む。涼一の視線の先にある果南の白い首筋が汗ばんで光っていた。見慣れた姿なのに、狭い空間でのことと意識するとそこから目が離せない。
「涼ちゃんばなれしろって言うんだ」
「なんだ、それ」
「じゃないと、いつまでたってもカレシできないぞ、だって。涼ちゃんにカノジョができないのもその所為だって」
───有熊のやつっ・・。
「・・・涼ちゃん、好きな人とかいる?」
 一瞬永田理恵子の顔が浮かんだが
「いないよ」
と答えた。
「そっか。よかった」
ほっとしたように笑ってエレベーターを降りる果南に涼一は訊ねた。
「お前は?いないの?」
「なに?」
「好きな奴」
「・・いない」
 少し間を空けてぽつりと言った。
───えっ?
 涼一が何かを確認しようとした時、エレベーターの扉が閉じた。2重のガラス扉の向こうで果南はいつものように明るく手を振っていた。


 永田理恵子の行動は相変わらずだった。時折姉の由貴を訪ねて来ては夕食を食べて帰るのだが、由貴の目を盗むようにして涼一に妖しい行動をとる。最近では涼一の部屋にまではいってくるようになっていた。
 ただ由貴から聞いたところによると、理恵子には短大時代から付き合っている遠距離の恋人がいるらしい。恋人がいるのに7歳も年下の涼一に気のある素振りをするというのは腑に落ちなかった。
 涼一は玄関の扉を開けるとまず初めにたたきに並ぶ靴を確認する。由貴のそれよりひと回り小さい理恵子の靴は今日は並んでいなかった。涼一は少しだけほっとするが心のどこかでがっかりしている自分を冷静に感じていた。
「ただいま」
 涼一は台所にいる姉に聞こえるように言って、自室に入る。
理恵子と一緒にいる時間は、甘い秘密の香料を垂らしたぬるま湯に浸かっているようで心地よい。いつまでもそこに浸っていたいような誘惑に駆られる。
 けれどその気持ちは、先程果南に訊かれたような恋だとか好きだとか、そういう種類のものとは少し違う気がした。
 それよりも。
 涼一はベッドに仰向けに寝転がって考える。
 気になるのは先刻見せつけられた果南の表情のほうだ。
───なんだよ、あの顔は。
 口に出していいものかどうか、迷っているような瞳だった。「いない」と告げた言葉に偽りの響きを感じた。
 好きな奴がいるのだろうか。
───あのいつまでも子供っぽい果南に?
 涼ちゃんばなれ、と果南が口にした言葉が涼一の胸に痞える。
 果南が離れていくなんて今までただの一度だって考えもしなかった自分を、涼一はなんて間抜けなんだろう、と笑いたくなった。


「お前の奥さん、浮気してるって噂だぞ」
 1学期の中間テストが終わって少し経った頃、涼一の小学校時代からの友人の広瀬達也(ひろせたつや)が耳打ちしてきた。なんだかにやけた顔をしている。人の不幸がそんなに面白いのか、と問いたくなった。
 奥さん、というのは果南のことだ。ただの幼なじみなんだ、と説明しても、果南と涼一をまるで夫婦のように揶揄する同級生は沢山いた。
「浮気?なんだ、それ」
 涼一はそう口にするのが精一杯だった。なんでもない振りで、机の中から次の授業の教科書を出す。自分の疑いが真実になっていくのが怖かった。
「D組のな、高藤真治(たかとうしんじ)って奴が、江口にちょっかい出してるんだって」
「ちょっかい、って・・。古臭い言い方だな」
「滅茶苦茶かっこよくて、面白い奴らしいぞ。B組の俺の耳にまではいってるんだ、お前江口から何にも聞いてないのかよ」
 全く寝耳に水の話だった。昨日も果南は涼一の部屋に遊びに来ていたが、同じクラスの人間の話は全く出てこなかった。
「有熊」
 達也が涼一の斜め後ろの席で聞き耳を立てていた有熊紀子を呼ぶ。紀子は待ってましたとばかりに近寄ってきた。笑っている為盛り上がった頬の肉が、てかてか光っている。
───どいつもこいつも、何でそんな、嬉しそうなんだ。
「なんかさ、すんごいプッシュプッシュなんだって、高藤君。果南が磯崎君以外の男の子とあんなに楽しそうに話してるの初めて見たよ、あたし」
 果南は学校では涼一とふたりでいる時とは打って変わっておとなしく、控えめで目立たなかった。確かに自分以外の男子生徒と果南が談笑しているとこなど想像もつかない、と涼一は苦く思った。
「あ・・」
 達也が廊下に視線を送った。その目線の先を辿ると、今噂しているふたりが笑いながらA組の教室の前を歩いていた。これから音楽室に行くのか、果南は音楽の教科書で口から下を隠して高藤真治とやらの言葉に肩を震わせながら笑っていた。肩に触れている三つ編みにした髪が、小刻みに揺れている。高藤は身体半分を果南のほうに向け、時折その顔を覗き込むようにして話しをしている。何を喋っているのか聞き取ることは出来ないが、おどけた高藤の声は教室にまで響いていた。
 果南は教室を移動する時は、大抵紀子か涼一に声を掛けて行く。それなのに今は顔をこちらに向けることすらしないで素通りして行った。おそらくは高藤の話に夢中になっていたからだろう。その事実が涼一の胸に痛く刺さる。
 涼一を囲んだ紀子と達也が憐憫の表情を向ける。ふたりを交互に睨みつけると、
「なんだよ・・」
 涼一は怒ったように呟いた。



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