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第二章  「不変な日常なんてどこにもない」  2.
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 天の抱える傷を、祥子はふたつ知っている。
 一緒に暮らし始めて暫く、天はなかなかその素肌、特に上半身を見せようとはしなかった。抱き合っているときですらそうだったのだ。けれどその理由を祥子は薄々感づいていた。部屋の灯りを全て落とした時にだけ脱衣した天の背中に走るいくつもの細い筋を、祥子はその両掌でとっくに見つけていたのだから。
 いつからそこにあるのだろうか。誰から受けたものなのだろうか。祥子には知る由もない。
「背中の傷、見せられないくらい、ひどいの?」
 いつだったか、寝入る前に躊躇いがちに祥子が訊ねると、天ははっきりとした狼狽を、その秀麗な顔に走らせた。いつもあっけらかんとしている天のそんな様を見るのは初めてのことで、問うた祥子のほうまで動揺した。
「やっぱ、わかっちゃった?」
困ったように笑う天の顔を見て、祥子は口にしなければよかったとたちまち後悔した。ひとつ屋根の下でこれから一緒に暮らしていくのなら、いっそ全て知っておいたほうがお互いに楽なんじゃないかと、ただ安易にそう考えて口に上らせただけだったのだ。
「わかるわよ。……見せたくない?」
「うーん。そういうわけじゃないんだけど……」
天は首を傾げながら苦々しく笑う。
「あたし、気にしないわよ?」
 祥子はわざと明るい調子で言った。天は祥子の顔をじっと見つめた。天のめずらしく真剣な表情に祥子はどぎまぎしてしまう。天の真摯な顔は思いのほか艶かしかった。
「ひかない?」
「え?」
「俺の背中の傷見ると、みんなひいちゃうんだ。祥子さんも、ひくよ、きっと」
「ひかない、と、思うけど」
「自信なさそう」
 天の背中の傷をはっきりと目にしたのはそれから幾日も経たない日のことだった。天が着換えていることを知らない祥子が和室の戸を開けてしまったからだ。もっとも、ふたりの間にノックの習慣など殆どなかった。天は祥子に向けた背中を丸め、ちょう度Tシャツを脱いだところだった。ややあって、顔だけ振り返った天は、
「あ……」
 と、気の抜けた声を出した。祥子はといえば、大きく息を呑み目を見開いてその場に立ち竦んだ。
 無数の傷。傷。傷。
 素人目にもはっきりとわかる、おそらくはきちんとした治療など受けていないだろう傷痕。火傷痕。まるでそこを埋め尽くさないといけないかのように、競い合うかの如く、古傷はその細い背中に夥しく広がっていた。ふらふら近づくと、震える指先を天の背中に這わせた。
「誰……」
「え?」
「誰が、した、の?」
 祥子の声はか細く掠れていた。まるで天を責めているみたいな言い方だと思った。
「おかあ、さん?」
「いや、違う」
 子供の頃の傷痕だけじゃない、と気がついて祥子は目を見張った。真新しい傷もいくつかある。祥子は軽い眩暈を覚えた。
 天はマゾヒストなのだろうか。虐げられることによって快楽を得る、そういう類の人間なのだろうか。もしそうなら、とてもではないが自分の手には負えない、と思う。 ああ。やっぱり自分はとんでもないコを拾ってしまったのだ。自分の選択はなんと安易で愚かだったのだろう。天は祥子とは全く違う世界に住む人間だ。改めて実感した。
「あの人は、そんなこと、しない」
 え、と祥子は口を開ける。あまりの衝撃に自分の投げかけた質問さえも忘れていた。
「あの人はそんなことしない。俺に無関心だったから。あの人と一緒に暮らしてた人とか、だよ」
 天の言うあの人というのが天の母親だということを理解するのに、ずい分と時間がかかった。
 祥子は天の背中に這わせていた指先を自分の口許に当てた。天に凝視されているのはわかったが、取り繕えなかった。
「思いっきりひいてるね」
さすがに天の顔からも笑みが消えた。
「だから嫌だったんだ。みんな、この傷を見たらすごく逃げ腰になるよ。それから掌を返したみたいに態度がころっと変わるんだ」
「……変わる?」
「もう、一緒にいられないって言い出したり」
そこで天は皮肉めいた笑みをその頬に浮かべた。「自分もおんなじように俺のこと痛めつけてもいいって勝手に解釈したり、さ」
 祥子ははっとして天の顔を見つめた。
「別に、いいけどね」
 天は持っていたパジャマ代わりのTシャツを投げつけるように畳の上に置くと、ボーダー柄のカットソーを代わりに手に取り頭から被った。
「そらは、どうしてそういうことをされても、逃げ出さなかったの?」
「……え?」
「どうして、自分にひどいことをする人達からすぐに逃げ出さなかったの?」
 天は射るような瞳で祥子を見返した。
「何? 俺にそういう趣味でもあるんじゃないかって言いたいわけ?」
「ちょっと。思ってる」
 祥子は正直にそう口にした。
「あるわけない。だから、今回はちゃんと自分の意志であいつのとこから逃げ出したんじゃないか。子供の頃なんてどうやったって親から逃げ出せない。……大人になってからだって、そんな言うほど簡単じゃない。祥子さんにはわかんないかも知れないけど」
 天は祥子の傍をすり抜ける。部屋から出る間際、振り返らずに言った。
「祥子さんが嫌なら、はっきり言ってくれていいから、出て行けって。そう言われないと、俺バカだから、本当に嫌がられてるのかどうかわかんないから」
 祥子は言うべき言葉がみつからず、ただ、その衣服に覆われた背中を見つめることしかできなかった。暫く立ち尽くしていた天が、身体ごと祥子のほうに振り返った。
「もうひとつ、あるんだ」
 祥子は強張った顔を上げる。
「もうひとつ、俺、普通の人とちがうとこがあって、これ、まだ誰にも言ったことないんだけど」
天は祥子の顔を、値踏みするような目で見ていた。口に出してもいい相手なのかどうか。迷っているというよりは、祥子という人間を見積もっているような視線だった。
「俺」
 俺、虫とか、動物とか、生き物をね。 簡単に殺せちゃうんだ──。
「子供の頃にね、バッタとか蛙とか小鳥をさ、掌で握りつぶしたことが何度もある。……何でそんなことしたのかいまじゃ思い出せないんだけど、平気だった。悪いことしてるなんてこれっぽっちも感じてなかった」
 祥子は、柔らかなもので喉元を絞められたような苦しさを覚える。呼吸が、上手くできない。
「教会で世話をしてくれたおっさんにさ。そんなことをしてはいけない、って言われても、どうしていけないのかまるでわかんなかったんだ」
 今でも、たぶん、できるよ。平気でできるんだ──。
 祥子は息を詰めて天を見返した。挑むような天の瞳。身体中から血を抜き取られたみたいに、手も足の先も冷たく痺れていた。まるで自分が天に捻り潰された小さな生き物になったみたいだと思った。
「な、んで」
「え?」
「何で、そういうこと、言っちゃうの?」
 天は顔を俯け考えていたが、
「なんか、祥子さんには知っててほしかったから」
そう言うと、少し寂しそうに笑った。「俺、バイト、行ってくる」
 再び背を向けると、祥子の部屋から出て行った。
 それが四月の終わりのことだった。
 天は今ではすっかりこだわりをなくし、祥子の前でも堂々と服を脱ぐようになった。リビングの窓際で上半身裸になって歯磨きをしている天を、キッチンのカウンターの向こうからそっと見遣る。お腹側に傷痕は殆どない。色が白くて肉の薄い身体だ。肩も、腕も骨ばっていて、離れていても肋骨の形がはっきりとわかる程に痩せている。肋骨の下の、臍から下腹部にかかる部分に無駄な肉はなく、削げ落としたように見事にえぐれていた。その線を綺麗だと祥子は思う。きっと、若いからだろうな、とも。三十を過ぎてくると男の人もでっぷりとその辺りにお肉がつき、見るも無残な裸体となることを祥子は知っている。
 天はジーンズを腰骨の下で履いていた。下着の上の部分がはっきりと見えている。それでもいいのだと天は言う。若い。なんだかんだ言っても天はイマドキの若者だ。
 土曜日の今日、天は仕事だが、祥子はこれから友人の知世の家を訪ねる予定になっている。そして、夜は神足隆との約束があり、そのことについては昨夜のうちに話しておいた。昔の知り合いだと説明したが、自分以外の男とふたりきりで会うということに、思いのほかショックを受けた様子を天は見せ、祥子を驚かせた。勝手な言い分ではあるが、何となく天は、平静な、ごく普通の態度で受け止めてくれそうな気がしていた。
 もし天が明確に嫌だと意思表示すれば、祥子は神足との約束を断ってもいいと思っていた。が、結局、天がそういったことを口にすることはなかった。
 祥子はシンクの周りの飛び散った水気を拭き取り、エプロンを外す。
「そら、あたし、そろそろ行くね」
 天は服を着終え、祥子を玄関まで見送りに出てくれた。玄関の沓脱ぎに立ち、いってきます、と言う祥子に、天は、
「帰って来るでしょ? ここに」
 唐突に訊ねた。どこか不安そうな、確認しないではいられない、といった天の表情に、祥子は胸がきゅうっと切なくなった。
「帰るわよ。当たり前でしょ? 他に行くとこなんか、ないもの」
 天を不安にさせているのが、決して、祥子への恋慕の情からくる嫉妬なんかではないということを、祥子は知っている。
──ここを追われることを、こんなにも厭い、怯えている。
 どうすればその不安を天の内側から払拭することができるのだろうか。祥子にはわからなかった。絶対の信頼なんてどんな相手との間にも存在しない。
 天は足元に視線を落として、うん、わかったと頷いた。
「俺、待ってるから」
 待ってるよ、と天は祥子の顔は見ないままに、自分自身に言い聞かせるように言った。

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