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第一章  「月の砂丘にひとり」  1.
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 自分にはどうしてだろう、夜になっても眠りの入り口がなかなか見えてこない、と相川祥子は思う。探せども探せどもそこまで辿り着くことが殊のほか困難なのだ。今に始まったことではない。わりと昔からそうだった。幼い頃から寝つきが悪かった。ただ歳を重ねるにつれその症状がひどくなっていることだけは確かで、殊に、四年間一緒に暮らした夫と去年離婚して、このマンションの一室でひとり夜を迎えるようになってからは、深夜二時をまわってもまだ意識が冴えざえとしていることが幾度となくあった。
 眠りの淵に立っている時でさえ、夢をみては泣きながら目を覚ましてしまうのだ。
 寝入りばな、いつもみる夢はこうだ。
 祥子はパジャマ姿のまま毛布を身体に巻いて月にいる。月の表面に座ってただ茫としているのだった。そこは月のはずなのに、どうしてだろう、祥子が腰を降ろしている場所は、さらさらと粒子の細かい砂の上だった。その小さな粒が毛布の裾に無数に散らばっていくのが気になって仕方がない。けれど砂は掃っても掃っても纏わりついてくる。無限に湧いてくる砂の粒を追い立てることに飽きた祥子が視線を上げると、そこは一面の砂漠となっていた。幼い頃両親に連れられて行った山陰の砂丘とよく似ている、と思った。ただ広漠と茫洋と、砂の海は祥子の眼前に広がっていた。
 月の砂丘に祥子はひとりきりだった。
 漆黒の闇の中で、砂の表面はぼうっと白く光を放っていた。時折吹く風で砂埃が微かに舞う。光の粒がきらきらと飛揚する。
 少し離れた砂の稜線の向こうに、毛並みの良い薄灰色のウサギが二本足で立ち、杵を抱え上げたり振り下ろしたり、繰り返しそうしているのを発見する。童謡の中だけの生き物だと思っていた餅搗きをするウサギの存在を目の当たりにして、祥子は驚き目を見張るが、ウサギの瞳に祥子は全く映ってはいない。黒くぬめった飴玉のような目は一心不乱に臼にだけ注がれていた。誰にも食べてもらえない餅をただひたすら搗くウサギをじっと眺めていると悲しみがせり上がってきた。ただ餅を搗く為だけに搗いている。滑稽なまでの懸命さで搗いている。そのことが悲しくて仕方ない。ウサギから視線を逸らした祥子の瞳に、今度は、暗闇の宙の中、遥かかなたにぽっかり浮かぶ青い球体が飛び込んでくる。祥子は「あっ」と声を上げ愕然とする。それはテレビや教科書でよく目にする青に白い絵の具を垂らし混ぜ合わせたマーブル状のそれではなく、真っ青なつるんとした球体だった。ちょう度ビリヤードやボーリングの玉のような、艶々とした青一色の球体だ。それでも祥子はそれを地球だと認識する。
  ああ、とうとうこんなところまで来てしまった、と思う。とうとう自分は本当にひとりぼっちになってしまったと。
  そうしてさめざめと涙を流す。泣きながら現実の世界に引き戻されるのだ。 


  祥子は耳をつんざくようなけたたましい時計のベルの音で目を覚ました。やっと眠りに落ちたばかりだというのに。名残り惜しげに身体を起こす。右側頭部がきりりと疼く。身体がひどくだるい。それでも仕事があるのでいつまでも寝ているわけにはいかなかった。
 昨日は、というか今日は何時に寝入ったっけ、と記憶を手繰り寄せながらベッドから抜け出る。このマンションを買った時に購入した、メープル材のダブルのベッド。ナチュラルなインテリアにしようとベッドカバーは濃い茶色、掛け布団はアイボリーに茶色の細い線がはいっているものを選んだ。
「僕はモノトーンの部屋に憧れていたんだ。この家は君の匂いしかしないね」
  かなり後になってから夫は不満げにそれを口にした。
 キッチンに立つと白いホーローの薬缶に水を入れ火にかける。昨日の晩御飯の残りの味噌汁も温め直す。どんなに眠くても怠惰でも朝ご飯は抜かない。空腹を覚えると途端に仕事に集中できなくなるから。
 祥子は短大を卒業してからずっと大手商社で働いている。男性営業社員の補佐が主な仕事だ。もう十二年になる。手取りのお給料は男性社員のそれには程遠いが、それでも同じ歳頃の女性の平均年収と比較するとかなり多いほうだと思っている。
 マンションの残りのローンを考えると仕事をうしなうわけにはいかなかった。  ご飯、大根と油揚げと豆腐の味噌汁、目玉焼き、白菜の漬け物、熱い緑茶を並べるとテレビのニュース番組を見ながら食事をとる。今日会社に着ていくスーツはすでに昨夜のうちに選んであった。身体にぴたりとしたグレイのパンツスーツ。それに合わせて、先週買ったばかりの、踵の高い先の尖った黒い靴を履いていくつもりだ。
 祥子は、自分の顔のつくりはやや地味目だと思っている。目が細いし、印象も薄い。だから化粧は念入りにする。特に目許はアイラインもマスカラも手を抜かない。
 今日は昼休みに短大時代からつき合いのある友人、知世と一緒にランチをとる約束があった。知世は祥子と同じ時期に結婚したが、祥子と違い結婚と同時に勤めていた銀行を辞め、今はふたりの女の子の母親になっている。同性の友人と会う時には妙にお洒落に気合いが入る。
 朝の仕度を全て終えると部屋を出た。今日は一本早い電車に乗れそうだ。頭痛は起きた時より少しだけ軽くなっていた。時折欠伸が出るがじき治まるだろう。今これだけ睡眠を欲しているというのにどうして夜になると眠れないのだろうか。不思議でならない。
 鍵をかけるとエレベーターに向かった。靴の踵がコンクリートの床にこつこつとリズムを刻む。
 夫と別れてからの平日の朝はいつもこんな感じだ。いつもどおりの朝だった。


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