NEXT

第三章  「ねえ、これって恋だと思う?」  5.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 寝室のドアをそっと開く。部屋の中には黄色い薄灯かりがともっていた。天が寝ると言って姿を消してから、かれこれ二時間以上経っている。本当に寝入ってしまったのだろうか。足音を忍ばせベッドに近づくと、視線が合った。アーモンド形の目が真っすぐ祥子を見上げてくる。
「起きてたの?」
「眠れない」
 天はにこりともしなかった
 苛立った仕草で髪をぐしゃぐしゃっと掻き分けるとじっと天井の灯りを見つめた。祥子は微笑む。
「お腹空いてるでしょ? 何か作ってあげる。あっちに行こう?」
 言いながら、これじゃあコイビトというよりは母親だな、と内心苦笑する。ふと、母性という言葉が頭に浮かんだ。経理部長の息子を語るときの寛容な顔。それから神足に言われた言葉。
 不意を突くように布団の脇から伸びてきた手に、強い力で手首を捕えられた。
「そら?」
 天は掛け布団を跳ね除けると、祥子を自分の胸の上に引き寄せ、その身体をすぐさま反転させた。あ、と思う間もなく祥子は天に組み敷かれていた。驚いたが、予想していた展開でもあった。
 僅かの時間そのままの姿勢で見つめ合った。影になった天の顔は、よく見えない。ただ濡れた瞳だけが何かを訴えるように祥子を見下ろしていた。切なく揺れる瞳。祥子はその頬に掌を這わすと、ゆっくり瞼を閉じた。
 唇が額に落ちてきた。柔らかな唇だ。頬と頬が触れ合う。天の匂いがする、と思った。天の皮膚と汗の匂い。祥子の身体の中心が急速に熱を帯びる。這わせていた掌を天の頭に回した。毎日のようにしていることなのに、天の腕の中にいるのだとそう意識するだけで、ほっとするような幸せと、心臓が壊れてしまいそうな程の高揚とを、同時に感じていた。
 なのに。
 唇を塞がれ舌が忍び込んできた瞬間、粟立った。閉じていた瞼を開け、天から顔を背けた。
「い、やっ……」
 嫌だ、と思った。夕刻の出来事を思い出していた。神足の舌を受け入れたときのぬるりとした慣れない感触。何だか、今日天を受け入れるのは最低な行為のように思えた。天の肩に手を当て、思い切り強く押し遣った。
「……何で?」
「ごめんなさい、そら」
「どうしたの?」
 祥子は笑いを作って身体を起こそうとした。天の顔をまともに見ることは、できない。
「今日は、ダメ。なんか、そんな気になれない。ちょっと具合悪くって。ごめんね?」
「具合悪い?」
 頬に強い視線を感じた。
「嘘だ」
 言うやいなやぐっと両肩を押さえ込まれた。
「そら?」
 何が起こったのか一瞬わからなかった。再び視界に天の顔と天井の灯りが映った。両手首を頭の上でひとつに纏められ、気づくと身動き取れない状態になっていた。
「ちょっと。やだ、ふざけないで」
 天の片方の手だけで押さえられている祥子の両腕は、ぴくりとも動かせない。冗談だろうと思った。たちの悪い冗談。だが、そうではないことを、天の剣呑な瞳におしえられた。
天の空いている手がこじ開けるように祥子のパジャマのボタンを外した。下着をつけていない胸の膨らみが露になる。
「そら? ちょっと……」
 掌が胸の膨らみをきつく握った。揉むなどという生易しい触れ方ではない。捻られているようだった。祥子は眉根を寄せる。
「い……ったい。痛い。そら、やめて」
 祥子の声に構うことなく天の唇が反対側の胸を強く吸い上げた。身体を仰け反らせるほどの痛みにもう一度祥子は痛い、と声を上げた。これまでこんな風に乱暴に扱われたことは一度だってない。天の愛撫はいつだって優しかった。焦れったいくらいに柔らかだった。
「やめて、そら」
「いやだ」
「そ、らっ」
「いやだ、したい」
 祥子は身を捩ったが、それすらも封じ込められた。細くて華奢な天のどこにこんな力が隠れていたのだろうかと愕然とする。
──怖い……。
 言いようのない恐怖がせり上がってくる。
「いや……」
 胸のてっぺんを執拗に這っていた舌が徐々に上がってきたその時。切りつけられるような鋭い痛みを鎖骨の下に感じた。
──痛いっ。
 祥子は堪えきれず泣き声のような悲鳴を上げていた。痛さよりも恐怖のほうが強かった。その声に怯んだのか、天の力がふっと緩んだ。咄嗟に解放された右手で目の前にある天の頬を強く張った。
「何するのよっ、ばかっ」
 服の前身ごろを片手で締め、急いで身体を起こした。天から逃れるようにさっと距離を取る。
 頬をはたかれたことがショックだったのか、勢いを削がれてしまったのか、一気に天は大人しくなった。両手をシーツの上に突き項垂れている。茶色い髪に覆われた顔が、今、どんな表情をしているのか窺うことはできない。掌がじんと痺れている。
「痛いじゃないのよっ」
 涙が滲む。こんなことで泣きたくなんかなかった。
「どうしてこういうことするの? 無理矢理なんて、どうかしてるんじゃないの?」
「ごめ、ん」
 祥子さん、ごめん、と消え入るような声で言った天はさらに頭を低くした。薄灯かりの下でも、髪の隙間から見える頬が赤くなっているのが、はっきりとわかる。でも、やり過ぎたなどとは思わない。祥子だって怖かったのだ。天は両手を膝の上に乗せると拳を握って正座した。
「俺、変なんだ」
「へ、ん?」
 天はこくりと頷く。白いTシャツとグレイの半パン。そこから覗く腕も膝も骨ばっていて細い。
「祥子さんのことが頭から離れないんだ」
頭から離れない。「いつだって祥子さんのことばっかり考えてる。気がついたらそうなんだ。祥子さんの笑った顔とか、拗ねてる顔とか、俺に抱かれてるときの顔とか、俺の名前を呼ぶ声とか。そんなことばっかり。……気がついたらそんなことばっか思い出してる。仕事中も電車に乗ってるときもそうなんだ。一緒に暮らしててさ、毎日顔合わせてるのに、これって変じゃない?」
 そこで初めて天が顔を上げた。笑っていない真摯な目。祥子は身体を硬くしてその瞳を受け止める。
「祥子さんのことを考えてるときってさ、楽しいけど、苦しいんだ」 「苦しい?」
ここが、と言って、自分のTシャツの胸を掴んだ。「ここが苦しくて仕方ない」
「そら……」
「祥子さん、いま頃会社で何してるんだろうって、俺の知らない男の人と話したりしてんのかな、って思うとさ、苦しくてたまらなくなる」
そこで天は顔を上げ、語気を強めた。「俺、誰と暮らしてても、こんな気持ちになったことないよ。いままでは夜一緒に寝てくれれば、その人がよその人と寝てたって全然構わなかったし、気にもならなかった。出てけって言われても、あ、そう、ふうん、って感じで。また次を探せばいいや、ってそんな風に軽く考えてた」
でもね、と少し声を落とした。
「俺、祥子さんにそんなこと言われたらたぶん耐えられない。頭が変になっちゃう。祥子さんから離れるなんて考えられないんだ。さっきだって。……さっきだって、もしそうなったら出て行ってもらうからって言われて、俺、心臓が止まるかと思った」
 祥子は混乱していた。これはどういうことなのだろうかと考える。でも、と。ついそんな言葉が口を突いて出た。
「でも、そらは、さっき、あたしが他の誰かと寝ても平気だって言ったじゃない」
「平気なわけない」
 強い口調で言い返された。鋭い光を湛えた目が祥子を睨む。
「平気なんて言ってないよ。それとも祥子さんには、さっきの俺がそんな風に見えたの? 本気でそんなこと思ってるの?」
祥子は言葉を返すことができなかった。
「祥子さんをひとり占めしたい」
射抜くような瞳で言われて祥子は顔を赤くした。これはどういうことなんだろうかと、再び思った。この展開を自分なりに整理しようと試みたが頭の中はぐちゃぐちゃに混乱していた。
 天のほうは祥子の混迷ぶりなどお構いなしだ。
「ひとり占めしたいんだ」
 そんなことを繰り返し言う。祥子の心臓は止まりそうに早鐘を打っていた。顔だけでなく、耳まで熱い。何より恥ずかしかった。面映ゆい。
「うん。わかった。わかったから……」
もうそれ以上何も言わないで。
「ねえ、祥子さん」
 膝の上で握っていた天の拳に力が入る。腕の筋肉がきゅっと締まり、その形が薄闇の中、陰影をつけてくっきりと浮かび上がった。
 アーモンド形の目が真っすぐ祥子に向かう。泣きそうに濡れた目だ。
 ねえ。と天はもう一度言った。
 うん。なあに。と、祥子も返す。
 これってさ。
 うん。
──これって、恋だと思う?

NEXT
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

HOME / NOVEL / TSUKINOSAKYUU