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第二章  「不変な日常なんてどこにもない」  3.
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 知世の家は祥子の住むマンションから電車を乗り継いで約一時間の
場所にある。結婚と同時に建てた、祥子と同じく夫の親に大半のお金を出してもらって手に入れた家だ。知世の夫の実家は高級家具を取り扱う店を営んでいて、知世の夫も、大学を卒業してからずっとそこで働いている。行く行くは家業を継ぐのだということだ。詳しく聞いたことはないが、知世の暮らしぶりから商売は上手くいっているのだろうと思う。いつ会っても知世は可愛く華やかだ。外で仕事をしているわけでもないのに所帯じみたところが全くない。
 神足と今日会うことになった経緯を祥子は事細かに知世に説明した。モグラのことは以前から愚痴っていたから話しやすかった。
 どういうつもりで向こうが会いたいなどと言ってきたのか、祥子には本当にわからなかったのだ。
「神足さんかあ。……懐かしいね」
 知世は祥子の話に初めひどく驚いていたが、ティーポットを傾けながら悠長な口調でそう言った。「魅力的だったよね、神足さん。途切れることなくカノジョがいたのに、みんなで遠巻きに眺めてきゃあきゃあ言ってた」
「あたし、神足さんと、話したことあったっけ?」
 祥子の言葉に知世は瞬間目を丸くして祥子を見、それから苦笑した。
「祥子らしいなあ」
「え?」
「祥子、全然神足さんに興味なさそうだったもんねえ」
「そんなこと、ないけど」
 透明なティーカップに注がれた紅茶からは苺の香りがした。やや紅みがかった透明感のある茶色。
「だから、逆に神足さんの気を引いたんじゃないの?」
「そんな……」
 知世はソーサーに左手を添えながら微笑んでいた。上品なベージュ色に塗られた爪。可愛い顔立ちの知世にはちょっと地味だな、と祥子は思った。
「祥子はさ、かっこいい人にはあんまり興味ないの?」
知世は元夫の名前を出した。「あの人って、結婚相手としてはそれなりに条件は整ってたけど、外見は地味だったよねえ。祥子の選ぶ人ってみんなそう。どうしてかな、って、あたしずっと思ってた」
 祥子は、知世から視線を逸らしてティーカップに唇を当てた。
 図星だった。
 祥子は、祥子の思うところの自分に不釣合いな相手を望んだことは、一度もない。自分の身の丈にあった人をと、いつもそんな風に恋の相手を選んでいたのだ。知らないうちにそうしていた。そのことに祥子自身気がついたのは結婚してからだった。
「祥子、あんまり気乗りしてないの?」
「……」
「あの神足さんとデートだよ?写真を見ただけだったら、昔とそんなに変わってないんでしょ?いい話じゃない」
「うん。まあ。そう、だよね……」
 つい、祥子は気のない返事をしてしまった。知世は遠慮のない視線を祥子に注いでくる。
「何よ?」
「ねえ、祥子。今、本当はつき合ってる人がいるんじゃないの?」
「え」
「四月に会ったときより断然綺麗になってるんだもん。さっき、玄関のドア開けたとき、本当にびっくりしたんだよ。悔しいから言わなかったけどさ」
 祥子はやっぱりどきどきしながら視線を逸らした。ティーカップがソーサーに触れて微かに硬質な音を立てた。
「色っぽくなってる。妖しい色気が漂ってる」
「やめてよ」
「いるの?カレシ?言えないような相手なの?もしかして不倫?」
 畳みかけてくる知世の言葉に祥子は真っ赤になった。
「いない。いたら今日の話、断ってる」
 じろっと知世を睨みつつ、心臓は忙しなく動いていた。思いがけない女友達の鋭敏さに、内心閉口してしまう。
 祥子はひとつ息を吐くとリビングの部屋の隅に目を遣った。知世の上の子のちひろがパズルをしていた。時折出されたお菓子を食べに祥子の隣にやってくる。スカートから覗く膝下の脛は、遊びに夢中になった際に打ち付けた紫色の痣やら、虫に刺されたあとの引っ掻き傷やらでいっぱいだ。微かに漂ってくる子供特有の汗の匂い。ちひろは祥子と目が合うたびに恥ずかしそうに笑った。笑うとできる小さなえくぼがたまらなく可愛らしい。
 妹のまひろは和室の布団で昼寝中だった。夫は今日も仕事なの、と知世は溜め息混じりに言っていたが、少しも不満そうではなかった。
 知世は幸せそうだ。
 穏やかな日差しの射し込むこの家は家庭の幸福な匂いに満ち溢れている。
 神足とだったらこんな家庭を築けるのだろうか。元夫とは作れなかった家庭。
 天とは。
 天とは無理だ。考えるまでもなかった。
 天のことは知世には絶対言えない。祥子はもう一度ティーカップを唇に当てながらひっそりと考える。話せば何を言われるかわからない。批判的な言葉以外を耳にすることができるとは、到底思えなかった。
 
 
 神足との待ち合わせ場所は祥子も一度行ったことのあるフランス懐石の店だった。フランス料理といっても価格は比較的リーズナブルで、お酒を楽しみながらゆっくりと食事のできる店だった。
 男のくせにこういう店を知っているとは。
 向こうだってフリーなのかどうか。怪しいもんだ、と勘繰ってしまう。
 時間ちょう度に行くと、神足はすでに椅子に座ってワインを飲んでいた。
 やはり彼はあまり変わっていなかった。遠目にもすぐに見つけることができた。
 髪の長さも変わっていない。サイドの髪が耳を半分隠すくらい、男の人にしてはやや長め。パーマをかけているのか天然なのか、微かにウェーブがかっている。
 こういう場所だからもしかしたらスーツで来ているかもしれないと思ったがそうではなかった。ジャケットとパンツは別の物を着ていた。同系色ではないのに全身がきっちりと纏まっている。大人のお洒落を知っている人だ。ぱっと見ただけでそう思った。
 祥子が丸いテーブルの向かい側に立つと、神足は呆気にとられたような面持ちで、暫くぽかんと祥子の顔を見上げていた。
「こんにちは。相川ですけど」
「あ。え?」
「神足さん、ですよね?」
 神足は目を瞬かせると、
「あ、ごめん。なんか、雰囲気変わってたんでわかんなかった。びっくりした」
慌てて立ち上がって、ぺこりと腰を折った。立ってみると神足は上背があった。こんなに背の高い人だったろうかと思いながら硬い笑みを浮かべた男を祥子は見上げた。
「お久しぶりですね」
「ほんと。久しぶりだね。元気だった? ……っていうのも変かな。元気じゃなきゃ来ないよね」
 くすりと笑いながら祥子は神足の向かい側の椅子に座った。白い柔らかな生地に金色の糸で刺繍の施された、高級そうな椅子。ふっと天を思い出した。天はこういう場所とは無縁だろう。
 神足は少し緊張しているように見えた。自分相手にそんなに気を遣わなくても、と祥子は思う。
 料理と飲み物をオーダーした後、僅かに沈黙が流れた。
 祥子だって、天を抜きにすれば、男の人と一対一で食事をするのなんて本当に久しぶりなのだ。心臓は高鳴っているし、変な汗は掻いているし、やっぱり自分も緊張しているんだな、と思う。
 何か話題を振ってくれないかと神足に視線を向けた。
「参ったな」
 神足は苦笑していた。
「え?」
「相川さん、河野のおばさんに写真を見せられたときは、昔と変わってないって思ったんだけど」
 河野のおばさん、とは、モグラの奥さんのことだろう。
「綺麗になったね」
───は?
「大学生のときはさ、なんか真面目そうな人って印象だったんだけど」
相川さん、色っぽくなってるよね、ちょっといい女になってる。
 神足が照れ臭そうに視線をテーブルに向けたままで言う。
 祥子は自分の顔が一気に赤らむのがわかった。
 色っぽい。
 本日二回目の褒め言葉だ。おそらくは、褒め言葉。
 そんなことを言われたことがかつてあっただろうか。真面目と言われたことなら耳にたこができるくらいある。地味だと遠回しに言われたことも。
 その自分が色っぽい。
 つい天との生活に思いを馳せた。
 喉がからからに渇いていた。
 祥子は運ばれてきた赤ワインのグラスをすぐ様手に取って、口をつけた。
「あ」
 飲んでしまってから祥子ははっと気がついて唇に指を当てた。
「何?」
「ごめんなさい」
「え?」
「乾杯もしないで飲んじゃった」
 神足は目を細めて笑った。
「いいよ。そんなこと。僕だってさっきから、相川さんが来る前から、飲んでる」
 神足のグラスに目を遣った。
「待たせちゃったんですね」
「いや、違うよ」
 神足は落ち着いた声で言った。緊張の糸はかなりほぐれたようだ。
「さっきまで仕事だったんだ。で、することないから早めに来て待ってた」
「土曜日もお仕事なんですか?」
「いつもってわけじゃないんだけどね」
 神足は銀色のフォークに手を伸ばした。祥子も真似る。
「実はさ」
「はい?」
「以前の部署は週刊誌だったんだ。週刊誌をやってると、まともに家に帰ることもできなくてしょっちゅう会社に泊まり込んでた。まあ、それが原因で離婚ってことになっちゃったんだけど」
神足はそこで祥子に、「僕が離婚経験あるって、聞いてるよね?」
と確認した。
 祥子はうなずく。
「自分の帰る場所がなくなった途端気が抜けちゃってさ。離婚するまでは、僕の居場所は職場だ、くらい思ってたのに。ほんと、まるで廃人みたいにやる気が失せちゃって。で、左遷」
 左遷させられたんだ。季刊誌に。
 神足はそう言うと、祥子に笑いかけた。祥子のほうはどう返せばいいのかわからなくて曖昧に唇の端を上げて見せた。笑っているように見えるだろうか。
「季刊誌なんて校了寸前までほんと暇でさ。今日みたいに土曜日に出ることなんて滅多にない。泊まり込みなんて考えられないよ」
「そう、なんですか」
「皮肉な話だろ?」
 祥子はどう返答したらいいのかわからなかった。
「相川さんは?」
「え?」
「こんなこといきなり訊いていいのかどうかわかんないけど、どうして離婚したの?相川さん、真面目だし、綺麗だし。全然、わかんないな・・・」
 祥子は問われたのに、答えもしないで口に食べ物を運んだ。ハーブの匂いが口いっぱいに広がる。
 綺麗というのはもしかして自分のことだろうかと小首を傾げる。
 あんまり好きでもないのに結婚したから───。
 夫との結婚生活がうまくいかなかった原因を、おそらくはそういうことなんだろうな、と祥子は思っている。でも、誰にも言ったことはなかったし、目の前の男にも言うつもりはない。
「変なこと訊いたかな?」
「いえ」
祥子は首を横に振った。「夫にコイビトができたんです。それだけ。よくある話でしょ?」
 神足は目を見張った。
「そう。……ごめん、やっぱり変なこと訊いたね」
 祥子は首をもう一度横に振ってから笑った。
 それから後は大学時代の話になった。
 ふたりの共通の話題といえば、それくらいしかなかったのだ。少しだけ互いの仕事の話もした。
 店の支払いは神足に任せた。
 店を出てから祥子が割勘にしましょうと言うと、神足は、
「じゃ、次からそうしようよ」
 などと言う。
「次……」
「また、会えないかな?」
 祥子は口を噤んだ。
 席を立つ前に、どこかで飲みなおさないかと誘われたが断った。タクシーで送ると言う言葉さえも遮って祥子は地下鉄の駅まで送ってください、と言った。それで祥子の気持ちはわかると思ったのに、神足はなかなか退かない。執拗に、また会おうよ、と軽い口調で誘ってくる。
 土曜日の街は賑わっていた。人込みの中を縫うようにしてふたりで歩く。
 確かに神足との時間は楽しかった。頭の回転の速い彼の話は面白い。
 でも、と祥子は思う。
「友達、でいいよ」
「え?」
「再婚なんか考えられないって顔してるから、相川さん」
 神足は、今日、最初に会ったときとは全く違う笑い方をしていた。親しみの込められた笑顔だ。
「ごめんなさい」
「友達として会おうよ。それでも、相川さんのカレはだめって言うかな?カレに内緒では、会えない?今日はなんて言って来たの?」
───えっ。
 祥子は言葉をうしなって息を呑んだ。
「相川さん、いま、つき合ってるひと、いるだろ?」
神足の顔にも口調にも確信があった。「満たされた顔、してる。コイビトのいるひとの顔だよ」
 祥子は立ち竦んでしまった。
 神足はくすっと笑う。
「別に怒ってるわけじゃない。そんなにしゅんとしないでよ」
「ごめ、んなさい」
「謝らなくていいよ。電話した時、相川さん本当は断ろうとしてただろ?わかってて強引に誘ったのはこっちなんだから」
 祥子は叱られたコドモみたいに項垂れてしまった。
「ほんとうにさ、会いたかったんだ」
神足は星の見えない夜空を見上げながら、両腕を伸ばした。「僕、フリーだったときに、一度、相川さん、誘ったことがあるんだよね。相川さん、全然覚えてないみたいだけど」
「え……」
 まるっきり記憶にない。
「なんか、脈なしだね。今も昔も」
 神足は自嘲の笑みを浮かべていた。
 少しひと通りが少なくなったところで、再び神足が口を開いた。真っすぐ前方を見たままで言う。
「今のコイビトとは結婚は考えられないんだろ?そうじゃなきゃ、今日、ここに来てないよね?」
 祥子も黙って前を向いていた。
「また会いたい。電話、するよ」
 携帯電話の番号を今日の待ち合わせの為に教え合っていた。
「……困ります」
「そんな、はっきり断らないでほしいな。これでも一世一代の愛の告白なんだから」
「嘘」
「うわ。ひどいな」
神足はふざけたように笑っていた。「信用されてないんだね」
「だって、神足さん、もてるのに」
「もてないよ、全然」
祥子のほうは見ないで言う。「もてたのはね、もう百年くらい昔の話」
「ふざけないで下さい」
「ほんとだよ」
 あれっぽっちのお酒で酔ったのだろうか、この男は。ちらりと見た男の顔は、でも、少しも赤くなってはいなかった。
 地下鉄への階段が見えてくると、神足は、
「じゃあ、また」
と、右手を上げた。
 また、ってなんだ。
「電話、出ないかもしれませんよ」
 祥子はついムキになって言っていた。
「いいよ。それでも。こっちも、結構しつこいから」
「神足さんっ」
 神足はもう後ろは見ないで、片手だけ振って歩いて行った。軽快な足取りだ。
 本気だろうか。
───まさか、ね。
 祥子は薄汚れた階段を降りながら首を左右に折った。
 何だか疲れてしまった。気の遣い過ぎだ。神足と別れた途端一気に肩の力が抜けた。
 本当にこんなことがまたあるのだろうか。
 無理だ。無理無理。あんな賢くてスマートな男とつき合うなんて自分には到底無理。必要以上に自分を良く見せようとしたさっきまでの自分自身が祥子には滑稽で仕方なかった。
 天に会いたい。
 天と一緒だと何故だろう、本当にほっとするのだ。考えてみれば最初からそうだった。
 天の生い立ちや心の傷を知ってしまった今でもやっぱり天と過ごす時間が何より安らぐ。
 神足とはもう会わないほうがいいだろうな、と祥子は改めて思った。
 神足が別れ際に見せた人懐っこい笑顔がふっと頭を掠めた。


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