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第三章  「ねえ、これって恋だと思う?」  3.
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 昼休み。
 祥子は公園のベンチでサンドイッチを頬張っていた。
 空は薄い水色に澄んでいる。
 ここのとここうやって公園で食事をとることが多くなった。たぶん、梅雨がくるまでそうするだろう。最近の金属部はぴりぴりした雰囲気が浸透し、昼休みといえども窮屈でいづらかった。部の縮小の噂が広がりつつあるからだろうが、それにしても、と思う。
 どうもあのフロアには和みの雰囲気が足りない。そういう人材に欠けているのだ。
──天みたいな人間がひとりくらいいればいいのに。
 仕事中、あの明るさが恋しくてたまらなくなることがある。祥子は天がスーツを身に纏い働いている姿を想像してふき出しそうになってしまった。天にスーツは似合わない。七五三かホストクラブか。せいぜいそんなところにしか見えないだろう。
「……何だか、楽しそうね」
 斜め後ろから声をかけられ祥子は身体をびくりと反応させた。ゆっくりと声のしたほうに顔を向ける。柔らかくパーマのかかった髪に少し白いものが混じるショートカットの女性は、微笑みながら祥子の隣を指差した。
「ちょっと、ここ、いいかしら?」
「鈴木部長」
 祥子は目を丸くしつつも腰を浮かせた。
「ど、どうぞ」
 経理部長の鈴木だった。
「あら、ここ涼しいわねえ」
 祥子の隣に腰を下ろした鈴木は、
「わたしもね、買って来たの。一緒に食べてもいいかしら?」
 サンドイッチがおいしいと評判のパン屋の袋を見せる。白地にオレンジ色の文字で店名が書かれてある紙の袋。実は、祥子の今日のお昼ご飯もそこで買ってきたものだった。
 柔らかな物腰。祥子は知らず微笑み返していた。
「わたしのはね、クロワッサンサンドなのよ。相川さんは?」
「わたしはチキンサンドを。クロワッサンもおいしいですよね」
「あら、でも、そのチキンサンド、すごくおいしそうよ。人の食べてるものってどうしておいしそうに見えるのかしら」
 鈴木は屈託なく笑う。暫くふたりでサンドイッチの話をした。クロワッサンはカレー味ソースとタルタルソースのふた種類の味がある。祥子はどちらかというとカレー味派だ。それほど辛くなくクリーミーでまったりとした舌触りがなんともいえない。
「おいしいけど、これ、ちょっと食べにくいわね」
 鈴木の手元からクロワッサンの表面の生地がぱらぱらと落ちる。齧るごとに具もはみ出してきて、本当に食べづらそうだ。クロワッサンを半分くらい食べたところで膝に敷いたハンカチの上にそれを乗せると、鈴木は紙パックに入った牛乳のストローに口をつけた。
「若い人は、おいしいものを見つけるのが上手ね。わたしくらいなんかになると、もう探して歩く気力がないわ」
 そう言ってから少し声のトーンを落とした。
「この間は、うちの浜蔵がずい分失礼な言い方をしたみたいで、ごめんなさいね」 優しい瞳を向けてくる。けれど媚びのない毅然とした態度で。 「気を悪くしなかった?」
──ああ、やっぱり、その話か……。
 そんなことだろうと、鈴木が顔を見せたときに直感したが、わざわざ祥子と話をする為にここまで来たのかと思うとそれも不思議だった。祥子が最近この公園でひとり昼食をとっていることをどうやって知ったのだろうか。このたおやかなだけに見える女性は、けれど、そういった情報を仕入れるくらいの人脈をちゃんと持っているのだ。同じパン屋でサンドイッチを買ってくるあたり、さすがだと感心せずにはいられなかった。
「浜蔵さん、何かおっしゃってました?」
「相川さんが、あんな気の強い人だとは思わなかったって」
「え」
「浜蔵は、自分に都合のいいことしか言わないの。真鍋がこっそりおしえてくれたわ。あんな言い方されたら相川さんじゃなくても怒るだろうって」
鈴木は可笑しそうに笑っている。「浜蔵が言ってたけど、あなた本当に再婚の予定、あるのかしら?」
「ありません。でももし仮にそうだったとしたら、やっぱり、経理部には引っ張ってもらえないんでしょうか?」
「そんなことはないわよ」
 言下に否定されて祥子は驚いた。浜蔵の言い分と違うではないか。
「企業をなんだと思ってるの?」
 苦笑いする鈴木に祥子は唖然とする。祥子の表情を読んだ鈴木が得心したように頷いた。
「浜蔵の言ったことは気にしないで。でも、再婚と同時に会社を辞められたりしたら、それはそれで困るのよ。うちの部に来るんだったら定年まで働く覚悟でいてもらわないと」
──定年……。
 気の遠くなるような話だが、離婚したときから祥子だってそのつもりでいた。
「経理部に初の女性部長が誕生したとき、マスコミにものすごくもてはやされたのよ、うちの会社。男女雇用機会均等法の見本みたいに言われたし、部長は部長で、申し子みたいに扱われたの。もう、二十年近く前になるのかしら……」
 鈴木の前任の経理部長は、新聞や女性誌、テレビのニュース番組などからも取材を受け、A商事がいかに先進した会社であるかを宣伝する役目を担ったらしい。
「女性経理部長はなくならないわ。あれほど世の中にアピールしたのに、いまさら手を退けないでしょう? その立場を逆手にとって経理部が好き勝手してるように他の部の人間は思ってるかもしれないけど。優秀であるのに、女性というだけで簡単に会社からクビを切られそうな人材を、できる限り経理部で引き受けようと、わたしはそう決めてるの。これは前任の部長とも約束してるし、わたし自身の意志でもあるのよ」
鈴木は祥子のほうを見て言った。「電算室のイメージが暗いから、嫌かしら? 今まで営業にいたあなたには物足りない?」
 祥子は首を横に振った。
「相川さんの仕事振りは評判がいいのよ。真面目だし、あなた、とても賢いもの」
 賢い。
 ずい分ストレートな褒め言葉だ。褒められることに慣れていない祥子は、何も言葉を返すことができなかった。じっと斜め下の地面を見つめる。
「相川さん、守りたいものって、ある?」
「え?」
「守りたいものじゃなくても、捨てられないものとかうしないたくないもの」
 祥子は言葉の意味が咄嗟に理解できなくて返答に困った。鈴木は微笑む。
「わたしもね、相川さんと一緒。離婚歴があるの。息子がひとりいるわ」
 知らなかった。視線を当てた鈴木の顔は母親のそれになっていた。きっと、今、彼女の脳裏にはその息子の顔が浮かんでいるに違いない。寛容な、母性を感じさせる笑みが滲んでいた。
「来年、大学受験なのよ。これからもう暫くはお金がかかる。その為にもわたしが頑張らないと、っていつもそういう気持ちでいるの」
「部長の守りたいものは息子さん、なんですか?」
 祥子の問いに、鈴木は少し考える仕草を見せた。
「そうねえ。っていうより、息子を守ってる自分かも知れないわね」
「自分……」
「ええ。今の自分の立場をうしないたくないのかもしれないわ。あら? 息子より自分のほうが大事なのかしらね。そう思うと、わたしも案外傲慢だわ」
 いたずらっぽく笑った。目尻の皺は深いけれど、笑った顔ははっとするくらいチャーミングだ。愛しいものを語るとき、人はみんなこんな表情になるのかもしれない。
──守りたいもの。
 天の顔を思い出す。祥子との暮らしをこの上なく幸福だと言った天の顔。 祥子が守りたいもの。それは天だろうか。それとも天と共に過ごすあの時間だろうか。どちらにしても、今の生活を祥子だってうしないたくはなかった。
「鈴木部長」
 祥子は、前方ではしゃいだり泣き喚いたりする子供達から鈴木に視線を移し、訊いた。
「いつまでにお返事すればよろしいですか?」
 母親達はこれから昼食の仕度をするのだろうか、砂場に放ってあった玩具をのんびりした仕草で片づけ始めた。知世も毎日あんな時間を過ごしているのかもしれない。祥子とそれ程年齢の違わない母親達の姿に、ここ最近連絡をとっていない友人の顔をふと思い出していた。
「早いほうがいいわね。でも、相川さんのほうが時間がほしいというのであれば、急がないわ。秋、……九月くらいまでにもらえるかしら?」
「そんなに遅くてもいいんですか?」
「相川さん、おつき合いしてる人、いるんでしょう? あなた、本当に綺麗になったもの。びっくりするくらい。浜蔵はきっとそんなあなたの変わりように動揺したのね。同じ女としてちょっと悔しかったのかもしれない」
鈴木は揶揄するような笑みを浮かべて祥子の顔を見る。「どう? 当たってるでしょう?」
 祥子は言葉をうしなって視線をさまよわせた。頬が熱い。
「その方とよく相談なさい。仕事、続けてもいいかどうか。きちんと話し合ったほうがいいわ。わたしはそれで失敗したから」
 舌を出して笑ってから、膝の上のクロワッサンサンドにもう一度手を伸ばした。
「結構お腹にくるわね、これ」
 鈴木はサンドイッチを見ながら当惑気味に言った。
 祥子はペットボトルの蓋を取り、緑茶をそっと口に含んだ。やや苦い味が乾いた喉にちょう度よかった。


 教会へは、泊りがけで行くことになった。
「二時間もかかるんだから、前の日から行っちゃおうか? そのほうがゆっくりできるし」
 そう言い出したのは祥子のほうだ。宿泊先は祥子が手配した。それほど大きくないビジネスホテルのツインの部屋だ。土曜日の夕方、天が仕事を終えてから発つことにした。
 神足から電話があったのはその前日の金曜日のことだ。
『今日、何も予定がなければ食事に行かない?』
 時計の針は六時を指していた。祥子は微かに困惑する。
「今から、ですか?」
『実は今、車でA商事の近くに来てるんだ。どう? これから何か予定ある?』
 今日の食事当番は祥子だ。天の携帯に電話を入れて、食事が作れなくなったことを説明すればそれで済む。でも、と思う。
「神足さん、すみません。今日は、その、……友人がうちに食事に来ることになってるんです。だから、すぐに帰って仕度をしないといけないんです」
 まさか一緒に暮らしているとは言えなかった。携帯電話の向こう側が一瞬だけ静かになった。
『友人って、例のカレ?』
「そう、です」
 暫くの沈黙の後、神足が笑った。
『そうか。じゃ、仕方ないね』
 もう、電話をかけてきてほしくなかった。こんな風に神足に誘われれば、断る自信が祥子にはないのだ。はっきりと言わなければ、と思うのに口に出せない。神足と一緒にいる時間を厭わしく思ったことは一度もない。だからといって自分には天がいるのに、これ以上会うわけにもいかない。友人としてなら食事くらい構わない、と思う。でも、神足の祥子へ向けられる気持ちは友情の域をおそらくは超えている。なぜ自分なのだろうかという疑問はあるが、そう感じる。
『もう仕事は終わった?』
「あ。はい」
『じゃあ、家まで送っていってあげるよ。ビルの前で待ってるから、降りておいで』
「え、そんな、いいです、電車で帰ります」
『もう、着いてるから。待ってる』
 相変わらず強引な神足はさっさと電話を切ってしまった。
──信じられない。
 祥子は思わず携帯電話を見つめた。そこに神足がいるわけでもないのに。


 神足の車は濃紺のセダン。国産車だった。たぶん高級車。でも、車の種類までは祥子にはわからない。フロントのエンブレムはトヨタのものだ。助手席に座った途端、隣から香る男性用の香水。神足は乗ってきた祥子にいつもの笑顔を見せる。アイボリーの内装。中も外も、掃除の行き届いた車だった。エアコンがよくきいている。
「カレと仲直りしたんだね」
 少し車を走らせてから神足は口を開いた。
「この前は喧嘩してたみたいだから、もしかして僕の入る余地もあるかな、なんて思ってたんだけど。金曜日の夜に食事を食べさせてあげてるんじゃ、ちょっと無理だね」
 自嘲気味に笑っている。
「すみません」
 祥子は反射的に俯いていた。恐縮してしまう。やっぱり車に乗るべきではなかった。
「いや、相川さんは謝らなくていいよ。初めからわかってたんだし。実を言うとちょっと落ち込んでたから、今度は僕のほうが相川さんに慰めてもらおうかな、なんて甘いこと考えてたんだよね」
 落ち込んでた。この前祥子が沈んでいたときには神足に居酒屋につき合ってもらった。
「何か、あったんですか?」
 神足の横顔を見る。無理に笑顔を作っているように見えた。車は片側三車線の道を滑らかに走る。夕方の道路は混んでいたが、神足の運転は乱暴ではなかった。
「明日、娘と会う約束があったんだ。でもさっき妻から、っていうか、元妻から電話があってね」
そこで神足は大きく深呼吸した。「断られちゃったんだ。お父さんとは会いたくないって言ってるから、って」
 先程までの作り物めいた微笑みは消えていた。
「仕方ないんだよね。一緒に暮らすことをやめたのは親の勝手な都合なんだから。会いたくないって言われたら、無理矢理会うなんてできない。でも、どうして会いたくないって言われるのかその理由が全然わからなくてさ。色々想像して、それで落ち込んでる」
 そう言って、神足はそれきり黙り込んでしまった。
 祥子もかける言葉が見つからずに沈黙する。神足の娘は確か八歳くらいだと、モグラが言っていたはず。一緒に暮らしていない父親と会いたくないと口にするにはまだ早いような気もするが、どうなのだろう。最近の子供は早熟だから、そんなものなのだろうか。
「ごめん。こんなこと、相川さんに話すことじゃないね」
「いえ」
「いや、ほんと、ごめん。こんなんじゃ、相川さんの恋愛対象からどんどん外れていくよね。って、何言ってるんだろ」
神足はナビの誘導に従って車を走らせていた。あまりこちらに顔を向けない。横顔を見た限りでは、本当に落ち込んでいるみたいに窺えて祥子は困ってしまった。
「神足さん、しっかり父親の顔になってますね」
「え?」
「男の人にとって、母よりも妻よりも愛人よりも、比較の対象にならないくらい娘が一番愛しいって聞いたことがあるんですけど。いまの神足さん見てるとわかるような気がします」
「え? そうかな」
 やっと神足の顔に笑みが戻ってきた。赤信号で車を止める。サイドブレーキを引いた神足は、それでもまだ前方を見ていた。
「娘だからなのかどうなのかわからないけど、自分の子供は可愛いんだ。それは本当」 苦笑している。
「まいるよね。自分の中にこんな愛情があったのかと思うくらい愛しいんだ。確かに、妻とか恋人に感じる愛情とは全然違う種類の感情だね。当たってるよ、相川さんの言ったこと」
神足の笑った顔を目にして、祥子もやっと心から微笑むことができた。
「虐待のニュースなんかを見ると信じられなくてさ。こういう親もいるのかな、って不思議な感じがするし、ちょっと怒りすら覚えるんだ。それってたぶん、自分が父親になったからだと思う。独身の頃だったら、きっと聞き流してる」
 虐待。
 天の顔を思い出してしまった。背中の傷も。
「神足さん」
 大きな交差点の信号はまだ青にならない。神足も祥子も、横断歩道を横切る人達をぼうっと見つめていた。
「日本に、戸籍のない子供がいるって話、聞いたことあります?」
「ええ?」
 神足が頓狂な声を上げて、祥子のほうを見た。神足の反応があまりにも顕著だったので、祥子は動揺した。変なことを口にしただろうか。
「ごめんなさい、変なこと訊いて。あの、神足さん、出版社で働いてるから知ってるかな、ってちょっと思って」
「何? それ? 巣鴨事件のこと?」
「巣鴨事件?」
「え? 違うの?」
 祥子は言葉がうまく出てこなかった。
「僕が高校生くらいのときだったかな。あったよね。母親に置き去りにされた四人の子供の内のひとりが死んじゃう事件。一番下の妹がお兄さんとその友達に殺されたんだ。確か、その四人には戸籍がなくて、だから学校にも行ってなかったはずだよ。結構、おっきな事件だったと思うんだけど」
 知らない。
 神足が高校生の頃というと、十六、七年くらい前のことになる。天の件とは違うだろう。
「ちょっと前に映画にもなったよ。主役の男のコがカンヌで賞を取ってた」
「ひょっとして、『誰も知らない』、ですか?」
「そう、それ。実際の事件をかなり美化しすぎてるって、僕の周りではあんまり評判良くなかったけど、実話を元にしたフィクションだって、監督は言ってたらしいね」
「そう、なんですか」
 信号が青になる。夜の闇が少しずつ広がって、外は群青色に染まっていた。
「どうしたの?」
「あ、いえ。知り合いの知り合いに、そういう子供を知ってるって人がいたから、ちょっと気になって」
「へえ。そうなの?」
 神足は驚いているようだった。
「あ、でも、それもずい分前の話みたいですよ」
 祥子はデタラメを言った。口にしなければよかったと思った。変な汗を掌にかいている。
 神足は少し何かを考える風に黙っていた。真面目な横顔。整った顔立ちに昔を思い出して胸がときめきそうになる。
「親から愛情をもらえずに育った子供は大きく倫理観が欠如するって話を聞いたことがあるんだ。やっていいことと悪いことの区別がつかないんだって。区別がつかないっていうより、境界線がないっていうか。だから、最近の少年事件のニュースなんかをみてると、これって、大人の問題のツケが全部子供に回ってるんじゃないかと思って不安になるよ」
 倫理観の欠如。
 天の昔の話を思った。柘植という名の刑事から聞いた話。祥子の知らない天の素行。 祥子の胸が痛んだ。やっぱり口にしなければよかったと思った。
「なんてね。偉そうにこんなこと考えてたって、自分が離婚しちゃってるんだから、全然だめだよね」
 祥子は首を横に振った。
「そんなことないと思いますよ」
「え?」
「あたしは、神足さんのお嬢さんは幸せだと思います。こんなに思われてるんだもの、きっと伝わってますよ」
「そう、かな」
 神足は、木目のハンドルを握ったまま照れ臭そうに笑っている。
「父親に愛されてることを充分わかってるから、会いたくない、って口にできるんですよ、きっと。神足さんに甘えてるんです。もし、父親の愛情をちょっとでも疑ってたら、不安になっちゃって、あたしだったら会わずにはいられなくなる。そのうち向こうから会いたいって、必ず、そう言ってきますよ。そんなに心配されなくても、どんと構えてて、それで大丈夫だと思いますよ?」
 神足が祥子のほうに顔を向けた。運転しているというのに、祥子をじっと見つめてくる。
──ちょ、ちょっと……。
「神足さん、前、前。ちゃんと前見てください」
 祥子は慌てて前方を指差す。前を走る車のブレーキランプが赤く光っていた。
「え、あ。やばっ」
 がくん、と車体が揺れた。祥子の身体も神足の身体も前のめりになるほどの急ブレーキ。ぶつかりはしなかったが、顔から血の気が引いた。心臓がばくばく鳴っている。
「ご、ごめん」
 固く締まったシートベルトを緩めてから、祥子はふうっと息を吐いた。
「びっくりした。どうしちゃったんですか、神足さん」
 祥子が見遣ると、神足は前を見たままうん、と静かな声で呟いた。
「なんか、感動しちゃって」
「感動?」
「うん。相川さんの言葉に感動して、いま、痺れてた。ほんとに」
「何言ってるんですか」
 祥子はくすくす笑った。神足の娘は愛されている。本当にそう思ったから口に出したまでのことだ。例え一緒に暮らしていなくても、神足の愛情はちゃんと伝わっているだろう。自分は父親にそういった種類の愛情を注いでもらったことはなかった。ひとつ屋根の下で暮らしていてもそうだった。 天も、父親と母親の愛情をきっと知らない。そんなものがこの世に存在していることすら知らないかもしれない。そう思うとたまらなくなる。胸が押し潰されそうになる。
「相川さんといると、なんていうか、ほんと癒される。実はずっとそう思ってたんだよね」
「癒される?」
「でも、結構強いとこもある」
「あたしが、ですか?」
 神足は前方を見たまま笑っていた。
「賢明だよね」
「ケンメイ?」
 祥子は首を傾げる。
「母性を感じるっていうと、怒られるかな? 相川さん、子供いないのに」
 母性。
「気を悪くしたら、ごめん。でも、本当に、そう思うんだ。相川さんと話してると、ほっとするし安心する。何でだろうね?」
 車は祥子のマンションの近くまで来ていた。なんだか、居たたまれない気持ちになってきた。一緒にいてほっとすると言われても、困るのだ。
「あの、神足さん、もう、この辺で……」
 祥子の言葉に神足は、え? と反応した。それから、ああ、と頷く。
「そうか。カレが来るんだったね。鉢合わせしたらまずいか」
 意地の悪い言い方ではなかったが、やはり胸にぐさりときた。
 ウィンカーが点滅する。車がスピードを落として左側に寄り停まった。
「ありがとうございました」
「いや、こっちこそ。変な話聞かせちゃって、ごめん」
「いいえ。いっぱい褒めてもらえて光栄でした」
 ふざけた調子で言ったのに、神足は笑いを返してこなかった。真面目な顔で祥子を見ていたので、少し戸惑う。赤いボタンを押してシートベルトを外す。かちゃりと金属の軽い音がした。ドアを開けようと左手を伸ばしたところで神足の右手が視界に入ってきた。関節のごつごつした大きな右手だ。天の細くてすうっとした手とは全然違う。 どうしたのだろうかとぼんやりと思った。どうして神足は手を伸ばしてきたのだろうかと。 香水の匂いが近くなった。
──……え?
 左手を握られる。
「こ……」
 驚いて振り返った顔に、神足の影が落ちてきた。唇に湿った感触。 キス、されていた。

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