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第二章  「不変な日常なんてどこにもない」  6.
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 翌朝目を覚ますと、天はもうベッドにいなかった。
 今日の食事当番は祥子だ。天は今日バイトは休みで、そういう日は大抵祥子が出かける寸前まで起きてこない。どうしたのだろうかと訝りながらリビングダイニングに向かうと、すでに天はカウンターの向こう側に立っていた。
「おはよう、祥子さん」
「どうしたの? 今日、あたしが当番でしょ?」
 祥子が起き抜けの寝ぼけた声で訊くと、
「祥子さん、具合、どう?」
 と、逆に問われた。そういえば、具合が悪いことになっていたんだと思い出す。
「うん。もう、大丈夫」
「よかった」
 天はほっとしたように笑った。
「まだ寝てていいよ。今日、俺が朝飯作るからさ」
 祥子はぼうっと天の顔を見つめてから、ありがとう、と呟きダイニングの椅子に腰を下ろした。天は笑みを浮かべたまま自分の手元に目を落としている。祥子はたぶん寝癖がついているだろう髪を両手で押さえつけながら、すっかり明るくなった外に目を向けた。見えるのは青い空ばかりだ。眩しい。ベッドに戻る気にならなくてテーブルの上に両腕を伸ばして突っ伏すと、カウンターの向こうから何かをフライパンで焼くジューッという激しい音が響いてきた。
──あー。なんだろう。半熟の目玉焼き、かな……。
 なんだかんだと悩みながらも、やはり天との暮らしを自分は捨てられそうにない。きっと手放せない。
 ご飯が出来上がったと天に起こされるまで、祥子はそこでうたた寝をしていた。気持ちよかった。


「ねえ、そら」
 祥子は少し躊躇ってから口を開いた。
「あたしが、今の仕事辞めちゃったら、どうする?」
 えっ、と天は箸の先を唇につけたままその動きを止めてしまった。きょとんとした表情で祥子の顔を見つめている。食卓には思ったとおり半熟の目玉焼きが上っていた。祥子はその黄身の部分だけをくり貫き、醤油をかけ、ご飯に乗っけて食べるのが実は好きなのだった。生卵とはまた違うとろりとした黄身の食感と、醤油の絶妙な調和。大袈裟ではなく、こういう時日本人に生まれてきてよかったとつくづく思う。夫の前でそんな食べ方をしたことはなかった。もちろん、他の誰の前でもしたことはない。ひとりの時にこっそりとするのだ。自分の嗜好を知られることが、何となく恥ずかしいから。それなのに、どういうわけか天の前だと平気でできる。
「辞めるの? 今の仕事」
「うーん。っていうか、辞めさせられちゃうかもしれない。リストラって、そら、わかる?」
「うん、なんとなく。祥子さんリストラされるの?」
「うん。まあ、そんな感じ」
 ふうん、と天は、他人事みたいな言い方ではなく、寧ろ感嘆するような声で言った。聞いたところでわからないとでも思っているのか、関心がないのか、天はそれ以上何も訊ねてこない。事の重大さを上手く掴みとってくれない天に、祥子は少々気が抜ける。
 暫くふたりで黙々と箸を動かしていた。
「もし、仕事変わってお給料下がっちゃって、マンションの残りのローン払えなくなって、ここ、出ることになっちゃったら、……そらはどうする?」 「どうするって?」
 天の表情は変わらなかった。祥子に倣って自分も黄身をくり貫きながら、
「どうもしないよ。祥子さんが引っ越すんだったら、俺も、一緒にそこに行く」
 祥子はぱちぱちと目を瞬いた。
「ここより、うんと狭くなっちゃうかもしれないわよ?」
「うん」
「古くて汚い部屋になっちゃうかもしれないわよ?」
 天はくすっと笑った。
「へーきだよ」 祥子は箸を置いて湯飲み茶碗を手に取った。
「平気、なの?」
「うん」
 ふーん。そう。祥子はあまり気がなさそうに返事をした。
 天は立ち上がるとご飯茶碗を手にキッチンに向かった。どうやらご飯をおかわりするらしい。天の食欲は旺盛だ。あんなに細い身体のどこに入るのだろうかと思う。横から見ると、背中とお腹がくっつきそうなくらい薄い。天は二杯目のご飯を半分くらい食べたところでぼそりと言った。
「俺も、仕事変わるかも」
「え?」
「もうちょっと時給のいい仕事、探してみようと思ってる」
「え、でも、昨日はそんなこと言ってなかったじゃない」
 つい非難するような言い方になってしまった。天はちらりと目を合わせたが、またその視線をおかずに向けた。天は白菜漬けを、マヨネーズと醤油を混ぜ合わせたソースにつけて食べる。おかずはそれだけでご飯二杯は軽くいけると言う。イマドキの若者のご多分に漏れず、天もマヨネーズが好きらしい。
「どんな仕事するの?」
 ガテン系? と、小さな声で呟くように天は言った。
「ガテン系? 天が?」
 祥子は目を丸くした。
「うん。前もしたことあるし、学歴不問だし、未だに求人あるし、きついけど、日当いいんだ。まあ、あの仕事も、やばい人は結構いるけど」
「やばい人?」
 天は嫌そうな顔をして頷いた。
「うん。すんげーごつくてむさい男の人に限って実は美少年愛好者だったりするって、祥子さん、知ってた?」
 知らない。首をふるふると横に振る。
「俺も、もう少年って歳じゃないから大丈夫だとは思うけど。前やめたのは、それが原因」
 少年ではなくても、「美」ではあるわけだ。天はちゃんとそれを自覚しているのだと、祥子はこっそり苦笑した。
「ねえ、いまのお店では、声かけられたりしないの?」
 訊ねてから、そういえば今までどうしてだろう、そういうことを気にしたことはなかったな、と思った。天くらい美しい男のコが店頭に立っていればそれ目当てに来る客だっているに違いなかった。
「お店の女のコとか、お客さんとか。誘われたりしない?」
 祥子の質問に、うん、あるよ、と天は少しも躊躇わずに答えた。あまりの正直な返答に、祥子はぷしゅーっと身体中の空気が抜ける気がした。
「あ、やっぱり。あるんだ」
「うん」
「一回や二回じゃないでしょ?」
「うん」
「どこか遊びに行こうとか、そんな感じ?」
「うん」
 何てことないみたいに答える。
「行かないの?」
「行かないよ。だって、祥子さんと約束したから」
「約束?」
「他の誰とも寝ないって、約束したでしょ?」
 天は祥子の顔をじっと見つめてそう言うと、ごちそうさま、と両手を合わせた。
「あ……」
 あー。そういうことね。祥子は小さくひとりごちる。
 遊びに行くこと、イコールそういうことになるのか、天たちの年代のコは。そうなる可能性は、祥子が思っているよりずっと高いのかもしれない。
 祥子は両手で包み込んだ湯飲みの、残り少なくなった中身を見つめた。薄い緑色。ごく微小のお茶の葉が底に沈んでいる。祥子はそっと溜め息をついた。天との年齢の距離感と育ってきた環境の違い、これだけはどう転んでも縮みそうにない。祥子は改めて感じ入った。
 祥子は鏡台代わりのチェストの上に置かれた、漢字ドリルをぱらぱらと捲る。ざっと目を通してから、引き出しに仕舞った。天のいない時にゆっくり見ることにしている。天は祥子がいる時には決してドリルを開いたりしない。直接手渡すこともしない。たぶん、恥ずかしいのだろうと思う。初めて購入した日、手渡された漢字ドリルと国語辞典を目にした天は、明らかな抵抗の色をその顔に浮かべた。
「別に嫌だったら使わなくても構わないから」
 慌ててそう言ったが、天は固まった表情のままにこりともしないでそれを受け取った。失敗した、と思った。あまり前面に出さない天のプライドを自分はぺしゃんこに潰してしまった、深く傷つけてしまったかもしれない、と祥子は自分のお節介を後悔した。
 おそらく天がそれを開くことはないだろうと思っていたが、予想に反して、二週間後、小学校一年生向けのドリルが、チェストの上に無造作に置かれてあった。どぎまぎしながら開くと、そこには鉛筆の跡がちゃんと散在していた。あの時の嬉しさは、やっと学校に行くと言ってくれた登校拒否児童の母親の喜びと、似たようなものではないかと思う。
 今日置いてあったのは小学校三年生向けのドリルだ。相変わらず字は汚いけれど、近頃では、天は時々新聞に目を落とすようになった。テレビ欄のみだが、それでも時折、「ねえ、これ、何て読むの?」と訊いてくる。
 今日帰りにまたあの本屋に寄ろう、と祥子は思った。新しいドリルを買う為に。


職場はたった一日で居心地の悪い場所と化していた。
「相川さん、電算室から声をかけられたって、噂になってますよ」
 給湯室の入り口ですれ違い様、西原に耳打ちされた。そうか、それでみんなの態度が朝から妙によそよそしかったのかと祥子は納得した。まあ、多分そんなことだろうと思ってはいたが。
 祥子が駆け込み寺に声をかけられたということは、金属部自体があまりよろしくない方向に向かっているということで、皆がその事実を知ってしまったことになる。モグラはさぞかし参っていることだろう。そういえば女性社員よりも、男性社員の目つきのほうが冷たかった。その理由も何となく納得がいく。彼らには守っていかねばならないものが多過ぎるのだ。ある意味女のほうが自由なのかもしれない。
──自分だけ生き残ろうと思っているのか。自分さえよければそれでいいのか。
 妬み、そねみ、やっかみの入り混じった、暗澹とした闇の底のような目つきだった。 これから先のことを思うと気が重かった。祥子は自分用のマグカップを洗いながら大きな溜め息を落とした。

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