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いつも手をつないで 6.
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 磯崎涼一は友人の広瀬達也に携帯電話を借りて、父親に自分の高校合格を報せた。
 いつもは殆ど感情の起伏を見せない父親に
『そうか、そうか。よかったなあ。お前頑張ってたからなあ。うん。よかった、よかった』
 しみじみと言われて、改めて涼一は胸いっぱいに喜びが溢れてくるのを感じた。もう3月だというのに気温は低く肌寒い日だったが、涼一は暑いくらいの熱気を感じていた。合格者の番号を載せた掲示板の周りには、同じように頬を上気させ携帯電話で身内に喜びを報告する人間が大勢いて、その群れから脱出しながら涼一は江口果南の姿を探した。
 一週間前、試験会場で果南を見かけたときには正直驚いた。
───涼ちゃんと離ればなれになるの、やだな。不安だよ───
 半年以上も前の果南の心許ない声が甦ったがすぐに打ち消した。そんなこと有り得るはずがない。ただ単に自分の成績にあわせて志望校を決めたに違いなかった。
「江口探してんの?」
 達也に訊かれて涼一は
「うん・・」
 正直に答えた。
「江口合格してたよ。うちの中学から受験した奴の番号、連番で全部あったもん」
「そっか・・」
 また同じ学校に3年間通うことになってしまったな、と涼一は少なからず困惑していた。


 あれからふたりは一度も言葉を交わしていない。
 視線だけは絡むこともあったが、すぐに涼一のほうからふいっと外すのだった。果南の瞳には侮蔑や嫌悪や憤懣といったものが込められているような気がして涼一は真っ直ぐに見返すことが出来なくなっていた。自分のしたことは間違いだった、と認めざるを得ない。ただ、涼一は後悔だけはしていなかった。あの時は本当にそうしたかったのだし、あのままの関係を保ち続けていく自信は自分にはなかったのだ。


 高藤真治は結局果南に振られたようだった。有熊紀子がおしえてくれたので確かな情報だったが、一時期果南が、涼一と高藤のふたりを天秤にかけていたなどと言う噂が校内に広まって果南は女子生徒からシカトされるなどのいじめにあっていたようだった。短い期間だったが、その時だけは涼一も果南と話がしたくて何度か声を掛けようとしたが結局できないでいた。
「大丈夫よ。あたしがちゃんとそんなことないって言って回ってるから」
三年生の中でもボス的存在の紀子が味方についていたからこそ事態はより早く収拾がついたのかもしれなかった。
「ねえ、果南と磯崎君どうなってるの?最近話もしてないんじゃない?」
 紀子に訊かれて涼一は正直に答えた。
「ふられたんだよ。・・多分」
「多分ってなによ」
「俺も弱っちいからさ、ちゃんと告白しないままふられたんだよね」
「なに、それ。わけわかんない」
 紀子は少し躊躇ってから「果南は磯崎君の名前出すと最近露骨に嫌がるんだよね。何も訊いてくれるなって感じで・・・」
 深く考えないで口にしたのだろうが、その言葉は涼一の中に濁った水溜りを作った。思っていたよりずっと自分の行為は赦されないものだったのだ。濁った水溜りを抱えた胸の辺りが重くゆらゆらと蠢く。自分はいつまでこの重みを抱えたまま暮らしていかなければならないのだろうか。
「果南に何かした?」
 紀子の、外見からは思いもつかない鋭さに涼一はどきりとする。しかし紀子はすぐに
「まさか磯崎君に限ってそんなことあるわけないか・・」
と自分の質問に自ら答えを出した。
「何考えてんだよ、変な奴」
 涼一は曖昧に笑って話題を変えた。


 高校の合格発表の日から数日後の土曜日、涼一は合格祝いにと以前から欲しかった携帯電話を父親に買ってもらい、その後父親と別れて本屋だの、CDショップだのをぶらぶらしていた。街の喧騒の中を歩くのは何ヶ月ぶりかのことだった。
 そろそろ帰ろうかな、と思っていたとき不意に肩を叩かれた。
 振り返ると永田理恵子が立っていた。髪を少し茶色に染め短目のショートにし、春物のセーターにジーンズ、スニーカーという軽装だった。
「久しぶりね」
 理恵子は受付から外国為替の仕事に移動になった途端残業が増え、平日に涼一の家に来ることはなくなっていた。
「高校、合格したんだって?おめでとう」
 涼一は旨く話せなくて笑顔だけで応えた。理恵子は相変わらず誘うような艶っぽい瞳で涼一を見る。
「なんだかちょっと見ない間にまたいい男になったって感じよね。背も伸びた?」
「そう・・かな」
「何買ったの?」
 理恵子は涼一の手にしている紙袋を覗き込む。「え?もしかしてケータイ?」
「合格祝いに・・」
「生意気。・・でもいまどきの高校生なら当たり前か。小学生だって持ってるもんね」
 涼一は短く刈られた理恵子の後ろの髪からのぞく白いうなじを見詰めた。
 どうして理恵子といると自分はこんなにも官能的な気持ちになるのだろうかといつも不思議に思う。もしかして自分にとって理恵子は、グラビアやビデオのなかに登場する女の子たちと何等変わりはないのかもしれない、と気が付いて自分に呆れる。
「ねえ、お腹すかない?なにか食べに行こうよ。おごるからさ」
「いいですよ」
 理恵子はにっこり笑って涼一の腕に自分のそれを絡める。甘いコロンの香りが鼻を掠めた。胸の鼓動の高鳴りが理恵子に聞こえるのではないかというくらい強く打っていた。
 人ごみの中を少し歩いたところで理恵子が突然足を止めて、いたずらっぽい顔を涼一に見せた。
「ねえ」
「え」
「食べに行くのやめにしてうちに来ない?」
「・・・」
「なにか作ってあげるから」
 煽るような濡れた瞳で涼一を見る。
 もし、今ここで頷いたら理恵子の部屋でどういうことになるのかは容易に想像がついた。
 ふたりは雑踏の中で腕を絡ませたまま見詰め合った。
「いいですよ」
 涼一は先程どこかで食事でもしようと言われたときと同じように答える。何故か答えを出した途端、一気に緊張がほぐれた気がした。
 理恵子は少しだけ目を見開いたが、すぐに甘えたように涼一の腕を自分の身体に引き寄せて歩き始めた。涼一は理恵子のいざなうような甘い香りに浸りながら、また自分と果南との距離は広がっていくな、と感じていた。圧倒的な寂しさに包まれながらも目の前にしたたる芳しい蜜を振り払えない自分を涼一はもうどうしようもない、と思った。
 自分の抱えた重い濁り水や荒涼とした寂寥感は永田理恵子にしか消せない、そんな気すらしていた。



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