NEXT

第三章  「ねえ、これって恋だと思う?」  4.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 歩きなれた歩道を小走りでマンションへと向う。
 よく整備されたアスファルトの上、春先に買った白いミュールが左右交互に視界に映る。もう何度も履いてすっかり両足に馴染んだそれが、小気味よくこつこつと鳴らす踵の音。今日は痛いくらい耳に響いていた。顔を上げないで足元ばかり見て突き進んだ。車を降りてからずっとそうやって歩いた。
 マンションのエントランスに入ると六時まで常駐している管理人がまだいたので驚く。五十代くらいの背の低いぽっちゃりした体型の女性だ。目が合ったので頭を下げた。天のことを一度聞かれたことがあった。一緒に暮らし始めて一ヶ月くらい経った頃のことだ。全部で五十世帯近くある住人のことを彼女は殆ど把握している。弟だと答えておいた。年の離れた父親の違う弟だと。見え透いた嘘。けれど、彼女は詳しく追及してはこなかった。それがきっとルールなのだ。管理人はただ黙然と、名簿の中に、桐嶋天の名前を記帳しただけだ。
 郷里には確かに母親の違う弟がいたが、もう少し年が上だ。祥子の結婚式の時にはその弟だけがわざわざ上京してきてくれた。久しぶりに会った弟は、その顔立ちが祥子によく似ていて驚かされた。それ以降は会っていない。
 暗証番号を押してエントランスのドアを開ける。エレベーターは一基だけ。降りてくるエレベーターを待つ間も視線を落としていた。身体が小刻みに震えている。心臓の鼓動がうるさい。 天はもう部屋にいるだろうか。顔を合わせたくない、と思った。


 唇を押しつけられたと悟った時、祥子は大人しくその状況を受け入れていた。抗わなかった。暫くされるがままになっていた。
 舌が入ってきた瞬間、反射的に抵抗していた。が。逆に抱きしめられてしまった。思いがけない強い力で背中をシートに押しつけられ、祥子は目を見開いた。フロントガラスの向こう側には、見慣れた景色がいつもより鮮明に広がっている。
 ──いやっ……。
 肩先を拳で叩いたところでやっと顔が離れた。けれどまだ唇は至近距離にあった。互いの息遣いを感じられるくらい近くに。
 祥子は深呼吸した。ストライプのブラウスの胸が大きく上下する。左上腕を強く握られているのに気がつき、その手を反対側の手でそっと外した。
「相川さん」
 掠れた声で名前を呼ばれる。ひどく艶めいた声だ。
「ひど、い……」
 神足は何も言わない。ともすれば、また唇を近づけてきそうな気配さえあった。
 祥子は身体の向きを変えドアを開いた。開けた途端、むっとするほどの生ぬるい空気が車の中に入り込んできた。
「でも、君は抵抗しなかっただろ?」
 神足の声に祥子は身体の動きを止めた。ゆっくりと振り返る。
「初め、君は抵抗しなかった。……どうして?」
「ごめんなさい」
 神足の眉間に皺が寄る。
「ごめん? どうして謝るの?」
「もう、電話、かけてこないで下さい。二度と神足さんとは会いません」
 手を握られる。祥子はその手を払った。
「こういうのは困るんです」
 神足が落ち着いた声で言った。
「それって、もしかして、相川さんの気持ちが揺れてるからなんじゃないの?」
 祥子はもう一度深く呼吸した。
「ドア、閉めたら?」
 首を横に振る。神足は苦く笑った。
「もう、何もしないよ。エアコンの風逃げるから、閉めて」
 祥子は黙って首をまた横に振った。
「相川さん……」
 困ったような声色。
「あたし」
 思い切って言った。
「……男のコと暮らしてるんです」
「え? 何?」
「ハタチの男のコと、あたし、暮らしてるんです」
 一句一句簡潔に言った。
 神足の周りの空気が止まるのがわかった。
 暫くの沈黙の後、え? と間の抜けた声が隣からした。
「神足さん、わたしがいくつだか知ってますよね?」
 自嘲の笑みを顔に貼りつけて、ゆっくりと神足のほうを見た。神足は呆然としていた。
「わたし、ちっとも真面目じゃない。全然賢明なんかじゃないんです。……知らない間に秤にかけてたみたいです。そのコの存在を大事だと、本当にそう思ってるのに。なのに、そのコとの間に未来とか将来とかそんなこと、一切見えないから、だから、神足さんを受け入れられるなら、そっちのほうが自分にとって得かな、って。そんなこと、知らないうちに考えてた」
下唇を噛んだ。「たぶん、最初から、ずっとそうでした」
 浅はかな真似をした。答えなんかとっくに出ていたのに。
「最低です。神足さんにすごく失礼なことをしました。──ごめんなさい」
 祥子はもう一度頭を下げると、車から外に出た。もう神足は引き止めなかった。
 玄関の扉を開くと、ちょう度天が洗面所から出てきたところだった。風呂上がりらしく、上半身裸で、首に掛けたタオルを濡れた髪の毛に当てごしごしと拭いている。
「おかえり、祥子さん」
 いつも通りの人懐っこい笑顔で迎えてくれる。祥子の行動を露ほども疑っていない顔だ。祥子はまともに目を合わせることもできなくて、早かったのね、とだけ返した。俯くと壁に手を突き、ミュールのストラップを外した。それ程明るくもない廊下の電気が眩しい。顔を見られたくなかった。
「明日も早く帰れそうだよ。土曜日だし。たぶん、四時か五時くらいにはこっちを出られるんじゃないかな」
 楽しそうな声だ。でも、その時の祥子には天が何の話をしているのかぴんとこなかった。
 きょとんと顔を上げる祥子に、天も目が点になる。暫し見つめ合った。
「あ。ああ、明日ね、うん、わかった」
「え。ちょっと、ちょっと、祥子さん。もしかして、忘れてた?」
 天が両手を腰に当ててわざとらしく怒って見せた。
「信じらんないなー」
 ふざけた調子で唇を尖らせたりもしている。
「俺なんかすっごく楽しみにしててさ、今日の夜ももしかしたら寝られないかも、なーんてそんな心配までしてたのに、祥子さんのその反応、ひどくない?」
「まさか。忘れたりしないわよ」
 あはは、と笑い声を上げたが、なんだか乾いている気がしてひやりとなった。芝居染みた自分の声に冷や汗をかいている。バカみたいだ。
「すぐ、ご飯、作るね」
 リビングに入ろうと天の横を抜けた。身体が触れるか触れないかのぎりぎりの位置ですれ違う。心臓が止まりそうだ。そう思いながらドアノブに手をかけた。と、その時。
「祥子、さん?」
 背中から小首を傾げるような天の声。瞬間ぎくり、とした。言わなければ何もわかるはずがないのに。ドアを開こうとした手を止め、笑顔を作って振り返った。
「何? そら」
 頬も声も不自然なくらい引きつっている。だめだ、と思った。胸の中いっぱいに広がってしまった罪悪感のやり場がどこにもない。顔にも態度にも自然、滲み出てしまう。
 天は目を細め、祥子の顔をじっと見る。
「祥子さん、何か、変。っていうか、祥子さん、香水なんかつけてたっけ?」 思わず目を見張る。天が首を傾げた。
「それって、もしかして、ヴェラ・ウォン?」
「え? 何?」
 真っ直ぐ向かってくる濡れた茶色い瞳。全てを見透かされそうな光。束の間ふたりで見つめ合った。ヴェラ・ウォンというのが香水の名前だということに思い至って、祥子は、あ、と小さく声を上げた。
「祥子さん、もしかして誰かと一緒だった?」
 かあ、っと顔が熱くなり、持っていた鞄が重い音を立てて床に落ちた。隠しようのない見事なまでの狼狽えぶり。たかがキスくらいで。自分の生真面目さがつくづく嫌になる。ごまかせない。自分にはごまかすことなんかできない。なのにどうしてあんなバカな真似をしてしまったのだろう。 天の裸の足がぺたぺたと音を立てて近寄ってくるのが見えた。長い指。白い爪。 息が苦しい。
 天は腰を曲げバッグを拾い上げると、はい、と抑揚のない声でそれを祥子に渡した。祥子とは反対に、こちらはずい分と落ち着いた態度に見受けられた。
 動けない祥子を見守るように天もその場に立ち尽くしていた。もしかしたら祥子が何か言い訳するのを待っていたのかもしれないと、これは後になって思ったことだ。
「祥子さ……」
 天の声にかぶさるように携帯電話の音が鳴り響いた。祥子の鞄からだった。ふたりで鞄に視線を当てる。 鳴り止まない電話の音。 ややあって、祥子はゆっくりと天の顔を見上げた。何か言ってほしい。いつもみたいに平然と、屈託なく笑ってほしい。自分勝手だとは思いつつそう願って、縋るように視線を当てた。
 天の茶色い瞳の向こうに広がる闇。全身が一瞬にして冷たくなった。
 祥子の表情がよほど妙だったのか、天は困ったように笑った。
「出たら? 電話」
 祥子は悲しい気持ちで頷き、携帯電話を取り出した。
 電話は神足からだった。姿を消した天のいるリビングのほうを見つめながら電話に出る。飾り窓の嵌め込まれた木目のドア。中の様子は窺えない。
「もしもし」
『よかった。出てくれた』
 安心したような声色。こちらは大変なことになっているというのに、何を呑気な、と腹立たしくなる。
『実は、いま、すごく後悔してるんだ』
──後悔?
『あのまま帰さなければよかったって、そう思ってる』
 祥子は言葉をうしなう。何を言っているのだろうかと思う。あれほどはっきりと言ったのに。結局神足ではだめだったのだ。電話だって、もうかけないでくれと言ったはずだ。こんなタイミングでかけてくるなんて信じられなかった。無神経にもほどがある。
「神足さんって、案外ずるい、ですよね」
『え?』
「さっきだって」
 祥子は息を吸い込むと一気に言った。
「さっきだってマンションの近くであんなことしたり、今だって、カレがいるってわかってて電話してきたり。もうかけないでってあれ程はっきり言ったのに。どうしてそういうことするんですか? あたしとカレの仲が悪くなればいいって、もしかして、そう思ってるんですか? だからこんなことするんですか?」
 感情的になっていると思われたくなかったので、緩やかに言ったつもりだった。それでもずい分高ぶった言い方になってしまった。声も大きくなっていた。たぶん、天に聞かれている。祥子の剣幕にびっくりしたのか神足からの言下の返答はなかった。機械的な雑音が聞こえてくるだけだ。
 やがて神足がはっきりとした口調で言った。
『思ってるよ』
「は?」
『別れればいいって思ってるよ。少しでも相川さんがこっちを向いてくれる可能性があるんだったら、邪魔だってするさ』
「どうして?」
震える唇で言った。「どうして、あたしなんですか? 他に……。神足さんだったら他にいい人、たくさんいるでしょう?」
『僕だってわからないよ。どうしてか、なんて』
やや憮然とした口調だった。『でも、そうなんだ。会うたび、好きになってる気がする』
「嘘」
『嘘じゃない。本気なんだ。だから一緒に暮らしてる人がいるって聞いてもまだこんな風に電話してるんじゃないか。こんなにしつこくして、みっともないって自分でもわかってるよ』
 祥子の胸が苦しくなる。神足の強引さに引き込まれてしまいそうな自分がいて怖い。このまま神足の側へ流れたほうが楽だと、そう説得するもうひとりの自分がいる。
「あたしが、いけなかったんですね。あたしが神足さんに期待させるような真似をしたから」
『いや、そうじゃない
「ダメ、です」
『だめ?』
「はっきり言います。迷惑なんです。ほんとに。もう電話かけてこないでください」
 言うなりボタンを押して電話を切った。一緒に電源も落としてしまう。 心臓の鼓動が早かった。それが落ち着くのを待ってから、緩慢な動作でリビングの扉を開けた。
 天はソファに座ってテレビを見ていた。先程と同じく裸の首にタオルを掛けたまま、片膝を立てた格好で、ただ漫然とテレビの画面に視線を当てている。祥子が部屋にはいってきたことをわかっているはずなのに、見ようともしない。祥子の胸に漠とした不安が広がる。
「そら?」
「うん」
 返事はしたが、表情は硬かった。祥子はダイニングテーブルの傍まで歩み寄って、斜め後ろから声をかけた。半乾きのまとまりのない茶色い髪の毛。白いタオル。骨ばった肉の薄い肩。
「そら、あのね」
 祥子は頬に張りつく髪の毛を耳にかけ、ゆっくりと言った。落ち着け、と自分に言いきかせながら。
「前に、一緒に食事に行くっていってた人がいるでしょ? あの人が今日、車で会社まで迎えに来てくれたの。近くまで来たからって。それで、その人の車で、ここまで送ってもらったの」
 だから、移り香はその所為だと、車内にふたりきりでいたからだと、祥子はそう伝えたかったのに。聞こえていないはずがなかった。なのに、天は表情を変えないばかりか、口も開かなければ、顔も向けてこない。テレビ番組はどうでもいいようなバラエティをやっている。横柄な態度のカリスマ占い師が何か偉そうに喋っている。天がこんな番組を真剣に見ているとは思えなかった。
「ねえ、そら。聞いてる?」 「うん。聞いてるよ」
「返事くらい、してよ」
「うん。でも、別に、いいよ。そんな言い訳なんかしなくてもさ」
「言い訳って」
 思わず眉を顰めた。あんまりな言い草だ。
「俺、別に祥子さんが他の男の人と会うのを止めたりはしないよ。俺、こんなだから。そんなこと言う権利、ないし」
──こんなだから?
 こんなってどんなんだ。
「権利、とか、言わないでよ」
 天は、また、うん、と小さく言っただけで、やはり祥子のほうを見ようとはしなかった。
 別にいいと言っている割りにはずい分な態度ではないか。そんな卑屈な態度は天には似合わない。歯噛みするような思いで整った横顔を見つめる。感情の機微を読み取ることはできない。
「ご飯、作るね」
 祥子はもうこの話はお終いとばかりに声の調子を変えて明るく言い置くと、台所に立とうとした。天が相手をしてくれないのだからこれ以上言葉を待っても仕方なかった。
 その時。
「え? 何?」
 天が何か言ったような気がして足を止めた。祥子は慌てて聞き返す。天に何か問われれば、正直に答えてもいいと思った。キスしたことも。話してもいいとさえ、思っていた。
「で?」
 で? と天は言った。視線をテレビに当てたまま、人形のような顔でそう言った。
「……で?」
 意味が飲み込めなくて、鸚鵡返しに祥子も呟く。
「で、ってなに?」
「祥子さんはさ」
「うん」
「その人と、もう、寝たの?」
 天は顔色ひとつ変えなかった。世間話でもするみたいにそう訊いた。
 ブラウスの襟から覗く首筋がすうすうしていた。そこから背中までがひんやりと冷たくなった。部屋は冷房をいれてもいいくらい蒸し暑いというのに、だ。
──もう、寝たの?
 どういう意味だろうかと暫し考えた。
「何? 何、言ってるの?」
よくわからないままに笑っていた。笑いながら怒っていた。天はまだ視線の置き場所を変えない。祥子に横顔を見せたままだ。別に、寝たっていいけどね。そんな顔に見えて祥子は憤然とした。
「ばっかじゃないの」
声が震えていた。「何言ってるの? どうしてそういうこと言うの? どうしてそういう発想になっちゃうの? そんなことするわけないじゃない。あたし、そらと暮らしてるのよ? そらがいるのに。……そういう相手がいたら、普通はそういうことしないのよ。普通は。普通は、誰とでもそんな簡単に寝たりしないもんなのっ。自分がそうだからって、あたし達の最初がそうだったからって、そんなこと、当たり前みたいに口にしたりしないでよっ」
 普通は。
 普通は、と何度も言っていた。祥子はキスしただけで途轍もない大罪を背負ったような気がしていたのに、天は寝たのかと、そんなことを当たり前みたいに口にした。そのギャップ。内に潜む罪悪感と、天への怒りが相俟って、ひどい言い方になってしまった。
 部屋には冷たい空気が充満していた。テレビ画面から漏れる大勢のわざとらしい笑い声や嬌声が、険悪な雰囲気の中、空々しく響いていた。
 天は顔を俯けると、
「うん。そうだね、ごめん」
 そう言って立ち上がった。口許に少しだけ笑みを浮かべている。変なこと言ったね、と。そんな顔に見えた。部屋を出て行く天の姿を目で追いながら、祥子はたまらなく不安な気持ちになる。
「そら」
「俺、今日ご飯いらない。もう、寝るから」
 こちらを見ないままに告げられた。祥子は軽い衝撃を受け、じゃあ、と思わず口に出していた。
「じゃあ、そらは……。そらは、あたしが誰かとそうなっちゃってもいいって構わないって、そう思ってるの? 平気だってことなの? ねえ、そういうことなの?」
 天はドアに額をつけるような格好で立ち止まって言った。
「いいなんて、思ってないよ。でも、そうなっても仕方ないかなって」
 語尾ははっきり聞き取れなかった。仕方ないかなって思ってる。そう言ったようだった。
「何よ、それ」
 祥子は言いようのない腹立たしさに見舞われ、ムキになって言い返していた。
「何よ、それ。もしそんなことになったら、あたし、そらにはここから出て行ってもらうから。他の誰かとそんなことになったのに、そらと暮らすなんて、あたし、そんな器用な真似、絶対できないからね」
 息を呑んだように強張った横顔が、間を空けてうん、と頷いた。
「バカ……」
 聞こえているだろうに、天は反応を見せないままにドアを開けた。祥子は引きとめようと、一旦は伸ばした手を結局下ろした。祥子を自分の視界に入れようとしない天。
──嘘つき。
 もし祥子が他の誰かと寝ても平気だと、本気でそんなことを思っているのなら、その態度はどうなのだと言いたい。祥子に対して天が壁を作ったのは初めてのことだった。天に全身で拒絶されている気がして悲しかった。

NEXT
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

HOME / NOVEL / TSUKINOSAKYUU