NEXT

第二章  「不変な日常なんてどこにもない」  1.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「いじわる……」
 祥子は瞼を開けると自分を見下ろす天を軽く睨んだ。小さな黄色い灯りを背にした男は唇の端を上げ、笑っている。陰影が映し出す男の顔はこんな時ですらうつくしい。
「……どうして、わかるの?」
 天の首に抱きつき、訊いた。出てきた自分の声の甘さに慣れることはない。手首の内側に天の汗がしっとりと滲む。
 どういう訳か、天は祥子をなかなか到達させてくれない。高みに昇らせるだけ昇らせて、直前になるとその巧みな動きをふいっと止めてしまうのだ。
「顔を見てたらわかるよ」
天の唇が祥子の耳朶を柔らかく噛んだ。首筋がぞくりと粟立つ。
「あたし、そういう顔、してる?」
 泣きそうな顔してるよ、と天は言った。
「泣きそうな目許が、今にも崩れそうに震えるんだ」
 無防備にそんな顔を天に晒しているのかと赤らんだ。
「や、だ」
「何で? 可愛いよ。……可愛いから、意地悪したくなる」
 悔しさと羞恥でいっぱになった祥子は唇を噛んで天の肩にその顎を乗せた。脚を天の膝に絡める。天は痩せて骨ばっているけれど、触れ合った皮膚は温かくすべすべと心地よい。祥子は身体の表面の全部を天に密着させたい、と思った。
 天が再び動き始めると、すぐにそれは近づいてきた。お願い、と祥子は懇願した。
「お願い、そら。もう……」
 天の首筋で吸い込んだ息は、天の汗の匂いをも祥子の中に浸潤させ、まるで天自身が溶け込んでくるような心持ちになる。身体の奥の熱がいやが上にも昂ぶる。
「うん。いいよ」
 唐突に激しくなった動き、ただそれだけで祥子は呆気なく果ててしまった。幾度も幾度もその際まで押し寄せ溜め込まれた快楽が、ひと息に解放されたのだ。その愉悦のうねりは、祥子の身体の限界をはるかに超えていた。天にしがみついて全身を震わせる。理性も思考も遠のいていくようで、怖い。
 天は知っているのだろうか。天のいたずらが、祥子の身体に与える快楽の深さを。
 知らないはずがない、と祥子は思った。天は知っている。知っていて、空恐ろしいまでの快楽を祥子の身体に刻み込もうとしているのだ。
 この狂喜の砌から祥子が逃げ出せないように。
 祥子はもっともっと深い這い出せないほどの深奥に入り込みたいという底の見えない欲求と、天という掴みきれない人間に対する言い知れぬ恐怖とを同時に覚え、それすらも快楽の火種となって間断なく襲ってくる波に、陶然と身を委ねた。


 今年、祥子のゴールデンウィークは木曜日までだった。
 明けた金曜日。
 取引先などがまだ連休中の為か、あまり電話が鳴ることもなくオフィスはひっそりとしていた。静まり返った中で、パソコンのキーボードを打つ音だけがカタカタと響く。今日一日出勤すれば、また土日は休みとなるのだ。イマイチ気分はのらない。
 後三十分でお昼になろうかという時間、パソコンに向かって伝票のデータ入力をしている祥子に、河野課長が声をかけてきた。自分の席に座ったままの課長に、人目を憚らない大声で名前を呼ばれた。はい、と小さく返事をして訝しげに見遣る。
「話があるんだ。ちょっと、来てくれるかね」
 河野課長は顎をくいっとしゃくって見せた。肉の弛んだ顎が指しているのは、部屋の隅の小さな会議室だ。 モグラは鼻溝を伸ばしてうっすら笑っていた。
──あー。また、か。
 河野課長の笑い方ひとつで、これからなされる話がどういう内容のものなのかすぐにわかってしまう。祥子は椅子を半回転させると不承不承に立ち上がった。遠回しではあっても、なるべくこちら側の嫌だという意思が伝わるように、故意に億劫そうな態度で会議室に向かった。
 営業の男性陣は課長以外みんな出払っている。残された人間は、休み明けの憂鬱さと気怠さを滲ませたまま、黙々と与えられた仕事をこなしている。 天は四月下旬、連休に入る少し前に仕事が決まった。と言ってもバイトだ。祥子のマンションから徒歩十分のレンタルビデオ屋だった。
 天は平日の今日が休みだ。昨日は遅番で、深夜一時過ぎに帰って来た天は、今朝祥子が出かける時まだベッドの中にいた。寝ぼけた顔で、いってらっしゃい、と言ってくれた。
 思い出して可愛い、と思う。天は可愛い。
「失礼します」
 祥子がドアを開けるとモグラはにこにこと作り笑いを浮かべいつもの細長い封筒を差し出してきた。
「あの、課長」
 こういうのは困るんです。迷惑なんです。これってセクハラじゃないんですか。
 今日こそははっきり言ってやろうと口を開く祥子に、モグラは押しとどめるような仕草でまあまあと両掌を見せた。
「や、相川君。そんな勢い込まないでくれよ。今回の話はね、お見合いとはちょっと違うんだ」
 などとのたまう。 お見合いとは違う?
 でも、たった今モグラが差し出したそれは明らかに釣書の入ったいつもの封筒ではないか。言いたい言葉を取り敢えずは呑み込んで、次の台詞を待った。
「まあ、座って」
 祥子は折りたたみ式のパイプ椅子に腰を下ろした。
 会議室には四つの長テーブルがある。いつもは口の字に並べてあるのだが、今日はその内のふたつだけが縦二列に置かれてあった。祥子が座っているのはドアに近い端っこだ。モグラは何が嬉しいのかにこにこと微笑んでいる。祥子はちっとも面白くなんかない。茶色いシャツを着て、本当にモグラみたいだと心の内側で悪態をつくばかりだ。
「いや、実はね。うちの家内が休み中に帰省している近所の青年にね、君の釣書と写真を見せたんだ。名前を神足君というんだがね」
 祥子は目を丸くする。
──は? 釣書?
 そんな物がこの世に存在するとは知らなかった。一体誰が書いたんだそんなもん。その上、写真? 写真って何だ。祥子はこのモグラ野郎に自分の写真を渡した覚えなど全くない。自分のあずかり知らないところでそんな物が出回っているとは、考えただけでも空恐ろしい。祥子が言葉もなく唖然としていると、
「神足君、知り合いなんだってね」
 モグラは自分の顎を撫でながらいやらしい笑いをその口許に浮かべた。
──コウタリ?
 祥子が眉間に皺を寄せて首を傾げていると、モグラはひとつ咳払いをして、とんとん、と長テーブルの上に置かれた白い封筒を指差した。祥子は渋々手に取って開ける。中身など見ずに突き返すつもりだったのに。
「彼は大学時代、君と同じサークルにいたと言ってたよ」
 封筒に滑り込ませた指先が止まる。祥子の頭にひとりの男の顔が浮かんだ。
 神足隆。
 短大の近くにある有名私立の大学に通っていた男だった。祥子よりふたつ年上だったと記憶している。確かに、彼の所属するサークルに祥子は知世や同じ短大の友人と一緒に入っていた。
 祥子はゆっくりと釣書を開く。釣書の右上に写真が一枚クリップで留められていた。仕事中に撮られたらしく、雑多な書類の積まれた机を前に、照れ臭そうに微笑んでいる神足隆がいた。後ろには他の社員の、後ろ姿や電話をしている姿も写っている。
──ああ。やっぱり、この人。
 祥子の知っている頃の彼よりやや頬がふっくらしているものの、昔と比べてそれほど変わってはいなかった。
 神足隆はサークルの中心人物だった。すごく顔がいいという訳でもないのに、彼には花があった。人を惹きつけるオーラみたいなものを持っていて、彼の周りには男女問わずいつも誰かがいた。知世や他の友人の陰に隠れるように存在していた当時の祥子から見れば、まさに雲の上の存在だった。
 その彼が祥子のことを覚えていたとは。驚きだ。
「思い出したかね?」
 モグラの声は上擦っていた。
「はい」
 満足そうに頷かれるとなんだかむかつく。こいつの思うツボにはまりたくはないと思う。
「いや、彼がね、君をひどく懐かしがってね。お見合いとかそんな堅苦しいのじゃなくていいから、一度会うだけ会ってみたいって言うんだよ」
 祥子は戸惑った。
「神足さんが、ですか?」
「そうだよ」
 祥子は納得いかないままに釣書に目を落とした。
 勤務先は有名な出版社だ。祥子も彼がそこに就職したという噂は聞いていた。一流大学に一流企業。当時つき合ってた女のコもすごい美人だったと記憶している。
 そこまで思って祥子ははっとした。
「神足さんって、結婚されてませんでした?」
 モグラの顔色が僅かに変わる。
「あ、ああ。まあ、ねえ。でも、君も、離婚歴があるわけだし、気にはならんだろう」
 無神経なことを言う。それに、気になるってなんだ。見合いじゃないとついさっき言ったばかりではないか。
 そうか。あの神足隆もバツイチになったのか。何でもソツなくこなす器用な男だと思っていたが、そんな要領のいい男でも結婚生活を継続していくという行為は、そうそう容易いことではなかったらしい。
 釣書には離婚歴については一切書かれていなかった。パソコンで印刷されたそれを見ながら、本来なら手書きなんじゃないかと祥子は訝る。これも、モグラの家内なるお方が作ったものなのかもしれない。祥子の釣書もきっとこんな感じなのだろう。怒るというより呆れ果てていた。祥子を辞めさせたいが為に見合いを勧めているのだとばかり思っていたが、実は、奥方の趣味だったのか。
「八歳になる娘さんがね、ひとりいるそうなんだ。もちろん、お子さんは、お母さんと一緒に暮らしてる」
 実はね、と。不意にモグラが声を低くした。祥子は釣書に落としていた目を向ける。
「君と直接話したいと言うんでここの電話番号を教えたんだ。自宅の電話番号を教えるわけにもいかないんでね」
そのくらいの常識はあるらしい。「今日の午後かけてくると言ってたから、そのつもりで」
 祥子は釣書を折り畳むと写真と一緒に封筒に仕舞った。
 複雑な気持ちだった。どこかの街や店で偶然再会したのなら喜んで昔話でもしたかも知れない。でも、この課長を介して会うのはなんだか嫌だった。
 それに。神足隆が祥子を覚えていたという事実にさえびっくりしているのに、会いたがっているとは。何だか腑に落ちない。祥子は本当に目立たない学生だったのだ。それくらいの自覚はある。
 もうひとつ。
 自分は天と暮らしている。目の前のモグラに、実は現在ハタチの男のコと同棲している、その男はコイビトではないが毎晩のようにセックスをしている、自分はそういうふしだらな女になってしまったので神足さんと会うわけにはいきません。そう告げたらどんな顔をするだろうか。モグラだってそんな話を聞かされればもう二度と、祥子に見合い話を持ってくるような真似はしないに違いない。祥子は長テーブルの木目をぼんやりと見つめた。それだけではきっと済まない。明日の朝にはフロア中の人間から好奇の目で見られること間違いなし、だ。
「まあ、断りたいのなら、電話で話したときに君から直接言ってもらって構わないから」
 気の進まない顔をしていたのだろうか。モグラは祥子の肩を二回叩いてから会議室を後にした。


 受話器から聞こえてきた男の声は、祥子が遠巻きに聞いていた頃のものとあまり変わらなかった。懐かしくなかったと言えば嘘になる。
「会えないかな」
と、神足隆は言った。「相川さんの写真見てたら懐かしくなってね。相川さん、あんまり変わってないから」
「神足さんがあたしの名前を知ってたってことが、あたしには驚きなんですけど。本当にあたしのこと覚えてました? というか、知ってました?」
 祥子は正直にそう訊いた。
「え。ひどいな。名前、知ってるよ。当たり前じゃないか。あの頃何度か話したことだってあるだろう?」
 そうだったろうかと祥子は首を捻る。とにかく祥子にとって彼は果てしなく遠い存在だった。
 神足は、明日土曜日の夕方、一緒に食事でもしようと誘ってきた。祥子は逡巡する。神足がただ懐かしさだけで誘っているのか、それとも、結婚をも視野に入れて声をかけているのか、電話の会話だけでは量りかねた。だが祥子の返事を待たずに、場所と時間を指定してくるその強引さに負けて思わず、じゃあ明日、と頷いていた。
 電話を切ってから天の顔を思い出した。朝、いってらっしゃいと口にした寝ぼけた顔だ。出会った頃より色が落ちて少しだけ伸びた前髪から覗く天の目は、とろんとしていたが穏やかに笑っていた。あの笑顔を見ただけで心が和む。天は土日は仕事だ。
 これは裏切りだろうか。天はコイビトではない、と思う。向こうだって祥子に恋をしていないと言っていたし、祥子だってそういう気持ちを天に対して持ってはいない。何より歳が違いすぎる。
 でも、一日の内の数時間を共有し、毎日のように肌を合わせていれば、胸の中にほんのりと灯りがともるような微かな愛情は生まれてくるものだ。恋とは別の、天への愛しさは、祥子の中に確かに芽生え始めていた。
──昔の知り合いと会うだけだしね。
 祥子は自分を納得させた。結婚に懲りている祥子に再婚の意志など全くなかったし、天を手放す気もまた、さらさらなかった。

NEXT
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

HOME / NOVEL / TSUKINOSAKYUU