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第二章  「不変な日常なんてどこにもない」  4.
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 祥子の働くオフィスはA商事の自社ビルで、建替えられてから七年が経過している。手入れが行き届いている為、外観もそうだが内装も未だ清潔で新しい。化粧室にしてもそうだ。薄いピンク系のトイレはワンフロアに五つの個室がある。洗面台も五つ。その上にある壁は一面が鏡張りだ。ぴかぴかに磨き上げられた鏡に映る自分の顔を祥子はじっと見つめた。
 見慣れた顔。 ほっそりとした細面とも呼べる顔の形。どちらかと言えば和風な顔立ちだと思う。それ程大きくない目は自分でそうと意識し始めた頃から悩みの種だった。天が以前言った泣きそうな目許、とは、垂れている目じりの所為だろう。右目の下には小さな泣きぼくろまである。頬に手を当て首を傾げた。
 やっぱりどこをどう見ても地味目な顔だ。ちっとも色っぽくなんかなっていない。
 染めていない真っ黒な髪はストレートで常に肩より少し長めにしている。仕事中や料理をする時にだけ後ろで縛ることもある。斜めに分けた前髪が伸びてきたので、そろそろ美容院に行く頃だ。一ヵ月半か二ヶ月に一度行く美容院は、マンションの近くにある。そういえば、天はまた、髪の毛を派手な色に染めていた。肩まである長い髪はかなりの量をすいていて、すっきりと軽く見えた。目を見張るほどの金色に近い髪も若い肌を持つ天にはよく似合っていた。
 自席に戻ると河野課長と目が合った。すぐに逸らして手元の書類に目を落とす。机の上に書類を広げながら、数字を目で追った。けれど、頭には入ってこない。一旦書類を脇に退けると腕を伸ばしてノートパソコンを手前に出し、開く。メールの送受信を行った。
「あ……」
 祥子は受信したメールに息を呑んだ。社内メールだった。送信者は「経理部電算室 浜蔵」とある。件名は空欄だ。
 イマドキ『電算室』、だ。通称、駆け込み寺。
 祥子は目を細め、その画面を見つめた。心臓が僅かに高鳴っている。ダブルクリックし、メールを開いた。今日のランチの誘いだった。場所は天と初めて出会ったあのイタリア料理の店だ。マウスに当てた人差し指が微かに震えていた。
 とうとう来たか、と思う。
 予感はあったのだ。新人の高良の歓迎会でもそんな噂があると根津から聞かされた。
 祥子は簡単な挨拶と行ける旨書き込むと返信した。背凭れに背中を預ける。ぎぎっと嫌な音がした。
 A商事では各営業部門が独立採算制をとっている為、その部ごとの経理課がちゃんと存在している。年間の予算や、大きな仕事で動く金額の管理などは財務部の仕事だ。経理部の主な仕事は、独立して営業を行っていない部、例えば、法務部や人事部などの経理の管理と、各営業部門、各支社支店ごとに毎日プリントアウトされる貸借対照表、マーチャンダイズなどの内容のチェック、このふたつだ。後者が電算室の仕事にあたる。 一日中プリンタの音が鳴り響く地下二階にある薄暗い部屋を祥子は思った。
 経理部長は女性だ。
 彼女の前任者も女性で、その前任者の代から、人員削減によりリストラの対象となった女子社員を、経理部電算室で引き受けるようになったという話だった。だからと言って見境なく誰でも受け入れるという訳ではなく、対象となるのは三十路を超えたわけありの女子社員のみらしかった。実際今いる七人の室員全員が三十歳を超えているし、その内既婚者はひとりだけだという話だ。
 電算室に呼ばれることを素直に喜ぶ人間はあまりいない。声をかけられても断って転職という道を選ぶことのほうが多いのも事実だ。駆け込み寺に声をかけられること、イコール要らない人間という図式が成り立つからかもしれない。自尊心の問題だった。それでも止むを得ない事情で会社に残りたい人間だっている。祥子がそうだ。収入がなくなれば今住んでいるマンションのローンだって払えなくなってしまう。 自分はリストラの対象になっている。それはもう、間違いようのない事実だ。認めなくてはならない。祥子は待ち合わせの店に向かいながら、胸の前できゅっと右掌を握った。


 地中海を連想させる木のドアを開くと、奥の席に座っていた浜蔵が、すぐに右手を上げて立ち上がった。ひとりではなかった。浜蔵と同じくらいの年齢の女性が隣に座っている。たぶん、四十半ばくらい。電算室の人間だろうか。浜蔵は白いブラウスに濃紺のタイトスカートという、一見制服と見紛うような地味な服装にその肉厚な身体を包んでいた。 初め笑顔だったその表情が、近寄った祥子の顔を見るなり、眉間に深い皺を寄せた。
 何度も話したことがあるのでにこやかに微笑んで祥子は挨拶をしたが、浜蔵は笑いを返してこなかった。隣の女性も訝しそうな顔で祥子を見ている。
「ねえ、相川さん、もしかして、再婚の予定、あるの?」
 椅子に座った途端、そんなことを言われた。祥子はむっとした。ふたりから視線を逸らし黙ったままテーブルの上に置かれたメニューを手に取った。 いきなりそんな質問をぶつけるなんて。不躾にも程がある。
「もう、何か注文されたんですか?」
 祥子が訊ねると、ふたりは首を横に振った。
 この店の日替わりランチは、メインのパスタを三種類のソースと具の組み合わせの中から選ぶことができる。パスタにサラダとガーリックトーストがついてくる。デザートとコーヒーは別に注文しなくてはならない。
 祥子は、以前来た時に知世が食べていたトマトソース味のパスタを頼むことにした。
「電算室の真鍋といいます。初めまして」
 注文を終えた後、水をひと口含んでから浜蔵の隣の女性が祥子に頭を下げた。
「金属部の相川です。こちらこそ、初めまして」
 真鍋という女性は浜蔵とは対照的な細身の身体で、やはりこちらも制服のようなブラウスにタイトスカートという格好だった。出っ張った大きな目をしている。その目を更に見開いてまじまじと祥子の顔を見つめてくる。浜蔵が口を開いた。
「私達に呼ばれた理由、相川さん、わかってるわよね?」
 祥子は浜蔵の目を見て頷いた。
「金属部は来年の四月に向けて大幅な編制改革を行うらしいわ。人員は三分の一削られるそうよ」
 三分の一。
──そんなに……。
祥子は衝撃を隠しきれない。きゅっと唇を噛んだ。
「相川さん。あなたもリストラの対象に入ってるわ」
 祥子は浜蔵の瞳をじっと見つめ返した。そうだ。だから今日この人達にここへ呼び出されたのだ。わかっている。わかってはいたが、辛い。
「あなた、年齢も年齢だし、おそらく再就職は難しいと思うの。職種を選ばなければ別だけど、今みたいな条件のところで働くのは絶対無理よ。……それはわかってるわよね?」
 わかる。が、浜蔵の言いように祥子は激しい違和感と反発を覚えていた。たぶん、今自分は強張った顔をしているはずだ。胸の中に、目の前の女への嫌悪が唐突に芽生え始めていた。
「離婚した上に、マンションのローンもあるって聞いたわ」
 祥子は目を見開いた。
「仕事振りも真面目だし、経理部長も買ってるのよ、あなたのこと」
 でも、と、目の前の女は言った。椅子の背凭れに横柄な態度で背中を預けながら。
「あなた、今、つき合ってる男の人がいるでしょう? 顔を見ただけでわかったわ」
 がっかりしたわ、とでも言いた気な口調に、祥子は小首を傾げて眉根を寄せた。それが今の話とどう関係があるというのか。
「再婚の予定、あるの?」
 全く遠慮のない訊き方だった。まるで怒られているみたいだ。
「答えないといけませんか?」
 再婚の予定などないのに、浜蔵への強い反抗心からついそう言っていた。
「答えて欲しいわね」
「どうしてですか? 結婚と仕事とどう関係があるんですか?」
「こっちも慈善事業してるわけじゃないのよ。あなたに別の道があるのなら、他の対象者に声をかけるわ。そのほうが有益だと思わない?」
仕事の出来不出来は関係なく、会社の中にも外にも逃げ場のない者のみが対象者になるということだろうか。しかも結婚が対象となることへの妨げになるとは。それこそ慈善事業ではないか、と祥子は憤然とした。
「有益って、何に対しての益なんですか? 会社に対してじゃないですよね?」
 祥子の質問に浜蔵はあからさまに嫌な顔をして見せた。
「個人、よ。悪い?」
路頭に迷いそうな、歳のいった女子社員のみを救うのが、電算室という場所なのだ。しかも幸せの片鱗を見せただけで簡単に翻る。まるで偏食過多の正義の味方だ、と思った。
 そんな人達から声をかけられるなんて。
「申し訳ないんですけど……」
 祥子はバッグから財布を取り出す。
「そういう考え方には、私、ついていけそうもありませんから。この話、なかったことにしてください」
 震えそうな指先で紙幣と小銭を取り出しテーブルに置いた。浜蔵が目を剥いて身体を起こした。
「断るっていうのっ?」
 祥子の顔をじっと見た後、大袈裟な溜め息をついた。再び背凭れに身体を預ける女の顔を、祥子も同じように見返した。
「なんだ。やっぱり、結婚の当てがあるんじゃないの。そうならそうと初めから言えばいいのよ」
 ねえ、と言いながら、隣の真鍋に視線を送った。ふたりの剣幕に圧されたのか、真鍋の顔からは色が消えている。結婚だ再婚だと変にうるさい女だ。辟易する。モグラのほうがまだましだ、と思った。こんな女と一緒になんか働けるわけがない。
 祥子は、はっきりそれとわかるほど冷ややかな一瞥を浜蔵に送った。
「お先に失礼します」
 言うやいなや立ち上がって店を後にした。
 悔しくて歯痒くて仕方なかったが、店を離れるにつれ、気持ちが少しずつ落ち着いてきた。
──お昼ご飯食べ損ねちゃったな。
昼休みのオフィス街は賑やかだった。制服姿に身を包んだ女のコふたりが祥子の前を楽しそうに歩いている。たぶん二十代前半くらい。何が可笑しいのか身体を仰け反らせ、けらけらと笑っている。不意にお腹が音を立てて鳴った。祥子は胃の辺りを掌で撫でた。会社の近くのコンビニでおにぎりでも買って帰ろう。でも、今食べたいのはトマトソースのパスタなのだ。浜蔵への怒りが再び湧き上がってくる。向こうは今頃注文の品を思う存分味わっていることだろう。祥子の噂話に花を咲かせながら。祥子は下唇を強く噛んだ。
──悔しい……。
 自分がリストラの対象になっているなんて。短大を出てからずっと真面目に働いてきたつもりでいたのに。ただ利益の上がらない部署にいるから。三十歳を過ぎた女だから。それだけの理由で簡単に辞めさせられるなんて冗談じゃない。唇が震えて涙が滲んできそうになった。前を歩く女のコの背中がぐにゃりと歪んだ。弱っているところに、同じ女子社員にあんな言い方をされたのがひどくショックだった。再婚なんかしない。でも、電算室にだって行ったりしない。クビだって、そうそう簡単に切らせたりするもんか、と思った。指先で目許を拭った。
 今日の晩ご飯はトマトソースのパスタに決定だ。バッグから携帯電話を取り出すと、天にメールを打つことにした。


 帰り際のモグラの態度は傍目に見てもわかるほど変だった。そわそわと落ち着かず、椅子から立ち上がったり、再び座ったりという動作を何度も繰り返していた。時折祥子のほうにちらちらと視線を送ってくるのだが、目が合うと忌むようにさっと逸らすのだ。マンションへの帰路を辿りながら考える。おそらくは、昼休みに電算室の人間と一緒にいたことを知られたのだろう、と思った。河野課長の仕事は削減の対象となった者を速やかに退職へと導くことだ。電算室へ駆け込まれては困るのだ。
──バカバカしい。 どいつもこいつも、と祥子は嘆息した。
 駅からの道の途中によく立ち寄るスーパーマーケットがある。店舗の広さはコンビニの四倍くらい。小規模だが、清潔感の漂う店で、食品も鮮度が高く、祥子はかなり気に入っていた。
 今日の食事当番は天だ。祥子がいきなりトマトソース味のパスタが食べたいとリクエストしたので、早番の天はもしかしたら今頃買い物でもしているかもしれない。そう思い、店の近くまで来たところで足元に落としていた視線を上げた。ちょう度ハタチくらいの男のコが店の自動ドアから出て来るのが目に留まった。祥子は目を細める。白と紺のボーダーのカットソーに細身のジーンズ。金に近い色に染められた肩までの長い髪。人目を引く端正な顔。
 天だ。
 祥子は思わず足を止め笑みを浮かべた。
「そ……」
 かけようとした声をすっ、と呑み込んだ。上げかけた右手も中途半端な高さのまま止める。
 店の駐輪場にいたふたりの男が天に近寄って行くのが見えたからだ。まるで天を待ち伏せていたかのような動きだった。ひとりは四十代後半くらい。堅気の人間には見えなかった。坊主頭とも思える短髪の、柄の悪そうな男だ。もうひとりは若く、真面目なサラリーマン風だった。ふたりともスーツを着ていたが、暑さの為か、柄の悪い男のほうは上着を肩に引っ掛けていた。
──だ、れ?
 祥子の心臓がとくん、と鳴った。
 天が自分以外の人間と接触を持つ場面を、祥子はこれまで見たことがなかった。そんなはずはないのに、天を知っている人間はこの世にただひとり自分だけのような気がしていたのだ。
 柄の悪い男を認めた天の表情から、ふたりが顔見知りだと、離れた場所にいる祥子にもはっきりとわかった。
 五月中旬の夕方の陽は高い。ここ最近は気温も高く、アスファルトからの熱気が日毎増す季節だ。祥子も鼻の頭にうっすら汗をかいていた。なのに、背中を冷たいものが走る。
 天は、祥子がこれまで見たこともないような顔をしていた。プラスチックでできた人形のような顔。ぞっとするほどそこには表情がなかった。まるで魂が抜け落ちたみたいに、その顔から感情というものが綺麗さっぱり消えていた。喋っているのは柄の悪い男だけで、天は感情の消えた顔で、口も開かず、ただ目の前の男に視線を当てているだけだった。
──そら?
 本当に、あれは天なのだろうか。祥子の心臓がまたとくん、と強く打った。 知らない、と思った。あんな顔をした男を自分は知らない。自分の知っている天は、柔和な笑顔の、怒ったり喜んだりといった感情をストレートに表現する、そんな幼稚でコドモ染みた男だった。
 雲が太陽を隠した。射していた陽が翳って急激に辺りが薄暗くなる。外灯が急かされるようにぱちぱちと、そこかしこで点灯し始めた。
 天が彼らと話を終えて祥子に背中を向けてもなお、祥子はそこから動くことができなかった。
 後ろから歩いて来た子供の頭が追い越しざま祥子の腕にぶつかった。上半身が揺れ、前のめりに倒れそうになる。呆然と突っ立ったままの祥子を、道行く人が訝しそうに見咎めていった。
──俺、虫とか、動物とか、生き物をね。
──簡単に殺せちゃうんだ。
 小さな動物を簡単に殺すことができるのだと言った天。あの時天はどんな顔をしていただろうか。今と同じ人形のような感情のない顔をしていただろうか。
 思い出そうとして瞼を閉じてみたがなんだか違う気がした。天が祥子にあんな顔を見せたことは、やはりただの一度もなかったのだ。

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