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いつも手をつないで 9.
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 文化祭の出し物について。
 果南が白いチョークで黒板にそう書いたのを確認すると
「なにか意見があれば出してください」
 いつもの席より一段高い教壇に立ってクラスメイトの顔を見回しながら涼一は言う。担任の押田は涼一の席に腰を降ろしていた。
 みんな口元を緩めて涼一のほうを見つつもなかなか口を開こうとしない。この辺りまで予測していた涼一は
「じゃあ、5分間、周りの人と話し合ってみてください」
 ありきたりだな、と思いながらそう言った。途端に教室中が騒がしくなる。
「おい、ちゃんと、文化祭の話しろよな」
 涼一が言うとどっと笑いが起こった。涼一は溜息を落とす。
「ちゃんと、決まんのかねえ・・」
 背中を教卓に預けてそう言うと果南は何も言わずに笑った。
 涼一も笑い返しながら、背中に痛いほどの視線を感じていた。女子生徒達の好奇と男子生徒達の嫉妬と羨望の入り混じった眼差しだ。急速に親しい関係に戻りつつあるふたりに近頃よく向けられる視線だった。けれど涼一は少しも意に介していなかった。やっかみたいヤツはやっかめばいいのだ。それよりも果南を少しでも孤独から救ってやりたい、それができるのはおそらくこの学校中で自分しかいない。涼一は奇妙な使命感に駆られていた。
「磯崎」
 不意に教室の隅から声が掛かる。涼一が振り返ると
「ホストクラブやろうってさ」
「ホストクラブううっ?」
 涼一は思わず大きな声を上げてしまった。
「漫画でやってたんだけど、面白そうだったぜ」
「男子がスーツで女の子の客の相手して、女子は裏方で飲み物出したりすんの。どう?」
「あ、それだと、あたし達楽そうでいいねえ」
「ホストクラブって・・・」
 涼一は級友のあまりにも突飛な発想に担任のほうに視線を向ける。
 担任の押田は面白そうに、にやにや笑っていた。
「なんか、磯崎メチャクチャ嫌そうだけどさ、磯崎が一番似合ってそうだよねえ」
 笹野悠里の言葉に教室中から笑いが起こる。
「笹野。お前ヒトゴトだと思って笑ってるけどな、お前はどう考えても裏方じゃなくてホスト役だぞ」
「ナンバーワンだよなあ」
「あ、ひっどおい」
 収拾がつかないほどの盛り上がりを見せるなか、果南の思いっきり笑っている姿が視界にはいって、涼一はほっと安堵した。こんな風に少しずつでもこのクラスに溶け込んでいってくれたら。そう思っていた。


「最近江口さんよく笑うようになったねえ」
 その日の放課後教室に残っていた涼一に悠里が話しかけてきた。果南はバレエのレッスンがあるらしく、いつもHRが終わると同時に教室を飛び出していく。
「あたしも時々話しかけてるんだけど、あの人の笑顔硬くってさ。あたしが怖いのかな・・」
 悠里が首を傾げる。
「まあ、最初はそんなもんだろ。あいつ、元々人見知り激しいし」
「ふうん」
悠里は口元を緩めると「幼なじみってなんかいいね。なんでも分かってるって感じで」
 素直な口調でそう言った。
「どうかな。ややこしいこともいっぱいあるけど・・」
「例えば?」
 悠里が好奇心旺盛な瞳で涼一の顔を覗き込む。涼一は苦笑いすると
「そんなことよりさ、俺は次の委員会が憂鬱だよ。ホストクラブだってよ・・」
 赤い縁の眼鏡を掛けた議長の顔を思い出していた。
「いいじゃん。3年生のなかにはウォーターボーイズやるクラスもあるってよ」
「よくそんなこと思いつくよな。そういうこと聞くと、俺ってつくづく平凡な人間だな、と思うよ。そんなこと思いもよらないもん」
「磯崎のカノジョは文化祭に来たりしないの?」
 涼一は悠里の質問に少し躊躇うが
「来ないよ」
 そう答えた。
「ならいいけど・・」
「・・・」
「磯崎、江口さんのことほんとに好きなら、ちゃんとカノジョと別れたほうがいいんじゃない?余計なお世話だとは思うけどさ」
「そう・・だな」
そうかもしれない。涼一は本当にそう思っていた。
「磯崎のさ、江口さんを見る目って、なんか切ないんだよねえ。思いをひた隠しにしてるんだけど、隠しきれてないっていうか」
「え?俺そんな顔してる?」
「だけど、かっこいいよ。だから、いい加減なことはしないほうがいいと思う」
 悠里の言葉を聞きながら、涼一はアロマの匂いの漂う薄暗い理恵子の部屋を思い出していた。
 理恵子の部屋に通い始めた頃は絶対にあの身体から離れることはできないと思っていた。けれど、今、果南の存在を近くに感じ、毎日顔を合わせていると、理恵子の身体と離別することはそれ程難しいことではないようにも思えてくるのだった。
 ただ理恵子にどう切り出せばいいのだろうか。本命のカレシとの恋愛が決してうまくいっているとは思えない理恵子にどんな風に別れを告げればいいのか見当もつかない。そもそも涼一と理恵子の関係に別れ話が必要なのかどうか、それすら不確かだ。涼一は真剣に悩み始めていた。


 5月下旬の屋上は、コンクリートに落ちる太陽の照り返しがきつくなり始めていて気温も上がっていた。それでもかろうじて日陰を作っている涼一と果南の定位置は幾らかはしのぎやすく、相変わらずふたりはそこで昼食を共にしていた。
「サンドイッチ、もらってもいい?」
「いいけどさ。お前よく食うねえ。なのに全然太らないのな」
「いっぱい食べても太らないんだよね。体質かな」
 そう言えば昔から痩せっぽちだったな、と思う。果南の母親も線の細い身体をしていることを考えると本当に体質なんだろうな、と涼一は思った。
「コンクール出るの?」
「うん。1月に。スイスに行って来る」
「スイス・・」
「スカラシップとったら涼ちゃんとほんとにお別れだね」
 さらっとそんなことを言ってのける果南の顔をちらりと盗み見ながら
「とったらな」
そう言い返した。
「あ、なんか、コンクールのこと考えたらお腹痛くなってきちゃった」
「食い過ぎだよ」
「そうかも」
 果南は下腹部のやや左の辺りを軽く摩った。
「お前、そろそろ教室で弁当食わない?」
 食べ終わったパンの袋を片付けながら涼一が思い切ってそう言うと果南の動きが一瞬止まった。涼一の顔を見ようともしないで口を開いた。
「・・なんで?涼ちゃんがそうしたいんならひとりでそうすれば?」
 平静さを装ってはいたが、弁当箱を持つ手がやや震えていた。
「そんな言い方するなよ。今だったら、前と違ってみんなと仲良くできるだろ?」
「なんで?どうしてみんなと仲良くしないといけないの?」
 果南は鋭い視線を涼一に向けた。
「果南・・」
「あたし、誰とも仲良くしたくない」
「・・・」
「みんないい加減なことばっかり言ってるし、あたし口下手だからちっとも言い返せないし。昨日まで仲の良かった人が急に口利いてくれなくなったり、無視したり、みんな平気でそういうことするんだよ」
「・・・」
「あたし、誰かと仲良くしたいなんて、全然思ってないよ、涼ちゃん」
 怒ったようにそう言うと立ち上がった。
 涼一は言葉もなく呆気にとられてその場に立ち尽くしていた。自分が思っていたより果南の傷はずっと深かったのだ。涼一が勝手に抱えていた奇妙な使命感は粉々に砕け散っていた。何とかしてやろうなんてとんだ思い上がりだった。
「・・・ごめん」
 涼一は素直に謝った。
「涼ちゃん、そんなこと考えてたんだ。ばっかみたい」
「ばかってなんだよ・・」
 ふっと視線を下げた涼一の目に果南の白いソックスについた赤い染みが映った。見ると果南のスカートから覗く細い脚を赤黒い一筋の線が伝っている。果南も気付いたらしく呆然と自分の足元を見詰めていた。
 掛ける言葉が見つからず目を逸らそうとしたが、なんだか果南の様子が変だと気が付いた。顔から血の気が引いて足元ががくがくと震えている。半端ではない狼狽えぶりに涼一は慌ててベンチに掛けていた自分の学ランを果南の腰に巻くと掠れた声で訊いた。
「お前、今まで、なったことないの?」
 涼一の問いに果南は微かに震える首を縦に振った。涼一は軽い眩暈を感じた。成長が遅いにも程がある。
 涼一は果南の少女のように細い身体を見詰めた。
 果南の顔が僅かに歪んだ。そう思った途端、果南はその場に蹲ってわっと泣き始めてしまった。
「お前、ここで、待ってろ」
 言うと涼一は屋上を後にした。教室に一目散に駆けていくと、笹野悠里の姿を探した。
「誰とも仲良くしたくない」と果南は言ったが、他にどうすればいいというのか。涼一には分からなかった。


 その日ふたりは午後の授業をフケた。
「先生にはテキトーに言っとくから」
 任せといてと言わんばかりの笑顔の悠里に
「笹野、悪いな」
「笹野さん、ありがとう・・」
 涼一と果南はほぼ同時に言葉を発していた。
「なんだ、ちゃんと喋れるし、笑えるじゃん」
 悠里は男っぽい仕草で果南の顔をぱちぱちと軽く叩いた。


 果南と涼一はいつもの通学路を、ただ、黙って歩いて帰った。
 幼い頃そうしたみたいに。
 いつまでも。
 手をつないで。


 そしてその週末の永田理恵子との約束を涼一は初めて自分のほうから断った。
 季節は春から梅雨へと少しずつ変わり始めていた。



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