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いつも手をつないで 5.
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 翌日、廊下で果南を見かけた涼一は
「今日俺、達也んちに行くからさ、迎えに行けないよ」
 いつも通りに話し掛けた。
 俺ハ昨日ノ事ナンカ全然気ニシテナイヨ。そんな感じで。
 果南も少しだけ目を見開いて涼一を見たが
「うん。わかった」
と、ぎこちない笑顔で返す。
───なんだってこんな風になるんだよ・・。
 涼一の口いっぱいに苦いものがこみ上げてくる。
 自分と果南がこんな下手な芝居を演じているかのような会話を交わす理由など何もない筈なのに、ふたりとも申し合わせたように空々しい台詞を吐いている。
 ふたりがこれまで積み上げてきた関係すら嘘っぽい板の上の出来事のように思えてならない。
 昨日降下するエレベーターの中で用意しておいた言葉はもう口にはできない、と涼一は思っていた。逃してしまった機会と感情の高揚を取り戻すのは難しいと感じていた。
 ただ、このままだと間違いなく自分と果南の距離は広がっていく。そんなことを考えてはひとり焦燥感を募らせていた。その気持ちが恋心からくるものなのか、それともこれまで大事にしていた自分だけのおもちゃを他人に手渡すのを嫌がって駄々をこねる子供のような思いからなのかは、涼一自身判断し兼ねていた。


 涼一が広瀬達也の家を出た時、時刻はもう8時を過ぎていた。
「たまには晩ご飯くらい食べていったら?涼一君みたいなハンサム君が食べてくれるとおばさんもご飯の作り甲斐があるわあ」
という達也の母親の優しげな声にほだされてついつい長居してしまった。達也の家は涼一たちのマンションから自転車で10分くらいのところにある新興住宅地に建つ新築の一軒家だ。母親の趣味のトールペイントが高じてカントリー風のインテリアが施されているその家は、いつ遊びに行っても焼きたてのパンやお菓子の匂いだとか、夕ご飯に使われるしょうゆの匂いだとか、そんな家庭的な香りに包まれていた。
 達也とは他愛のない話を終始していたが、帰り際に
「お前もさ、カノジョ作ったら?」
と言われてしまった。「江口のことなんか忘れてさ」
 どうやら噂では、高藤と果南はとうとう付き合い始めたことになっているらしい。磯崎涼一は振られて最近ちょっと荒れている、という尾ひれまでついているのだと、達也は教えてくれた。


 家に着くと玄関に見慣れたサンダルがあった。果南のものだ、とすぐに分かった。なんとなくそれを見詰めたまま身動きできなくなっていた涼一に
「涼一」
由貴が玄関まで出てきて声を落として教えてくれた。「果南ちゃん、涼一の部屋で寝ちゃってるのよ」
「・・は?」
 思考が上手く纏まらない。由貴は苦笑いしていた。
「8時前に来てね、涼一遅くなるからって言ったんだけど待ってるって言って帰らないのよ。で、さっきジュース持って行ったらさ、涼一のベッドで寝てるの」
 涼一が自室のドアを開けると果南は膝を抱えるような格好で横向きになって寝ていた。
「なんだか、まだまだ子供って感じよね、あんたたち」
 なにを呑気な、と涼一は思う。由貴の言葉は最近いつも的を外している。
 由貴が部屋を出て行ったとき涼一はドアを開けたままにしておくべきかと一瞬迷ったが、結局閉めてしまった。誰にも邪魔されずに果南の寝顔を見詰めていたかった。
 涼一は椅子に腰を降ろして静寂な時間の中で長いこと果南に視線を預けていた。
 おそらくレッスンを終えシャワーも浴びて来たのだろう、いつもは束ねられている果南の髪の毛は今は解放され、毛先が少しだけ濡れていた。上気した頬のすぐ傍の濃い桜色の平凡な形の唇から少しだけ白い歯が覗いている。無防備な寝顔を愛しいと思う。
 いつもこんな風にすぐ手の届く場所にいてくれたらと涼一は初めて強く願った。
 その静寂は不意に破られた。果南がううん、とうめいて寝返りを打ち瞼を開いた。
「涼ちゃん・・」
 果南が口を開いたのと、涼一が腰を上げたのと殆ど同時だった。起き抜けでぼんやりしている果南の横に座ると、涼一はその身体に覆いかぶさった。果南の両手首を掴んで唇を重ねてみる。柔らかく生暖かい初めて覚える感触だ。その後どうすればいいのか分からない涼一は舌を出して果南の唇をなぞってみた。
 果南の身体がばねのように跳ねて起き上がった。はじかれたように涼一から距離をとる勢いで膝でベッドの上を後ずさった。
 信じられないものを見るように涼一を凝視する。手の甲を唇に当てて、何か言葉を探しているようだった。
「な、な、なにっ」
「・・・」
「なにしたの・・」
 怯えを含んだ声だった。
「・・・」
 涼一も言葉を失っていた。してはいけないことをしてしまった、と思った。
 ふたりは狭いベッドの上で互いを見合っていた。
 果南の目に涙が滲んでくるのが分かったが、かける言葉が見つからない。
「ばか・・」
 果南は言うとごしごしと唇を手の甲で擦った。その仕草に涼一は衝撃を受ける。心に亀裂が走る気がした。
「なんでこんなこと・・」
「したかったからだよ」
「・・・」
「したかったからしたんだよ」
「涼ちゃん・・」
「俺は、もう、こんな風にしかできない。こんな風にしか果南のことを見ることができないんだ。こういうことされるのが嫌なら、もう俺に近寄るな」
「・・・」
 果南の顔が歪んだ。ベッドに座り込んだまま泣き始めてしまった。
 ぽたぽたと、折り曲げた果南の膝に落ちる涙から涼一は視線を逸らした。心が痛いと思う反面、果南の泣いたところを最後に見たのはいつだったろうかと頭の冷静な部分で考える。
 幼い頃、喧嘩をして泣くのはいつも果南だった。最後には必ずと言っていいほど涼一が果南の顔を覗き込み「ごめんね」を言うのだった。今も果南は涼一がそうするのを待っているのかもしれない。そうしてあげれば、昔のふたりに戻れるのかもしれない。
 けれど涼一は言うべき言葉を飲み込んだ。自分が元通りになることを望んでいないことに気が付いてしまったからだ。それが今の果南にとってどれほど酷なことかわかっていながらそのまま時間だけが過ぎるのを待った。
 やがて果南は頬を拭うとベッドから降りた。
「・・帰る」
 肩を落として部屋を出て行く後ろ姿を見ながら涼一は、ふたりが大切に育んできた穏やかな時間がここで終わってしまうのを予感した。そう仕向けたのは他ならぬ涼一自身だった。先程果南の寝顔を見詰めながら、いつも手の届く場所にいて欲しいと強く願ったくせに、その数分後には自分から断ち切ってしまうなんてどうかしている、と思った。
 玄関のドアが静かに閉じる音を聞きながら、そういえば果南は何か用があって 自分の部屋を訪れたんじゃなかったのか、と涼一は初めて気が付いた。
「今更・・」
 間抜けなことを考える自分を涼一は笑いたくなった。



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