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第一章 「月の砂丘にひとり」  3.
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 知世とランチを一緒に食べた夜、新入社員の歓迎会が会社に程近い日本料理店で行われた。祥子の所属する金属部鉄鋼第一課では忘年会も送別会も大抵この日本料理店を利用する。新しい店を開拓しようとする人間は鉄鋼第一課にはいない。出席者は十二人。うち女性は祥子と、二十五歳と二十三歳の派遣社員のふたり。A商事ではここ七年間一般職の女性社員の新規採用を行っていない。退職者の補充は全て派遣社員で賄っている。鉄鋼第一課に新入社員が入ってきたこと自体、祥子は驚いていた。会社が金属部の縮小を謳っていることくらい末端にいる祥子にだってわかる。そしてその矛先が自分に向けられ始めていることも。
 祥子が離婚して半年も経たないうちに課長に見合いを勧められた。相手は関連会社の支店長職に就く男だったが、中学生の子供がふたりもいる五十に手の届こうかという男やもめだった。丁重に断ったが、その後も、もう一度考え直してみてくれないかと何度も肩を叩かれた。その度、祥子は傷ついた。砂を心に擦りつけられるようなざらざらした気持ちになった。
 いくらバツイチとはいえ、もう少し相手を選んでくれないものだろうかと思う。それとも今の自分にはもう子連れの四十男しか似合わないのだろうか。しかし、離婚したばかりの女にお見合いの話を持ってくる感覚がそもそもわからない。あれも一種のセクハラではないか。
──セクハラ親父め……。
 斜め向かいに座る課長の、鼻孔の大きい鼻を見遣る。祥子は密かに課長をモグラと呼んでいる。
「相川さん、駆け込み寺から声がかかってるってほんと?」
 隣に座る祥子と同い年の男性社員、根津に不意にビール瓶を差し出された。彼は去年ソウルから帰国したエリートだ。その前はニューヨークに赴任していたという。無論独身ではない。いい男はどういうわけか結婚が早い。祥子は首を傾げながら透明なグラスを手にする。
「違うの?」
「そんな噂があるんですか?」
「うん。何だ。違うのか」
  根津はにやっと笑うと、「河野課長には見合いを勧められてるんだろ? その上駆け込み寺じゃ、相川さん相当まいってるんじゃないかと思ったんだけど」
 祥子は思わず溜息をついた。
「みんな、あたしに辞めて欲しいんですね」
「僕はそんなこと思ってないよ。相川さんに聞けば鉄鋼第一課のことは何でもわかるしね。そういう人間も会社には必要だよ」
「そう、でしょうか?」
「うん。相川さんは仕事が早くて丁寧で、それにミスもない。僕だけじゃなくてさ、みんな結構頼りにしてると思うけど?」
 根津は膳の上の椀に手を伸ばして蓋を開けた。中に入っている茶蕎麦を見て、
「あれ。何だ。お吸い物かと思ったのに」
 そう言いながらも箸で蕎麦を摘む。祥子は根津の濃紺のスーツに視線を這わせた。どこのブランドの服だろうか。アルマーニかディオールか。時計はカルティエだ。
 根津はいつもぴっちりとクリーニングに出された高級そうなスーツに身を包んでいる。ノンフレームの眼鏡も彼によく似合っていた。スマートで全てをソツなくこなす頭の良い男だと祥子は根津を高く評価していた。仕事の上でも頼りになるし、だからといってお高いところがなく気安く話しやすい。おそらく今の鉄鋼第一課の中で一番光っているのは彼だろう。こういう人間はまたすぐに転勤していくのだ。ひとところにとどまらない。
 少し離れた向かいの席では今日の主役の新入社員が派遣社員の女性ふたりに挟まれて頬を赤く染めていた。
「相川さん、あたし達、今日新人の高良君の隣に座ってもいいですか?」
 ここへ来る途中、ふたりに訊かれた。祥子は小首を傾げながら、いいんじゃないの、と答えたが、何だって自分にそんなことを訊ねるのかさっぱりわからなかった。
 それにしても。
──駆け込み寺か……。
 暗い地下の、プリンタが長く連なる紙を吐き出す音だけが一日中かたかたと響く部屋。有り得ない話ではない。
 祥子は再び出そうになった溜息を押しとどめ自分も茶蕎麦の入った椀を手に取った。


 二次会には行かなかった。夜の喧噪の中を人の目を縫いながら地下鉄の駅に向かう。腕時計を見ると九時を過ぎたばかりだった。お酒はあまり口にしていないつもりだったが、火照った頬に夜風が気持ちよかった。ずきっ、と左踵に疼痛が走って、祥子は思い切り顔を顰めた。靴擦れだ。豆が潰れたようだった。真新しい靴を一日中履いていたのだから仕方がない。アキレス腱のすぐ下の硬い骨の部分がじんじんと傷んだ。
「おねえ、さん」
 左踵を上げて後ろ向きに見ていると、不意に声をかけられた。こんな時間にキャッチセールスだとも思えない。相手の顔は見ないままに歩き始めた。少し歩を速めたが左足を踏み込むたび強烈な痛みが脚を貫く。
「おねえ、さん」
 もう一度耳のすぐ傍で声がした。男が顔を覗き込んでくるのもわかった。祥子は立ち止まって憤然と相手の顔を睨みつけた。が、見覚えのある顔が飛び込んできて、あ、と気の抜けた声を出してしまった。昼間イタリア料理店にいた、あの綺麗な顔をした少年が作り笑いを浮かべて立っていた。陽の光に照らされ金色に見えていた髪の毛は、夜の灯りの下では普通の落ち着いた茶色に変わっていた。けれど整った顔のうつくしさは間近で見てもなお秀麗だ。
「昼間会ったよね?」
 大きな茶色い瞳に夜のネオンが映ってきらきら輝いて見えた。「俺のこと覚えてる?」
 馴れなれしい。ちょっと目が合っただけではないか。祥子は眉間に皺を寄せ相手を見つめ返す。
「何か用?」
 少年は少し困ったように笑うと、
「ええ、と」
 鼻の先を人差し指で掻きながら言う。 「ナンパしてるつもり、なんだけど」
 祥子は目を丸くした。
「ナンパ」
 口を開けたまま二の句が継げない。開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ、と思った。
「変、かな?」
 祥子は少年の爪先から頭のてっぺんまで、不躾に視線を這わせた。わざとそうしてやった。薄汚れたスニーカー。色褪せたジーンズ。大きく白いロゴの入ったいかにもチープな濃い緑のパーカー。そして肩には大きな黒いデイバッグ。祥子のほうはといえば、グレイのタイトなスーツに黒のパンプス、ブランド物のバッグだって持っている。どう考えても釣り合いが取れないではないか。祥子はぷっ、と吹き出した。
「君とあたしでどんな店に行こうって言うの? 冗談でしょ?」
少年は再びぽりぽりと鼻の頭を掻いた。
「う、……ん」
 何か言いよどんでいる風だったが相手にしていられない。祥子は歩き始めた。驚いたことに少年が同じ速度でついて来る。祥子は地下鉄の入り口まで来ると、もう一度立ち止まった。
「何なのよ、一体。何か用?」
祥子は元来他人に対しきつい口調で接することのできるタイプではない。けれどこの少年にはそういう言い方をさせてしまう何かがあった。やや気弱そうなおどおどした態度の所為だろうか。
「行くところがないんだ」
 少年ははっきりとした口調で、けれど恥ずかしそうに言った。「一緒に住んでるコイビトと喧嘩して家出したんだ。帰るところがないんだ。だからおねえさんのとこに泊めてください」
 腰を折って深々と頭を下げる。
 祥子は一気に酔いが醒めていくのを感じていた。変なコに関わってしまった。初対面の人間に対し、家に泊めてくれなどと平気で口にするなんて。このコちょっと頭が変だ、と思った。
「何言ってるの?」
「え。だから泊めてほしい、って」
「何であたしが見ず知らずの君を泊めないといけないの?」
「え、と」
「自分の言ってることが変だってわからないの?」
 少年は真剣な面持ちで、どうかな、という風に首を傾げる。祥子は溜息をついた。顔は可愛いけど、頭が足りない。
「悪いけど……」
そこまで言って、祥子はふっ、と視界に知っている人間の姿を感じ、少年からそちらに視線を移した。自分の目の前を横切っていく男女に思わず息が止まる。男と女は腕を絡ませ人目も憚らず身体を寄せ合っていた。紺色のブランド物のスーツに縁なしの眼鏡。根津だ。そして相手の女は派遣社員の西原という女のコだった。
──うそ……。
 祥子は思わず足を踏み出すと、踵の痛みに顔を歪ませながらもふたりの後を追った。ふたりが向かっているのがこの辺りでも有名なホテル街だと気がついたところで、尾行を止め、呆然とふたりの後ろ姿を見送った。
 ショックだった。
 先程まで課で一番頼りになると思っていた男の不貞行為を目の当たりにしてしまった。しかもこんな会社の近くで。他の社員に見られても構わないと思っているのだろうか。その神経が信じられなかった。ふたりは今にも唇が触れ合いそうな距離で言葉を交わしていた。そこだけ特別濃密な空気が漂っていた。根津の顔に普段の爽やかさや瀟洒な雰囲気は微塵も感じられなかった。
 いつからふたりはそういう関係だったのだろうか。自分は少しも気づかなかったが、今日が初めてというわけではなさそうだったな、とぼんやりと考える。
 別に大人の男女のことだ。不倫などさほど珍しいことではない。祥子自身何故こんなにも傷ついているのかよくわからなかったが、たった今目にした光景は、ずしんと鉛を心に落としたように、重く暗い陰を祥子の中に作った。
 祥子は階段を降り、改札を抜け、電車に乗った。少年がついて来ているのは知っていたが、声をかける気力がなかった。駅から祥子のマンションまでは夜でも人通りが多い。痛む左足をやや引きずるようにして歩く。星の見えない都会の空を仰いだ。また夜がやって来た、と思った。眠れない夜の闇は果てしなく祥子の眼前に広がっていた。
 祥子は今度は俯くとひとつ息を落とした。あんな光景を目にしたくらいで落ち込むなんて、自分はなんてつまらない人間なのだろうか。生真面目で常識という枠からはみ出すことのできない面白みのない女。ふたりの秘密を知ってしまったことを愉しむことだってできるはずなのに。自分にはそういうアソビの部分が足りない。
 マンションの近くのコンビニに寄ろうとしたところで、まだ後ろをついて来ている少年を振り返った。少年は祥子から三メートルくらい離れた場所で同じように立ち止まる。まるで捨てられた子犬みたいな顔で祥子の顔をじっと見つめ返してくる。どうしてこの少年は自分に懐いてくるのだろうか。自分が駄目だと言ったら彼は今夜どこで過ごすつもりなのだろうか。
「本当にうちに来るつもりなの?」
意に反してそんな言葉を口にしていた。祥子の問いに少年の顔がぱっ、と輝く。
「いいの?」
 幼子のような無防備な顔で訊かれ、祥子は苦笑した。
「明日の朝食用のパンを買って来るから、そこで待ってなさい」
 少年は嬉しそうに微笑むと、こくこくと頷いた。
 ひと晩だけだ。知らない男の子をひと晩泊めるだけ。大したことではない。
 祥子はそう自分に言い聞かせ、コンビニの自動ドアを潜り抜けた。店の眩いばかりの白熱灯の明るさに目を細め、入り口にあるオレンジ色のカゴを手に取った。
 
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