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第三章  「ねえ、これって恋だと思う?」  2.
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 向かいに座った男は自分から誘ったくせになかなか口を開こうとはしなかった。自分の名前を告げたきり、両腕を組んだ姿勢で石のように押し黙っている。仏頂面。
 C署の一課の刑事だと言った。祥子は男の顔をそっと盗み見る。
 ブルドッグみたいな頬。頭は坊主に近い短髪で額は狭い。下膨れなので顔全体がおにぎりみたいな形だ。額の下には濃い眉と、案外つぶらな黒い瞳。それがこの男を少しだけいい人に見せていた。
 店員がコーヒーを運んできた。柘植は頼んだアイスコーヒーにたっぷりとシロップとミルクを注いだ。祥子はホットコーヒーだ。店内はまだ五月だというのにエアコンがきいていて肌寒かった。
「桐嶋とはどうやって知り合ったんだ?」
 ストローでコーヒーをかき混ぜながら訊ねてきた。グラスの中に走る白い曲線がゆらゆらと揺れた。どうと訊かれても、答えにくい。街で声をかけられただけで自分の部屋に招いたのだ。そしてその日の内に寝てしまった。
──口が裂けても言えないな。
 祥子は砂のような色合いのカップに沈む真っ黒な液体を見つめ黙っていた。
「街でナンパでもされたのか?」
 正解だ。祥子はあの夜の不器用な天の口説き方を思い出して、我知らず口許を緩めてしまっていた。慣れているとは言い難かった。あれはただ単に人懐っこいだけだ。 笑う祥子に柘植が微かに鼻白んだ。
「あいつはな、誰とでもすぐ寝るようなやつなんだ。あんた、それを知ってるのか?」
──知ってる。
 祥子は目も合わせないで沈黙を守っていた。警察官が一般の人間相手にそんなことまで喋っていいのか、と思う。それだけではない。柘植は、天が前に起こした事件について話したいと言って祥子をここへ誘ったのだ。
「ターゲットは大抵あんたみたいなちゃんとした会社で働く真面目な人間ばかりだ。しかもひとり暮らしの、年齢も自分よりずっと上の、男でも女でも構わないようなやつなんだ、桐嶋は。あんた、それを知っててあいつと暮らしてるのか?」
 祥子は眉を顰めた。
「ターゲット?」
 柘植は祥子の瞳を探るように見つめてくる。
「あいつは、ずっと何人もの人間の間を渡り歩いて暮らしてる。住所不定で定職ももたない、どうしようもないやつだ。そのくせ選ぶ相手はどういうわけか決まって地味で真面目で、これまで人生を踏み外したこともなさそうな人間ばかりなんだ。そういう人間ばかり狙ってるんだよ、桐嶋は」
 地味で真面目。また言われてしまった。もう、ほっといてほしい、と祥子は思う。
「相手は大抵、桐嶋に溺れる。まあ、あの美貌だ。その上、みんな真面目だから妙に恋愛経験が浅い。そういうやつがひとりの男に溺れたらどうなるか、わかるか? 大概最後は刃傷沙汰だよ。あいつはそのテの事件を何度か起こしてる。真っ当な人間を惑わす、悪魔みたいなやつだ」
 祥子は衝撃を受けながらも、けれどどこか実感が湧かず、妙な冷静さを保っていた。そうなんだ。そう思う程度だ。過去の天と、現在の天は別人のような、そんな感覚が祥子の中にはあった。 祥子はぼんやりと、柘植の両腕を見つめていた。案外毛の薄い日焼けした腕。筋肉と脂肪に包まれた太い腕だった。
「でも、それは。……そらが悪いわけではないでしょう?」
 祥子は相手の顔は見ないで、小さな声で言った。
 柘植は眉を上げたようだった。テーブルの下から通路に投げ出した両脚を横柄な仕草で組んだ。
「あんたも、もうかどわかされてる口か」
──かどわかす?
 何てことを言うのだろうかと思った。
「先程おっしゃった事件って何なんですか? その事件もいま言ったようなことなんですか?」
「あいつがどんな残忍なことをしたか、あんた知らないのか? 本当に、桐嶋から何も聞いていないのか?」
 祥子は男の物言いに引っかかるものを感じて黙っていられなくなった。
「残忍って何なんですか? 一緒に暮らしてた人に、そらが何かしたんですか?」
「いや、違う。もっと昔の話だ」
「むかし」
祥子は呟く。「そらが母親に、置き去りにされた頃の?」
 柘植はまた探るような目つきになった。
「なんだ。その話は知ってるのか。……じゃあ、あいつに戸籍がなかったことも?」
 祥子は頷いた。
「桐嶋から聞いたのか?」
 再度頷く。柘植がにわかに驚いたような表情を見せた。
「へえ。そういう自分に都合の悪くないことは喋るわけだ」
 意地の悪い言い方だ。胸がざらつく。
 柘植はストローでコーヒーをかき混ぜながら、再び祥子の顔を食い入るように見つめた。職業柄そうすることが癖になっているのかもしれない。
「事件は、桐嶋が十三歳のときに起きてる。もう、七年くらい前の話か……」
 自分がD署にいた頃の話だと柘植は言った。
 柘植は脚を組みかえると遠くを見るような目つきになった。祥子の後ろの天井の辺りに視線を当てている。小さな店だった。煙草のヤニで壁は黄色く変色している。有線放送の歌謡曲が流れる古いタイプの店だが、コーヒーの味はそう悪くなかった。
「110番通報があったんだ。マンションの隣の部屋で変な叫び声がしてる、薄気味悪いからすぐ来てくれってな」
 その日たまたま宿直で残っていた自分と、制服の警官ふたりとの三人でマンションに駆けつけたのだと柘植は説明した。通報のあった部屋の玄関の鍵は開いていた。確かに呻き声とも叫び声とも区別のつかない苦しそうな声がずっと漏れ聞こえている。聞いたこともない不気味な声。地を這うような声だ。通報者には自分の部屋に戻ってもらい、柘植は扉を開けると、部屋の住人の名を呼んだ。何が起こっているのか全くわからないので冷や汗ばかりが浮かぶ。呼びかけに応じるように呻き声が僅かに大きくなった。助けてくれと言っているようにその時の柘植には聞こえた。三人で顔を見合わせると互いに目配せし、慎重に中に入っていった。短い廊下の奥の部屋は扉が大きく開いていた。目に飛び込んできた光景に、大の大人三人が思わず息を呑み動けなくなった。
「男ふたりがのた打ち回ってたんだ。獣のような呻き声を上げて、身体を床にこすりつけて。……頭は血まみれだったよ。その頭をこう、両腕で抱え込んだ格好で、足をばたばたさせてた」
柘植は顔を俯けると両腕で頭頂部を隠して見せた。「身体をばたばたさせた格好は、お菓子をほしがる子供が店の床に寝転がってダダをこねてるみたいな、あれだ。あんな風に見えたよ」
 それから、と柘植はつづけた。
「もうひとり、同じ年頃の女が壁に縋りついて身体を震わせてた。やっぱり、他の男と同じように顔をかばうようにしてな」
 ただ、女の頭からは血は流れていなかった。事件だ、と咄嗟に思ったが、柘植も、ふたりの警官もすぐには動けなかった。
 窓の傍に少年がひとり佇んでいた。女のコと見間違えなかったのは、平らな裸の胸が見えたからだ。半裸の上半身に返り血を浴びた少年は、陸に打ち上げられた魚のように跳ねる男ふたりをただぼうっと眺めていた。
 ふたりを見る少年の表情があまりにも衝撃的で、その顔を生涯忘れることはできないだろうと柘植は言った。
 別のところで、あろうことか柘植は、少年の零れ落ちるような美しさに見惚れてしまっていたのである。形の良いアーチを描いた眉、その下の茶色く大きな猫のような瞳、中央を走る細い鼻。ピンク色のふっくらした唇。何よりその白い肌。まるで人形だ。こんなうつくしい人間を柘植はこれまで見たことがないとはっきりと思った。
 細長い首からつづく華奢な身体へと視線を走らせる。そこで初めて、手にした小さな果物ナイフが目に留まった。我に返った柘植が他の警官に目を遣ったが、制服のふたりも柘植と同様少年に目を奪われ、口をぽかんと開けて立ち尽くしているだけだった。叱咤して、ひとりに救急の手配をさせ、自分ともうひとりとで少年と震える女の身柄を確保した。少年は全く抵抗を見せなかった。何が起こっているのか全く理解していない、心をどこかに置き忘れたような、そんな顔つきだった。
「出血は大したことなかったんだ。だけどな」
 そこで柘植は言いよどんだ。祥子は思わず口を挟んでいた。確認せずにはいられなかった。
「その少年が、……そら、だったんですか?」
 柘植は頷いた。深く椅子に凭れかかると天井を見上げた。
「血にまみれた肉片が落ちてたんだ。初め、それが何なのかわからなくてな」
大丈夫かと、のたうち回る男たちの顔を覗き込んで柘植は色をうしなった。「ぶったまげたなんてもんじゃない」
 柘植は耳と鼻の前で右手の人差し指をすっと走らせた。
「綺麗に切り落とされてた」
 祥子は唇を開いたが言葉は出てこなかった。柘植は挑むような目で祥子を見る。
「耳と鼻のない人間の顔、あんた、想像できるか? ──俺は一生忘れんよ」 まるでその惨劇を見せた張本人が祥子であるかのような、恨みがましい目つきと口調だった。
「そ、らが?」
 したんですか? と、最後まで言うことはできなかった。口の中がからからに渇いていた。祥子はコーヒーをゆっくりと唇に持っていく。その時、自分の指先が僅かに震えていることに初めて気がついた。柘植は頷く。顎を撫でさすりつつ忌々しそうに言った。
「後でわかったんだが、桐嶋は一ヶ月近くそこに軟禁状態にされていたらしい。マンションの借り主が有名な国会議員だとすぐにわかって公表はされなかった。圧力がかかったというより、上が怯んだんだ。桐嶋を軟禁してたのは国会議員の浪人中の息子だ。とんでもないスキャンダルだよ」
柘植は悔しそうにがりがりと頭を掻いた。「その部屋に出入りしてたのは、十八歳と十九歳、いずれも未成年の男三人と女ふたり。予備校生だ。顔をかばうようにして震えてた女もその内のひとりだった。本当はもっといたのかも知れないが、把握できたのはそれだけ。桐嶋はそこでいいように玩具にされてたらしい」
 十三歳の少年が男三人と女ふたりの玩具にされるということがどういうことなのか。祥子には想像することさえできなかった。
「一ヶ月も子供が家を空けてたというのにな。桐嶋天の捜索願いは出てなかったんだ」
「あの」
祥子はきゅっと膝の上で拳を握る。「そのふたりは、その、命は……」
柘植は祥子の顔を見て、得心したように頷いた。
「ああ、命に別状はなかった。いま、どんな顔になってるのかも、俺は知らんよ」
「そらは、……そらは被害者なんじゃないですか?」
祥子は自分の声が案外落ち着いていることに安堵する。「どうして、あなたはそらが悪いみたいな言い方をするんですか? そういうのは正当防衛って言うんじゃないんですか?」
「正当防衛とは言えんな」
 即座に否定され、祥子はむっとした。
「やり過ぎだよ。他のヤツがどう言おうと俺はあいつを被害者だとは思えん」
 アイスコーヒーの上部に透明な水が浮かんでいた。柘植はもうかき混ぜることもしない。
「桐嶋はあの日も男ふたりと女ひとりの言うなりになってたんだそうだ」 
──チーズを切ろうと思って出してたナイフを、あのコ、手にしたんです。でも笑ってたから。自分の頬にナイフの刃を当てて笑ってたから。
──「ねえ、顔についた傷ってすごく痛いの、知ってる? 耳とか、鼻とか、脳に近いからかな、すごく痛いの、ねえ知ってる?」って。笑ってたから、冗談なのか、それともそういう趣味があるのかな、ってあたし達そんな風に軽く考えてた。……くんが、「知るか、そんなこと」って笑い飛ばしたら、あのコ、「試してみる?」って、そう言っていきなりっ。
──笑ってたの。あのコ、笑いながら……。一回で切り落とせなかったら今度は、「何、これ。切れ味わるー」って。
──悪魔よ。あんな綺麗な、天使みたいな顔して、悪魔よ、あのコ。あんな恐ろしい人間見たことない。
「児童相談所で取り調べを受けた桐嶋は、女の言ってる様子とはまるでちがう状態だった。極度のストレスから来る鬱状態で、心神喪失或いは心神耗弱とも言われた。何も覚えていないと繰り返すだけなんだ。……確かに、あんたが今言った通り、桐嶋は完全な被害者だった。だけどな」 柘植の眉間の皺が益々深くなる。
「俺は、忘れられないんだ。あの部屋に入ったときの桐嶋のあの顔が」
「か、お?」
 柘植がまた遠くを見るような目つきになった。
「あれは、あの顔は、……恍惚の表情だ」
──恍惚……。
「あいつはのた打ち回る男たちにこの上ない喜びを見い出してた」
確かに悪魔だよ、そう言ってから祥子に、今度は打って変わった優しい視線を注いだ。「悪いことは言わん。あいつからは早いうちに手を退いたほうがいい」
 手を退く? 天から? 早いうちに、と目の前の男は言った。が、もう手遅れだと祥子は思う。唇を引き結び黙っていた。
「ここまで言ってもわからんのか」
 愚かだな、と柘植が呟く。祥子は首を横に振った。
「そらは、そらは、そんなコじゃない」
「何を……」
「変ですよね。わたしの知ってるそらと、今、あなたから聞かされた話のそらが、同一人物だとはわたしにはとても思えないんです。わたしの知ってるそらは、そんな人間じゃないんです」
 口にしながら、まるで「うちの子に限って」と繰り返す母親みたいだと思った。確かにこんな自分は、柘植から見れば愚かでしかないだろう。
「あんた、悪いが、ちょっとここがおかしいんじゃないのか?」
 柘植は遠慮がなかった。人差し指で自分のこめかみを突つく。愚弄されているというのに祥子は可笑しくて仕方なかった。
「そうかもしれません」
うっすら微笑むと、目の前の男は目を剥いた。
「そらは、怖いくらい真っすぐで、素直で、少なくとも、わたしの知ってる彼は、今あなたが言ったみたいな、そんな悪魔なんかには、全然、……そんな風には全然見えないんです」
柘植の目が異様な光を帯びた。頬が紅潮している。
「バカだな。あんたこそ、何にもわかってない。あいつの母親がどんな死に方をしたか、あんた、知らないんだろう?」
──母親? 祥子の顔から微笑が消えた。眉を寄せる。
「火事で。何年か前に火事で死んだって、聞いてますけど、違うんですか?」
「確かに火事だが」
 柘植が言いよどむ。不意に軽いベル音が聞こえた。携帯電話の着信音だ。柘植は後ろポケットを探ると、ディスプレイに目を遣って軽く舌打ちした。
「ちょっと、失礼」
 そう言って店内から出て行く。
 祥子は柘植の後ろ姿を見送りながら、自分ももうこの場を去りたい衝動に駆られていた。なんだってこんなとこまでのこのこついて来たのだろうか。ばかなことをしてしまった。 泣きたいような思いで唇を噛んでいると、すぐに柘植が頭を下げながら戻ってきた。
「すまんが、事件ですぐ署に出なくちゃいけなくなった」
「そう、ですか」
 祥子は内心ほっとする。これ以上話を聞く気にはなれなかった。
 柘植は、無骨な指先でテーブルの隅に立てられていた紙ナプキンを一枚取ると、ズボンのポケットから取り出した丈の短いボールペンで自分の携帯電話の番号をさっと走らせた。
「何かあったら、相談に乗るから」
 祥子は渡された紙ナプキンを手に戸惑う。柘植は困ったように笑った。
「俺だって何も、誰にでも彼にでも、こんなことをべらべら喋ってるわけじゃない。意地の悪い気持ちで言ったんでもない」
優しい声色だった。「あんた、あいつとつき合ってたら、まともな結婚なんかできなくなるぞ」
 祥子は一瞬きょとんとして、それから苦笑した。柘植が怪訝な表情になる。
「わたし、一度、結婚に失敗してるんですよ」
「え?」
「わたし、バツイチなんです」
 祥子の言葉に柘植が目を丸くした。
「そう、か」
 困惑気味に、ぼりぼりと頭を掻く。暫くその場で逡巡していたが、伝票を取ると真面目な顔で祥子を見遣り、右手の拳を心臓に当てて言った。
「あいつのここには心がない。俺はそう思ってる。だからちょっとでも似たような残忍な事件が起きると、すぐにあいつがからんでるんじゃないかと思ってしまうんだ。その度、あいつを訪ねていくことにしている。あいつの生い立ちには同情するが、人間、やっていいことと悪いことはちゃんと区別しなきゃいかん。あんたは桐嶋を悪いやつじゃないと言うが、じゃあ、なんであいつの周りで事件が絶えないのか、よく考えて、肝に銘じておいたほうがいい」
 そう言って片手を上げると、祥子に背を向け店を足早に出て行った。
 勝手なことばっかり言って。
──天には心がない?
 虫や小動物を簡単に殺すことができると言った天。
 祥子は窓に目を当てた。もう日はとっぷりと暮れている。
 天はいつだって真っすぐだった。母親に置き去りにされた過去を持ちながら暗い闇を抱えながら、けれど、あんな温順で澄んだ心を持った人間はいないと、祥子はずっとそう思っていた。
 祥子の目に映ったのは、真っ暗なガラスに浮かぶ今にも泣き崩れそうな心許ない自分の顔だった。
 ──聞かなければよかった……。
 祥子は自分の軽率な行動を後悔していた。
 

 天はいつまでも眠っていた。日中これだけ眠ってしまったら、夜寝られなくなってしまうんじゃないかと心配になってくる。ベッドの縁に腰掛け、天の髪をそうっと撫でた。幸せそうに、安心しきった顔で熟睡している天。
 確かに、彼の中に悪魔は存在しているのかもしれない。今もひっそりと息を潜め存在をひた隠し、自分の出番はまだかと機会を窺っているのかもしれない。
 それでもいい。
 それでもいいと祥子は思っていた。孤独に震えていた天も、自分の知らない悪魔のような天も、こうして天使のような寝顔を見せる天も、全てを受け入れようと祥子はあの夜心に決めたのだ。愚かだと、あの刑事でなくとも嘲笑するだろう。
──それでも構わない。
 天が自分を必要としてくれる間はずっと傍にいるつもりだった。
「そ、ら」
 祥子は天の耳に唇を寄せて名前を呼んだ。
「そ、ら。起、き、て」
 天の長い睫が微かに震えた。ゆっくりと瞼が開く。うつ伏せの体勢からごろんと仰向けになると、天は束の間天井を見つめた。頬にシーツの皺の跡がくっきりと残っている。
「え……」
 天は困惑しているようだった。今、自分がどういう状況に置かれているのか全くわかっていない顔だ。開かれたカーテンの向こうの明るい空に目を遣った。
「え? あれ? いまって、朝?」
祥子に目を当てると、 「え? もう月曜日? 休み、終わっちゃったの?」
 絶望的な顔でそんなことを訊いてくる。祥子はくすくす笑った。
「そんなわけないでしょ」
 もう一度耳許に唇を持っていくと、意地悪く囁いた。
「そらだけ気持ちよさそうに寝ちゃって、許せない」
 天はまだ、ぼうっとした顔で天井に目を当てている。
「あ。……あー、そうか。思い出した」
 そうか、あの後寝ちゃったんだ、とひとり言みたいに言う。
 祥子の顔を見た。にいっと笑う。揶揄うみたいな笑い方だ。
「何よ」
「祥子さん、すっごく可愛かった」
「ばか」
「ほんとだよ。俺、祥子さんの中でとろけちゃいそうだったもん」
「とっ……」
──何言ってるのよーっ。
 祥子は真っ赤になった。
「し、信じらんないっ。どうしてそういうこと口にするのー?」
 怒った顔で天のこめかみを小突いた。天は笑いながらその手を優しく握る。澄んだ明るい瞳を祥子に向けた。
「夢をね、みたよ」
「……どんな?」
 天は何かを考えている風に、やや間を空けてから口を開いた。
「祥子さんが出てきた」
「あたし?」
「うん」
「何してた?」
「ふたりで教会にいたよ」
「教会?」
「祥子さんと俺が、おっさんの教会でね、一緒に洗礼を受けてるの」
天は指を絡め祥子の手の甲に自分の唇を当てた。「神様って、本当にいるのかな」
 どこか遠い記憶に思いを馳せているような目つきだった。
 祥子は戸惑う。天からそんな質問をされてもどう答えたらいいのかわからない。もし、仮に神がいるのだとしたら、天に与えられた試練はひとりの少年が抱えるにはあまりにも過酷だと、そう思わずにはいられなかった。
 生まれ落ちた場所も、邂逅した出来事も。
 ずっと寄る辺なかった自分の運命を、天自身は自分の中でどう受け止めているのだろうか。
「俺、来週の日曜日、またおっさんのとこに行って来るよ」
「そう」
天はひと月に一度か二度の割合いで、ここから電車で二時間くらいの距離にある教会に行っている。必ずひと月に一度くらいは顔を見せなさいと、そのおっさんとやらに言われているのだそうだ。
「祥子さん?」
天は横になったままの姿勢で祥子の顔を見上げる。
「俺、いいこと思いついた」
「なあに?」
 祥子は微笑んで問いかける。いいこと、という言い方がコドモっぽくて、天らしい。
「祥子さんも、一緒に行かない?」
「え?」
「来週の日曜日、一緒に行こうよ、教会に」
「え」
「デートしようよ、デート」
 ね? と、天は屈託なく言う。
 祥子は天に手を握られたまま、床に視線を移した。どうしようかな、と呟いてみる。これまでふたりで一緒にどこかへ出かけたことなど一度もなかった。天との年の差を気にしている祥子から誘うことはなかったし、天に誘われたこともなかった。
「おっさんもね、祥子さんに会いたがってる」
 祥子は顔を上げた。
「俺、いっつも電話で話してるから。祥子さんのこと」
「やだ……」
 どんな風に話しているのだろうか。自分のような、天よりもずっと年上の女だということを、その教会の牧師は知っているのだろうか。
「やだ、じゃなくて。……行こう?」
 綺麗な形の目が自分を見つめてくる。二重瞼のくっきりとした目。
「そうねえ」
「行く?」
「うーん」
「行こう?」
 天には敵わない、と思う。
「うん。行って、みよう、かな」
「ほんと?」
 祥子は笑いながら頷いた。
「やった」
 がばっと天が布団を跳ねのけ身体を起こした。いきなり祥子に抱きついてきたかと思うと、そのままベッドの上に押し倒される。きゃあ、と祥子は身を竦め悲鳴を上げた。
「や、やだ、やだ、やめてよ、そら」
天は祥子の言葉などまるで無視だ。四肢を絡めて祥子の身体を拘束し、デートだ、祥子さんとデートだ、と無邪気にはしゃいでいる。
「祥子さん、俺、いま、すっごい幸せ」
祥子を包み込む天の身体が小刻みに揺れた。笑っているようだった。
「どうしたの?」
んー? と天は上機嫌な声を出した。
「やっぱ、神様っているのかな、っていま、思ってた」
 祥子は天の胸元で目を見張った。胸がいっぱいになって、何も言えなくなる。
「祥子さんに会えて本当によかった」
「そら……」
「大好きだよ、祥子さん」
 天はコドモみたいに甘えた声でそう言うと、祥子の頭のてっぺんにちゅっ、と音を立てて唇を落とした。祥子だって怖いくらい幸せだと思う。なのに、どうしてこんなに切なくなるのだろうか。泣きたいような気持ちになるのはどうしてなのだろうか。祥子はやるせない気持ちを払いのけるように天の身体にぎゅっと腕を巻きつけた。同じように返してくれる天の腕の感触が心地よかった。

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