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第二章  「不変な日常なんてどこにもない」  7.
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 冷房の効いた夕方の書店は混んでいた。バスや電車の待ち時間を埋める為なのだろうか、学生やOL、スーツ姿の会社員で狭い通路はいっぱいだった。参考書を置いてある二階のフロアは比較的空いていたが、階段を降りた祥子は一階フロアのあまりの人の多さにげんなりした。人込みを縫うようにして通路を抜ける。男性向けの月刊誌や週刊誌を立ててあるコーナーを通る時、振り返った男の人にぶつかり、手にしていた袋を落としてしまった。袋の中身は無論、天への新しいドリルだ。
「あー。こりゃ、すみません」
 ぶつかった男が腰を屈め薄い袋を拾う。かさかさと袋が軽い音を立てた。頭を丸刈りにした五十代くらいの男だった。ポロシャツにスラックスというラフな格好をしている、どう見ても会社員には見えない顔立ちの男。
「こちらこそ、すみません」
 恐縮しながら祥子は受け取った。男と目を合わせ、頭を下げる。どこかで見たことのある顔だと思った。相手もそう感じたのか無遠慮な視線を祥子に投げつけてくる。
「あ……」
 誰だったのかを思い出し、祥子は慌てて男から離れた。天に人形のような表情のない顔をさせた男。昨日近所のスーパーの前で天を待ち伏せていた、柄の悪いやくざのような男に間違いなかった。
「相川さん」
 書店を出てすぐのところで、その男に声をかけられた。何で自分の名前を知っているのだろうかとぎょっとした。祥子は振り向かなかった。寧ろ足を速めたが、男は横に並んだ。
「相川祥子さん、ですよね?」
男の声はひどく嗄れていた。 「あんた、桐嶋天と一緒に暮らしてる、相川祥子さんだ。そうでしょう? 何で、あんた、今、俺の顔を見て驚いたんだ、桐嶋から何か聞いてるのか?」
──桐嶋。
 祥子は足を止め、男の顔を見つめた。
色の黒い丸顔。ブルドッグのように弛んだ頬。短髪。でも、目つきはそれほど悪くはない。
「あなた、何なんですか? そらの何? どうしてわたしの名前を知ってるんですか?」
 矢継ぎ早に質問した。男は祥子の勢いに一瞬詰まってから、ああ、と頬を緩めた。右手でポロシャツのポケットを探ると、
「今日は、非番だった……」
ひとり言のように呟いた。「手帳がない」
 男は自分のことを刑事だと言った。
「うそ……」
 祥子は思わずそう口にしていた。どう好意的に見ても、目の前の男は堅気の人間には見えなかった。
「なんで、あんた、俺の顔を知ってるんだ?」
 それはこっちの台詞だと思いつつ、やや間を空けてから祥子は口を開いた。
「昨日、そらと会ってるのを見たから」
「昨日?」
 祥子は近所の食料品店の名前を出した。男は探るような目で祥子を見る。遠慮は全くない。
「ああ。あのとき、見てたのか」
祥子は頷いた。
「あいつからは何にも聞いてないのか?」
 祥子はまた首を縦に振った。男は俯き、右手で後ろ頭を撫でた。何かを考えている風だったがやがて顔を上げると、今度は幾分柔らかい声で訊ねてきた。
「あんた、何だって桐嶋となんか暮らしてるんだ?」
「え?」
「あんた、真面目なフツウのお嬢さんじゃないか。ちゃんとした会社にも勤めてる。それが何であんな男と」
 お嬢さん。
 この歳でそれはないだろうと笑いそうになった。男は哀れみを含んだ瞳で祥子を見る。まるで娘を心配する父親みたいな顔だ。何だか嫌だ、と思った。胸がざらざらする。
「あの男はやめたほうがいい」
 しんみりとした声で言われて、祥子は相手が本気でこちらを心配しているのだと悟った。
 男は足元に視線を置いていた。コンクリートタイルの隙間から生えた雑草を爪先で突ついている。
「昨日はちょっとした事件の参考にあいつに会いに行ったんだ。いま担当している事件が、桐嶋が前に起こした事件と似ていたから。だがあいつは関係ないってわかったから、もう会いには行かんよ。安心していい」
「事件?」
 天が前に起こした事件。
「あんた、何にも知らないのか?」
 男は呆れたような顔つきになった。
 知らない。何も知らない。
 天の身体の傷を思う。天は、祥子の中ではどう考えても被害者の立場にある人間だった。
「時間があるんなら、ちょっとつき合わないか?」
 男はすぐ傍の喫茶店を指差した。
 行かないほうがいい、と思った。おそらくは、祥子の知らない天の裏の顔を知らされる。咄嗟に頭に浮かぶのはプラスチックでできた人形のような天の顔だ。
 天との生活を、祥子は手放せない。捨てられない。なのに首を縦に振っていた。はっきりとした黒い予感に包まれながらも、刑事だと名乗った男の後ろをついて行くことにした。
 何も知らないで平和に暮らすことを望む気持ちよりも、天の過去を知りたいという欲求のほうが祥子の中でははるかに強かったのだ。


 時間は夜の八時を回っていた。 喫茶店で小一時間刑事と名乗る男と話した後、そのままその店でぼうっと時間を潰していた。
 力のない足取りでコンクリートのタイルの上を歩く。白いミュール。踵の部分が細いので、歩くたび震動がふくらはぎまで伝わる。
 湿気の少ない夜だった。意外に気温も下がっている。右肩から下げていた鞄がぶるぶる震えていることに気が付いた。喧騒に消されて音は聞こえなかったが、携帯電話が鳴っていた。取り出した電話のディスプレイには『神足隆』の文字。メールではなく電話だ。この電話の前に、二回ほど天から電話がかかってきていたが祥子は出なかった。
 神足からの電話には少しだけ逡巡してから、通話ボタンを押した。
「はい」
『こんばんは。……相川さん?』
「こんばんは」
『あれ? なんか声に元気がないね』
 神足の声は明るい。祥子は視線を遠くのビルの巨大な看板に飛ばしながら、くすっと笑った。化粧品のモデルは艶やかな唇で、つんと澄ました顔をこちらに向けている。
「元気、ないですよ。もう、ここのとこ嫌なことばっかりで」
 終わりのほうは声が小さくなった。嫌なことばっかり、と口にした途端、泣きたいような気持ちが込み上げてきて、喉がぐっと詰まった。
 本当に嫌なことばかりだ。改めてそう思った。
 西原から耳打ちをされた後、給湯室から戻ると、山のような書類が机の上に積まれていた。
「それ、十部ずつコピーしといて」
 は? と訊き返したい思いを何とか喉元で押しとどめた。見ただけでわかる。どうでもいいような内容の書類だ。明らかな嫌がらせだった。 祥子は敢えて言い返すことはせず、全部十部ずつコピーした。自分には帰る場所がある。天との暮らしがある。あれがあれば、大抵のことは我慢できそうだった。
 けれど。天の過去がその邪魔をする。
『……へえ、そうなんだ』
 神足の声が柔らかく耳に響いた。神足も外を歩いているのだろうか、途切れ途切れに雑音が入る。
『ねえ、今、外なんだろ? もうご飯食べた?』
 何か、食べに行こうよ、と神足はつづけた。祥子は黙っていた。
『あれ? 警戒してる?』
 祥子はまた小さく笑った。足を止める。
「居酒屋……」
『え?』
「居酒屋に、行きたいですね」
『居酒屋?』
「そう。安くて冷凍食品っぽいメニューがいっぱいあって人がたくさんいるお店。悪酔いしそうな安モノの酎ハイかなんかを死ぬほど飲んで思いっきり酔って暴れたい気分なんですけど、神足さん、つき合えます?」
 えっ、と言った後、一拍間を空けた神足は豪快な笑い声を上げた。
『面白いこと言うね、相川さん。いいよ。行こうよ、居酒屋』
「えー。酔っ払って暴れるんですよ? 本当にいいんですか?」
『いいよ。全然構わない』
 神足は余裕のある声で答える。こちら側を安心させる声音だ。大人だな、と思った。
『すぐに行こうよ。昼から何にも食べてないから、お腹空いちゃっててさ』
「え? 神足さん、いま、どこにいらっしゃるんですか?」
『後ろ』
「は?」
『相川さんの後ろにいるよ』
祥子が慌てて振り返ると、三メートルくらい後ろの雑踏の中、ストライプのシャツにネクタイを締めた神足が立っていた。面白そうにくつくつと笑っている。
「やだ、びっくりした……」
たった今携帯電話越しに馴れなれしく話をしていたのに、顔を合わせた途端気恥ずかしくなった。神足は早足で近寄ってきた。
「さっきすれ違ったんだけど、相川さんぼーっとしてて全然気がついてくれないからさ。なんかいたずらしたくなって電話した」
「そう、だったんですか」
 祥子は気まずい思いで背の高い神足を見上げる。神足からは男性用の香水の匂いがした。
「でも、よかった。……儲けたな」
「儲けた?」
「うん。思いがけず相川さんと一緒に居酒屋に行けることになった。ラッキーだよ。……で、どこに行く?」
 答えに詰まっていると、不意に掌中の携帯電話が鳴り出した。見なくてもわかる。天からだ。
 祥子は残業で遅くなる際には必ず天に連絡を入れることにしている。今日は全く電話をしていない。どころか、天からの電話にも出ないでいる。そんな不義理な行いをしたことはこれまで一度もなかった。心配しているだろう天の顔が浮かぶ。きゅっ、と胸が痛んだ。でもとてもではないが今は天と話のできる気分ではなかった。今話せば、きっとひどいことを言ってしまう。天を傷つけてしまう。いや、逆に何も話せないかもしれない。目だってきっと合わせられない。
 電話が鳴り終わるのを待ってから祥子は携帯電話の電源を切った。
「いいの?」
 電話が鳴っている間じゅう視線をよそに向けていた神足が、目を丸くして訊いた。祥子はこっくりと頷く。ふうん、と神足は関心なさそうに言うと、いきなり祥子の手を取った。
──え。
「どこに行こう?『笑笑』でいい?」
戸惑う祥子をよそに屈託なく笑いかけてくる。
「え、ええ」
「何? さっきの電話の感じとちょっと違うね。トーンダウンしてる」
「え。あ、緊張しちゃって……」
 言いながら、胸の中は罪悪感でいっぱいだった。神足と、そして天への罪悪感。 自分はこの男に期待させているのかもしれない。 ちょっとまずいんじゃないかと思いながら男の横顔を盗み見た。照れているのかどうか。暗がりの中、男の頬は少しだけ赤くなっているように見えた。


 鍵を差し込んで回す。かちゃんという金属音が通路に響いた。もう十二時を過ぎている。深夜だ。
 先程道路から見上げた自分の部屋の窓には、煌々と灯りが照っていた。天は寝ないで待っているのだと、一気に気持ちが重くなった。 お酒は飲んだが結局酔えなかった。天はどうしているだろうかと気になって仕方なかったのだ。
「相川さん、強いね。せっかく酔ったところを口説こうと思ってたのに、残念」
 本気なのか冗談なのか。苦笑混じりに神足に言われた。
 ドアノブを回して、ただいま、と言おうとしたその時。祥子の目に、投げ出された大きな足が映った。天は身長はそれ程高くないのに足は大きい。靴のサイズは28・5センチだ。まず、その大きな裸の足が祥子の目に飛び込んできた。天は足指さえも細くすうっと伸びている。
 天は沓脱ぎのすぐ傍の廊下の壁に凭れかかっていた。片方の膝を抱え、もう片方の足を投げ出し、膝に乗せた頭を両腕で抱えた格好で、祥子を待っていた。
 寝ているのかと思った。祥子を待っているうちに寝てしまったのかと。でも、違っていた。
 その細い身体が小刻みに震えていることに、祥子は気がついた。
「そ、ら……?」
 尋常ではない天の様子に、祥子が恐る恐る声をかけると、天は折り曲げた肘の隙間からちらっと祥子を見上げた。祥子を見るその瞳はぞっとするほど虚ろだった。異様な空気を感じた。
「そ、ら?」
 がたがたと震える天に近寄り、祥子もその場にしゃがみ込んだ。天の顔を間近にし、思わず息を呑む。天の顔は奇妙な肌の色をしていた。
 土気色。 血の気のなくなった人間の顔はこんな黄色になるのかと、祥子は変に冷めた部分で感心していた。
 額にびっしりと玉のような汗が浮いている。震える指先でその汗を拭うとねっとりと指に染み込んできた。脂汗だ。汗をかいているというのに、けれどその額は氷のように冷たかった。されるがままになっている天の身体はそれでもなお、がたがたと震えていた。触れた剥き出しの腕も、手も、冷凍室から出てきたばかりのように冷たい。どうしたの? という言葉は出てこなかった。身体の調子が悪い天をほったらかしにして自分はお酒を飲んでいたのだろうか。別の男と。ぼんやりとそんなことを思った。何か言わなければと思うのに、唇が開かない。 突然強烈な力で跳ね飛ばされ、祥子は尻もちをついた。 天が唐突に立ち上がったのだとわかった。そのままトイレに駆け込む背中を、祥子は玄関に後ろ手を突いた格好で、ただ見ていた。 激しく嘔吐する音が聞こえてくる。
 天の身体に何が起こったのだろうか。どうしよう。とにかく病院へ行かなければ、と思った。
 靴を脱ぎ、ふらふらとした足で、開いたままのトイレのドアから顔を覗かせると、天の顫動する背中が見えた。
「そら」
 自分の声が泣き声のように聞こえた。
「ねえ、そら、具合が悪いんだったら救急車か、タクシー……」
 呼ぼうか? という言葉は、天の声がかぶさり消えてしまった。あっち、と苦しそうな声で天は言った。
「あっち、行ってて。救急車なんか呼ばなくていい……」
 言うやいなや、また吐いた。
 祥子は後退る。動転している所為だろうか、足がふわふわと宙に浮いた感じだった。 ゆっくりとリビングのドアを開けた祥子は、目に飛び込んできた光景に再び立ち竦んでしまった。
──な、に……?
 部屋中の、灯りという灯りが点されていた。
 キッチンも、流しの上の小さな白熱灯も、ダイニングも、リビングも。普段はコンセントからプラグを抜いているフロアランプに至るまで。真夜中だというのにこの明るさはどういうことかと目を見張った。足が、震える。テレビの音声にコンポから流れる音楽が重なっていることに気がついて、慌てて両方の電源を落とした。そう言えば、廊下の電気も、玄関の灯りも点いていたと思い返し、全身が粟立った。
 祥子は震える足で、洗面所に向かった。眩暈がしそうだった。
 洗面所の灯りも、洗面台の蛍光灯も、無論、風呂場の電気も点いている。おそらくは和室も寝室も同じことだろう。見なくてもわかる。祥子はその時初めて自分の犯した罪の深さを知った。
──そら……。
 ぎゅうっと心臓が締めつけられるように痛んだ。
──あいつがどんな残忍なことをしたか、あんた知らないのか?
 ブルドッグのような顔をした刑事の言葉を思い出していた。
──あいつの母親がどんな死に方をしたか、あんた、知らないんだろう?
 祥子は、洗面所にともった灯りを、震える指先でそうっとひとつずつ消していった。
 リビングに戻ると、天はソファに頭を抱えた格好で座っていた。
「そら……」
 天の横に腰掛け、その顔を覗き込む。幾分正気を取り戻しているように見えてほっとした。
「ごめん、そら、あたし」
「覚えてないんだ……」
 覚えてないんだ、と天は言った。後ろ頭に回していた手を外し、今度はその手で顔を覆った。
「俺、全然、覚えてないんだ」
苦しそうな、絞り出すような声だった。「あの人が、俺を置いて出て行ったとき、ずっと、あの人の帰りを何日もひとりで待ってたとき。自分が何をしてたか、何を思ってたのか、全然覚えてないんだ。本当に……」
 怖くてたまらない、と言って天はもう一度頭を抱え込んだ。 怖くてたまらないんだよ。
 ひとりの夜が怖くて怖くてたまらない。
 外から闇が入ってくるんだよ。
 外から夜の真っ暗な闇が入ってきて、大きな口で俺を食べようとするんだ。頭からバリバリと食べようとするんだ。
 本当なんだよ。
 信じて、祥子さん。
 怖くて怖くてたまらない。
 心がぺしゃんこに押し潰されそうだ──。
「たすけて……」
 天は言うと、またがたがたと震え始めた。
祥子は泣きそうな顔で天を見ることしかできない。情けないくらい、何もできない。
「そら、ごめん。ごめんね」
「たすけて、祥子さん」
 天は縋るように祥子の肩を両手で掴むと、そこで初めて祥子と目を合わせた。
「たすけて、たすけて、たすけて……」
 後は泣き崩れるようにして祥子の腹部に顔を埋めた。それでもまだ震えは治まらない。
 祥子はゆっくりと天の背中に腕を回した。薄手のTシャツは汗でじっとりと湿っていた。天に拒絶されるのではないかと一瞬躊躇ったが、間を置いてぎゅっと抱きしめた。骨ばった身体が軋むような音を立てる。自分が天にしてあげられること。それは、本当にたったこれくらいのことしかないのかと、祥子は思って絶望した。
「ごめん、そら、本当にごめんね」
──あいつには心がないんだよ。
 天には心がない、とあの刑事は言った。
 嘘だ、と思った。 心のない人間が、こんな日常の有り触れた孤独に、これほどまでの異常な怯えを見せるわけがない。
「ごめん、そら、ごめん」
 祥子の腕の中、身体の震えはやがて少しずつ止んでいった。冷たかった肌に熱が戻ってくるのを、回した腕に感じていた。それでも祥子はごめんねと謝りつづけていた。自分の犯した罪の重さを思う。そうっと電話の上のコルクボードに視線を送った。祥子の名刺に並んだ天の名前。
 見つめていると切なくなって、祥子は何度もごめんねを繰り返していた。


第二章「不変な日常なんてどこにもない」(了)

第三章へ
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