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第二章  「不変な日常なんてどこにもない」  5.
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 見なかったことにしよう。
 何も見なかったことにすればいい。祥子はマンションに帰る道すがら、まだぼうっとしている頭を懸命に回転させ、そうすることに決めた。 祥子が部屋に帰ると、天はいつも通りの顔で「おかえり」と言って、迎えてくれた。つい先刻見たのと同じボーダー柄のシャツと細身のジーンズ。髪を後ろで縛り、エプロンをかけていたが、間違いなくあれは天だったのだと、祥子は改めて確信し、気持ちを曇らせた。
 祥子も口許に笑みを浮かべながら「ただいま」と応えた。けれど心は石のように固まっていた。
 どうしてそんな顔ができるのだろうかと思う。さっきはあれ程感情のない顔を見せていたのに。
 きっとあのふたりの男は天の敵で、良くない報せを持って遣って来たに違いなかった。
 いっそ天が何もかもぶちまけてくれればいいのに、と思う。今日こんなことがあって、実はこうなんだと、それが祥子にとってどんな衝撃的な話であろうとそのほうがよほどマシだった。あの男ふたりが一体どういう人間なのか。そんなことは、今の祥子には少しも気にならなかった。
 それよりも何よりも。
 天の顔。プラスチックの人形のような、感情を一切持たない顔。それが網膜に貼りついて剥がれないのだ。
 もしかして祥子はいいように利用されているだけなのだろうか。ただ表の顔だけ見せてつき合っていればいいと。そんな風に軽く見られているのだろうか。そう考えてしまうのは辛かった。
「祥子さん、どうしたの?」
「え? 何が?」
「何が、って……」
 天は呆れたように祥子の顔を覗き込んだ。
「帰って来てからずっと変だよ。黙りこくってさ。何かあったの?」
 祥子は黙って首を横に振った。喉が苦しくてパスタがうまく通らない。
 ちぇー、と天はフォークを皿の上に置いて、椅子の背凭れに身体を預けた。
「そら?」
 天はむっとした表情を隠そうともしない。
「祥子さんが急にトマトソースのパスタが食べたいっていうから一生懸命作ったのにさ、すっげえおいしくなさそうに食べるんだもん。がっかりだよ」
 怒っているというよりも、拗ねた口調だった。
「え? そんなことない。おいしいよ」
 天は顔を俯けたまま視線だけを祥子に向ける。唇がコドモのように尖っている。
「……ほんとに?」
「うん。ほんとおいしい。悔しいけど、料理はあたしより天のほうが上手だね」
にまーっと尖った口許が緩む。なんて単純なんだろう。祥子は唖然とした。これが演技ならとんでもない悪魔だ、と内心で思いつつ。
「そらはもう、調理の仕事はしないの?」
 天はかつて洋食店と居酒屋でアルバイトをした経験があるのだという。その時に見よう見真似で料理を覚えたのだそうだ。きっと才能もあったのだろう。天の作る料理はどれもおいしかった。天は女の祥子から見ても手先が器用だ。天の手は大きいのにごつい感じがしない。関節が細く、指先もすうっとしている。
「うーん。わかんない」
「今の仕事より、時給はいいんじゃないの?」
「でも、夜の仕事になっちゃうよ。祥子さんと生活の時間帯がすれ違っちゃうでしょ? それはちょっと嫌だ」
 天は照れもせず、大きな茶色い瞳をきらきらさせて言う。
「できるだけ祥子さんと一緒にいたい。……祥子さんはへーきなの?」
 祥子は言葉に詰まる。間を空けて頬が熱くなるのがわかった。ごまかすようにフォークで麺を突つく。茄子とベーコンがトマトソースにまみれて赤っぽいオレンジ色に染まっていた。輸入物のホール缶を使って作られたトマトソースは酸っぱさと甘さが絶妙なバランスで混ざり合っている。
 恋など知らないと言ったくせに。 天はいつだって臆面もなく甘い言葉を口にする、と祥子は思った。
「それにね」
と、天はつづけた。「おっさんにさ、水商売と、夜の仕事はしちゃいけないって言われてるんだ。あ、あと極道と」
 “おっさん”とは、天が教会でお世話になった人らしい。
 天が唯一信頼を置いている相手だと、これまでの天の言動から、祥子はそう認識していた。
「どうして?」
 極道は論外だが、天のように学歴がない場合、夜の仕事のほうが就きやすい気はする。天はちょっと首を傾げて、
「よくわかんないけど、色々と良くない誘惑があるだろうからって、言ってた。とにかく俺みたいな人間はそういう世界に近寄っちゃいけないってさ。人間、堕ちるのはあっという間だからって」
 その“おっさん”という人は、きっと天の類まれな、人の目を惹きつけて離さない容貌を鑑み、そんなことを口にしたのだろう。確かに天の美しさは人を惑わすかも知れない。現に、天はひとりの男に監禁されそうになっている。しかも、真っ当な職に就く三十代の男に、だ。おそらくは独占欲から。そう考えると、祥子もすでに惑わされているのかもしれなかった。
「すごく信頼してるのね、その人のこと。天にとってはお父さんみたいな感じ?」
「え? どうだろ……」
天は苦笑した。「お父さんって、よくわかんないけど。でも、そうだね、信用はしてるよ。俺のこと、すごく真面目に考えてくれてるな、って。そういう人って他にいなかったから」
 天はフォークをくるくると回しながらパスタを上手に巻きつける。そういえば、箸の持ち方をきちんと教えてくれたのもその“おっさん”だと、以前天は言っていた。ふ、っと天が笑った。
「何?」
「いや、今思ったんだけど。ガキの時は抜きにしてね、一緒に暮らしてて、俺とそういう関係にならなかったのは、おっさんだけだったな、って」
 祥子はグラスを持とうと伸ばした指先を、止めた。
「そ、う」
 震えそうになる指先を一旦テーブルの上から引っ込める。
「うん。そういう意味ではやっぱ信頼できるかな」
 祥子は曖昧に微笑みながら椅子から立ち上がった。まだ少しパスタの残った皿を手に取る。
「ごちそうさま。ごめん、全部食べられなかった」
「うん。いいけど、祥子さん、大丈夫? もしかして具合、悪いんじゃないの?」
「そうかも。……先にお風呂に入って寝るね」
「うん。後、俺やるから、いいよ」
 気遣わしそうな声の天のほうはもう見なかった。パスタを三角コーナーに捨て、水栓レバーを降ろし、皿を水で濡らす。皿に貼りついていたベーコンがゆらゆらと横揺れしながら浮いた。
 天にとって自分は特別だと思っていた。何故だろう、勝手にそう信じていたのだ。
 祥子と暮らすこの部屋は、きっと天にとっては特別な、一番居心地のいい場所なのだと、そう思い込んでいた。でも違っていたのかもしれない。
──そらのバカ……。
 身体の関係をもたなかったから信頼できる、と天は言った。
 では、祥子は何なのだろう。最初に迫ってきたのはそっちじゃないの、と絶望にも似た怒りが込み上げてくる。何も考えずに口にしたのだろうが、だから寧ろ、それが本音なのかもしれなかった。ダイニングを出る間際、コルクボードに貼ったままになっている名刺がふと目に留まった。
 少し皺の寄った名刺。祥子の名前に添う「桐嶋天」の下手くそな文字。
 祥子はそれを乱暴に引き剥がし、天の目の前でもう一度ぐちゃぐちゃにしたい衝動に駆られた。
 その夜、久しぶりに月の砂丘の夢を見た。
 考えることは山のようにあり、なかなか寝つけなかった。仕事のこと、神足のこと、天のこと。それらがぐるぐると順繰りに頭の中に現れてきては祥子を強迫する。
 やっと眠りに落ち始めた、夢とうつつの狭間に月の砂丘は存在した。
 祥子は自分の足元の砂を何度も手に取っては掬う。指の間からすり抜け、さらさらと舞う砂の感触は案外滑らかだった。砂丘の稜線の向こうに見える青い球体は、以前よりずっと遠くに感じられた。祥子は茫洋とした気持ちになりそれを長いこと眺めた。
 薄灰色のうさぎもそこにいた。相変わらず祥子を見ない黒曜石のような目をして、杵を持ち上げもちを搗いていた。機械のような動きで一心不乱に搗いていた。
 滑稽だった。
 バカみたいじゃないの、と祥子は憤怒の涙を流す。誰にも食べてもらえないもちを搗くなんてバカみたいじゃないの、と。そうしてまた自分はひとりになってしまったと思う。そう思いながら声を殺して泣くのだ。涙ははらはらと止めどなく溢れては流れていった。
 また自分はひとりになってしまった。またひとりでここへ帰ってきてしまった──。
 泣きながら目を覚ました。パジャマの袖で涙を拭い時計を見ると十二時を回っていた。天はまだ横になっていない。
 遠くの部屋で黒電話の音が鳴っていた。ぼんやりした頭では、それが何の音なのか一瞬わからなかった。天の携帯電話の着信音だと理解するまでに少し時間がかかった。
 一気に目が覚めた。こんな時間に一体誰からなのだろうか。祥子は眉を顰め聞き耳を立てている自分に気がついてはっとした。天に誰から電話があろうと何時にかかってこようと自分には関係のないことだ。 嫌だ。みっともない、と思う。あんな十以上も年下の男のコをさっきまで自分のモノのように思っていた自分を、祥子は心の底から嫌悪した。
──もう、何も考えないっ。
 仕事のことも神足のことも天のことも、結局みんななるようにしかならないのだ。自分の思うとおりになんかいくはずがない。
 布団を頭から被り羊を数える。そんなことをしたところで、一度眠りに落ちるのに失敗しここまではっきり頭が冴えてしまったら、もう当分寝つけないことはわかっていた。不毛だと知りつつそれでも数える。気を紛らわしたかった。二百三十まで数えたところで、部屋のドアの開く音がした。
「……祥子さん、もう、寝た?」
 遠慮がちな天の声。祥子は返事をしなかった。壁際に向き目を閉じ、眠った振りをしていた。
 布団をそっと捲り、祥子の隣に天が腰を下ろす気配がした。が、天はそのまますぐ横にはならず、座った姿勢でぼうっとしていた。自分を見ているのだと祥子は思った。痛いほどの視線を左頬に感じる。ふっ、と髪に何かが触れて祥子は身を硬くした。
 天は祥子のこめかみにかかる髪に触れているようだった。柔らかな指先で何度も何度も撫でるように触れる。もしかして狸だとバレているのかもしれない。祥子は瞼を開かないでされるがままになっていた。天は髪の毛を撫で、梳き、さする。指先で。或いは手の甲で。まるで幼い子供に母親がそうするような、羽のような動きだった。祥子はその手によって頑なになってしまった自分の心が、ふうわりと解きほぐされていくのを感じた。
 今日、目撃してしまった場面も、天の人形のような表情も、天の口から聞かされた言葉も、何もかも大したことではないような気持ちになってくる。
 やがて愛撫を止めた天はゆっくりとシーツの上に横たわると、祥子の背中にぴたりと身体をくっつけ布団を被った。
 え。
──ちょっと……。
 わざとだろうか。これでは寝返りも打てないではないか。でも、絶対起きてなんかやらない。
 祥子が身動きひとつできずに悶々としていると、五分も経たないうちに背中から深い寝息が聞こえ始めた。首の後ろに生暖かいゆっくりとした天の息を感じる。
──嘘っ。
 祥子は思わず跳ね起きて背中側の天を見遣った。天はシーツの上に胎児のように丸まっていた。祥子は暫く、ぽかんとその寝顔を見つめ、それからぷっと吹き出した。安穏とした寝顔。こちらは散々気持ちを掻き乱され、眠れなくて困っているというのに。呑気なものだと思った。
──やっぱり可愛い……。
 長い睫も、きちんと閉じたふっくらとした唇も、女のコのように愛らしかった。 どこからが演技でどこまでが本物の天なのか、見極めることは祥子には到底できそうになかった。でも、こうやって自分に懐いてくる天を可愛いと思う気持ちは本物だ。今はそれでいいやと思った。 祥子は自分が先程そうしてもらったように、天の髪の毛をそうっと指の腹で撫でてみた。柔らかな髪質と地肌の温もりを指先に感じる。何度もそうすることで気持ちが落ち着いてくる。先程の天も、今の祥子と同じように何かに包み込まれるようなこんな温かな気持ちになったのだろうか。
 天の口許が緩んだ。にーっと笑うように崩れる。祥子は目を見開き、起きているのかとその端正な顔に自分の顔を近づけてみた。が、天からは、ただただ深い息が聞こえてくるばかりだった。

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