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第一章  「月の砂丘にひとり」  2.
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 昼休み。
 予約しておいたイタリア料理の店の扉を開くと、春らしい薄いピンク色のワンピースに身を包んだ知世が、奥の窓際の席からひらひらと手を振るのが見えた。大きく開いた胸元からは、レースのついた白い小花柄のタンクトップがのぞいている。ひとりだった。まだ一歳になったばかりの下の子は、近所に住む自分の母親に預けて来るからと言っていた。上の子はこの春から、有名な私立の幼稚園に通っている。受験の時期、ややノイローゼ気味だったのが嘘みたいに今日の知世は晴ればれとした血色の良い顔をしていた。
「で、病院には行ったの?」
 知世は白く丸い皿に乗った前菜の生ハムを、白アスパラガスに上手に巻きつけると口の中に入れた。アスパラガスから落ちたドレッシングが唇でてかてか光っている。
「ああ、うん。行った」
「何て言われた?」
「入眠障害でしょう、って」
「ニュウミンショウガイ?」
「眠りに入るのが下手ってことよ」
 祥子は早朝四時をまわっても眠れなかった日、とうとう会社を休んで総合病院の精神科の門を叩いた。一大決心だった。にもかかわらず、のっぺりと色白の若い精神科医は、
「一旦眠りに落ちた後は何時間でも眠れるんでしょう? それならまだ症状は軽いほうですよ。世の中には一日三時間も眠ってられないって人もいるんですからねえ」
 とのたもうた。
「睡眠導入剤を出しておきますよ」
 軽くあしらわれた感じがしてふっ、と気が抜けた。精神科というだけで必要以上に力の入っていた自分が恥ずかしくなった。他の病室とおそらくはどこといって違わない白く四角い空間。クリーム色のカーテンに銀色のカーテンレール。医師の横には女の看護師が立っていた。内科や整形外科となんら変わりはない。なんだ、こんなことならもっと早く来ればよかったと笑みすら浮かびそうになった。けれど、すぐに医師は真面目な顔になって、
「どうしても根本的な治療をしたいというのであればカウンセリング等で通院していただくことになりますが、どうします?」
「カウンセリング?」
 医師は、ええ、カウンセリング、と頷きながらカルテを見つめる。
「お仕事をされてるんだったら、平日の通院は難しいでしょうねえ」
 カウンセリングということは、この自分よりも年若い男に、自分の抱えている悩みをべらべらと打ち明けなければいけないのだろうかと、祥子はにわかに動揺した。
「いえ、薬だけで結構です。多分通院は無理だと思います」
 医師はちらっとだけ祥子の顔を見遣ったが、
「そうですか。じゃあ、薬がなくなったらまた来てくださいね」
 と言い、呆気なく診察は終わってしまった。
 出された薬はハルシオンというどこかで聞いたことのある名前の睡眠薬だった。
「ハルシオン?」
 知世が目を丸くしながら訊き返す。
「やだ。それってちょっとやばい薬なんじゃないの?」
「普通に飲んでれば問題ないわよ」
 両手を顔の前で振りながら祥子は苦笑する。
「ああ。でも飲んでからすぐにベッドに入っておかないとやばいって感じはちょっとだけあったかな」
「今も飲んでるの?」
「ううん。結構眠い感じが尾を引いたから、すぐにやめた」
 パスタが運ばれてきた。サーモンとグリーンアスパラのクリームソース味だ。 顔を上げた祥子は知世と背中合わせに座っている若い男のコの、金色に近い茶色の髪が窓から入ってくる陽射しにきらきら輝いているのを見つめる。向かいに座っている眼鏡の男はぴっちりと七三に分けられた黒い髪に紺色のスーツを着ていた。真面目なサラリーマン風だ。兄弟だろうか。できのいい兄とフリーターの弟。そんな感じだ。ふたりの間に会話は殆どなかった。
「去年はあたしもひどい不眠症だったわ」
 知世が昔を懐かしむように言う。知世のパスタはトマト味のソースで、真っ白な皿の上、海老と茄子が赤オレンジに染められていた。
「うん。ひどい精神状態だったよね。あたしが慰めても全然聞いてないって感じだったもん。だけど、ちひろちゃん、合格してよかったね。楽しそうに幼稚園、行ってる?」
 祥子は知世の長女の顔を思い浮かべた。母親譲りの愛くるしい顔には笑うと小さなえくぼができる。他人の自分ですら撫で回したくなるほど可愛いのだから知世や知世の夫は相当溺愛しているのではないだろうかと想像する。
「うん。行ってるよ。仲のいいお友達も何人かできたみたい」
知世は頷くがすぐに顔を顰めた。
「でもまだ、まひろがいるからね。今からまた大変になる」
「え。まひろちゃんもあそこに入れるつもり?」
「当たり前じゃない。姉妹ふたりが別々の幼稚園に行くなんて変でしょう?」
 この女は、あの人相が変わるほどの苦労を再び好きこのんで背負い込もうとしているのか、と祥子は呆れた。その思いが顔に出ていたのだろう、知世はむすっと黙り込んでしまった。黙ってオレンジ色のパスタをフォークに巻きつけ口に運んでいる。来た時には彼女を若く見せていたピンク色の口紅はとうに剥がれていた。
「だけど、祥子は眠れなくなるほど、一体何を悩んでるの? いくら離婚したとはいえ、祥子は何でも持ってるじゃない。A商事に勤めてるでしょう。一等地にマンションを持ってるでしょう。それから──」
「それだけよ。あたしは人に羨ましがられるようなものは何も持ってないもの」
 指折り数えようとする知世を止める。
「あたしも、子供がいればよかったのかな。すかすかしてるっていうか、何かが足りない感じがする」
 四年間の結婚生活でとうとう子供は授からなかった。不妊治療を、と気がつく前に、もうふたりの仲は冷え切っていた。
 知世の背中側のふたり連れが立ち上がった。殆ど会話らしい会話もないままに。椅子を戻そうと振り返った男のコの顔立ちの美しさに祥子ははっと目を奪われる。店に入って来た時には彼らの横にある大きなオリーブの植木が目隠しになって気がつかなかったが、息を詰めるほどの美しさがそこにはあった。
 小さな顔。さらさらの肩までの茶色い髪。くっきりとした黒目の部分の大きな目。すっと細く高い鼻。それら全てがバランスよく整然と纏まっている。背はあまり高くなかった。百七十センチちょっとくらいだろうか。線も細い。華奢で儚い印象なのに、華美と言っていいうつくしさをも併せ持っていた。どんな大勢の中にいようとも絶対人目を引く。そんな顔立ちだ。
 こういうコをきっと美少年と言うのだろうと、祥子がぼんやり見惚れていると、目が合ってしまった。自分が心奪われていたことに気づかれてしまったと狼狽する祥子をよそに男のコはにっこりと微笑んだ。
 ──うわっ……。
 可愛い。
「祥子?」
 不思議そうに祥子の視線を辿って後ろを振り返る知世。けれどその時にはもう、男のコは会計を連れの男に任せてしまって店を出るところだった。
「何?」
「うん?」
祥子はふふ、と笑う。
「すっごい、美少年がいたの」
「は?」
「ううん。何でもない」
 顔立ちの整った男を見ると自分とは全く縁のないイキモノだと祥子は思ってしまう。だからずっと恋愛も、結婚相手でさえも、そうではない男を選んできた。なのにいつも捨てられてしまうのは祥子のほうなのだ。外見がぱっとしないからといって誠実だとは言い切れない、と最近になって気がついた。
 祥子は運ばれてきたデザートを見て僅かに眉間に皺を寄せた。粉砂糖のまぶしてあるカロリーの高そうなガトーショコラに、赤紫のソースに彩られたアイスクリームがぴたりと寄り添っている。
「あー。また太っちゃうなあ」
 祥子の呟きに、知世が唇を尖らせた。
「何よ、祥子、それあたしに対する嫌味?」
 知世はふたりの子供を産んでから体重が独身の頃より五キロも増えたという。それでも太っているという程のものではない、と祥子は知世の細い首を見つめる。
「今日さ、夜も新人くんの歓迎会があるの。二食続けて外食はきついよね」
 そう言いながらフォークを持つ祥子の皿に、知世の手が伸びてきた。
「嫌ならあたしが食べてあげる。子持ちの専業主婦は外食なんて滅多にできないんだから」
「え。だめだめ」
 伸ばしてきた手を振り払いながら、祥子は笑った。一緒になって笑う知世の顔は穏やかで幸福そうだ。何でも持っているのは知世のほうだと祥子は思う。子供も夫もいるし、孫の面倒を喜んでみてくれる母親だっている。自分はどこでどう道を間違えてしまったのだろう。地味だけれど、真面目に地道に生きてきたつもりでいたのに。
 離婚という選択は自分には結構重かった。まだ独身でいたほうがマシだったと冷たいバニラアイスクリームを口に運びながら痛感する。あれから一年経ったというのに、自分の人生の染みのような汚点のような離婚という出来事を祥子は未だ消化しきれないでいる。
 バニラアイスクリームはひんやりと冷たかった。苦い思いとは裏腹の甘い香りが口いっぱいに広がった。

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