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第三章  「ねえ、これって恋だと思う?」  6.
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 祥子は一旦袖を通した、襟ぐりの大きく開いたニットのカットソーを脱ぐと、名残り惜しい気持ちと一緒にそれをベッドの上に放り投げた。今日の為にとわざわざ今週の初め、会社帰りに買った物だったが、鏡の前で散々悩んだ挙げ句あきらめることにした。
 もうっ、と、腰に手を当てクローゼットの前で怒る。
──そらの所為だからね。
 クローゼットの扉に付いた鏡と向かい合う。下着だけを着けた姿で鏡に近寄って行った。鎖骨のすぐ左下の紫色の痣。紫というよりも黒に近い。キスマークとも呼べない色だ。そうか吸う力が強過ぎるとこんな色になるのかと、祥子は変に感心していた。これって二、三日じゃとれないんじゃないの、と不安になる。不安はやがて確信に変わる。溜め息を落とすとハイネックの長袖のTシャツを手に取った。下は天の装いにあわせてジーンズを穿いた。
 それにしても。
 昨日の熱烈な愛の告白には参ってしまった。思い出しても顔が火照る。天に好きだと言われたことは何度もある。だが昨夜のそれは、いつもの軽い好きとは全く意味合いの違う告白だった。
──ねえ、これって恋だと思う?
 暮らし始めてすぐの頃、天は恋を知らないと言った。
──祥子さんをひとり占めしたい。
 あんな綺麗な男のコに、あんな言葉をもらうなんて。この自分が。 信じられなかった。
 祥子は荷物をバックに詰めながら、時計を見る。もうじき天が帰って来る。さっき仕事が終わったことを告げるメールがあった。
 昨日天とは一緒のベッドで寝なかった。
「絶対、いや」
そう言って祥子は拒絶した。「あんなひどいことするなんて許せない。本当に怖かったんだからね。ああいうことする人と一緒には寝られないわよ。和室に布団があるから、今日はそこでひとりで寝てちょうだい」
 天の顔色がみるみる変わった。大告白の後の仕打ちにしてはちょっとひどいだろうかと、祥子も思った。
「いやだ、一緒に寝るっ」
「ダメ。絶対いや」
「もう絶対あんなことしないから」
「そんなの、当ったり前でしょ」
「ごめんなさい、祥子さん」
「そんな顔してもダメよ。罰だもの。今日ひと晩我慢しなさい」
「いやだ」
押し問答を繰り返した挙げ句、寝室の前の廊下に敷いた布団の上で天は寝ることとなった。しかも寝室のドアを開け、廊下の電気も点けた状態で、だ。
 そのはずだった。けれど、どういうわけか朝目覚めたら横に天の寝顔があった。祥子は約束が違うと責めたが、天はいつベッドに入ったのか全く覚えていない、と言った。泣きそうな顔で懸命に無実を訴える天。怒る気も失せて笑ってしまった。
 バッグのファスナーを閉めるとそれをぽん、と軽く叩いてから祥子は立ち上がった。窓の傍に立ち、外の景色を眺める。梅雨の訪れを忘れたみたいな天気がこのところつづいている。
 澄んだ水色の空に切れ切れに浮かぶ雲。白い月が出ていた。


 電車を三回乗り換えた。川を幾本か超えると車窓から見える風景は緑が多くなってきた。ここまで来ると車内は割合空いてきて、祥子と天は長いシートの端っこにふたり並んで座ることができた。
 乗客は制服を着た学生や、若い男女、中年の女性が多く、スーツ姿の会社員は見られない。皆、どこか疲れたような顔をしている。窓の向こうの陽はまだ落ちていない。
「ねえ、おっさんっていう人はどんなひとなの? 何歳くらいの人?」
 祥子の言葉に天は少し考える仕草を見せた。にいっ、と笑う。不敵な笑みだ。
「何よ?」
「おっさんねえ、顔は牧師っていうより、ヤクザよりだから。祥子さん、会ったらびっくりするかもね」
ヤクザより? 一体どんな顔なんだ。
「おっさんは本当に昔、極道だったんだって」
「えっ」
 祥子はつい大きな声を出してしまった。周りの視線を一斉に浴び、慌てて身を竦める。
「本当に?」
「うん。教会に来る人の間では有名な話なんだ。歳はねえ、ちゃんと聞いたことないんだけど、五十代くらいかなあ」
 元極道の牧師。天が一番の信頼を置いている人。おそらくは祥子より。
 じっと靴の先を見つめる。白いスリッポンも今日の為に買ったものだ。その下の緑色の床は灰色に汚れていた。
 今日ふたりで出かけることが決まって一番悩んだのは服装だ。あまりにもふたりが持っている服のイメージが違い過ぎるのが気になっていたから。実際並んでいてバランスはよくないと思う。 天と自分が歩くと、あまりの不自然さに人目を引くのではないかと想像したりもしていたが、そうでもないことを祥子は今日知った。誰も不躾にふたりを見たりはしない。今だってそうだ。車内の誰も皆、ふたりに無関心だ。来る途中すれ違う人々が、男女年齢問わずちらちらと天に視線を送るのを何度か見かけたが、その程度だ。 隣の天が船をこぎ始めた。身体を前後に揺らしては、はっとしたように背筋を伸ばす。
 祥子はくすりと笑った。
「眠いの?」
「うん」
「寝てもいいわよ」
 天はにこっと笑うと身体を低くして祥子に凭れかかった。長くて細い脚が通路に投げ出される。色の褪せたクラッシュジーンズからつづく大きな足。天が頬を祥子の二の腕に擦りつけるような仕草を見せた。通路を挟んで向かいに座った中年の女性がさすがに眉を上げる。
「そら」
「何?」
「そこまでしていいなんて言ってない。恥ずかしいじゃないのよ」
「どうして? 俺は恥ずかしくないよ」
 むしろ見せつけたい。そんなことを言う。祥子は唇を尖らせて赤くなった。
 暫く黙って揺られていた。天は寝たのだろうと思っていたが、思い出したように祥子さん、と小さく名前を呼ばれ隣を見遣る。天が閉じていた瞼を開けたのがわかった。何かを逡巡するように僅かの時間、じっと正面を見据えていたが、やがて口を開いた。
「昨日さ、祥子さんを車で送ってくれた人」
穏やかな声だった。「その人と祥子さん、昨日、何かあった?」
 祥子ははっと身体を硬くした。天はその身を祥子に預けたままだ。
「昨日の祥子さん、普通じゃなかった」
 祥子は顔を俯ける。ないしょ、と小さな声で答えた。天の身体が強張るのを左半身に感じた。祥子の胸に罪悪感が去来する。天は腕を組んで身体を少しだけごそごそさせてから、そっか、と笑った。
「怒った?」
「いや……。こっちこそ変なこと訊いてごめん」
「もう、会わないから」
 静かな声で、けれど決然と言った。
「心配かけちゃったね」
 天は微かに首を横に振り、俺ね、とつづけた。
「みんなが祥子さんを見てる気がするんだ」
「え?」
「こんな風にふたりでどこかに行くの初めてでしょ?」
そうなのだ。これまではずっとマンションの一室の祥子の部屋、あそこだけがふたりの世界の全てだった。
「みんなが祥子さんを見てる気がして隠したくなるよ」
 祥子は首を傾げた。
「何を隠したいの?」
「祥子さんを」
 祥子は天の言わんとすることがイマイチ掴めず考えていたが、把握した途端苦笑した。何をバカな、と思う。
「何言ってるの。あのね、みんな、あたしなんか見てないわ。そらの勘違い。みんなが見てるのはきっとそらよ」
 天は納得がいかない顔をしていたが、やがてぽつりと言った。
「祥子さんをどこかに閉じ込めたい。誰にも触らせたくない」
 温順な口調の中の鋭意な響き。思い通りにできないことに対する憤りすらも含んだ声に祥子は息を呑み、天の足先に目を当てた。背中を何か快感のような痙攣が走った。
 もしそんなことが可能ならいっそそうされたいと願っている自分が確かにいる。 天に幽閉される。
 なんと甘美で芳醇で濃厚な匂いのする淫らな想像だろうか。
 他人の目を憚ることのないふたりだけの世界。そこにはきっと見栄や虚栄や打算は存在しない。祥子は暗い牢獄にいる自分を思い浮かべた。手首と足首に黒く重い枷をはめられた祥子。天の帰りを待ち侘び冷たい石の床に転がる祥子。心はもはや天一色で、他の誰もそこに侵入することはできない。帰宅した天はきっと慈しむように祥子の世話を焼いてくれるだろう。そこで睦み合い、食し、語り、老い、やがて朽ち果てるのだ。誰にも邪魔されることなく。
 祥子は目を閉じ、ひととき甘い空想に耽った。電車は一定の速度で進み揺れる。天は寝入ったようだった。浅いが、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
 祥子はゆっくり瞼を開ける。
 窓の向こうはまだ明るかった。


 チェックインを済ませてから、夕食は近くの鮨屋で取った。
 戻ってきてからシャワーを浴び、備え付けの浴衣を着ると、天が缶ビールを出してくれた。
「明日は朝から日曜学校があるから、教会にはお昼前くらいに行こうよ。で、おっさんに、お昼奢ってもらおう?」
 日曜学校。耳慣れない言葉だ。
「いいのかな?」
「いいの。いいの」
 祥子は天の言葉の端々に、教会の牧師に対する甘えが込められているのを感じていた。妬けないと言えば嘘になるが、天にもちゃんとそういう存在がいることに安堵してもいた。もしその牧師に出会わなければ、天の人生は今よりもっと殺伐としたものになっていたはずだ。
「それにしてもさ」
天はサイドテーブルにビールの缶を置き、ベッドを振り返った。
「どうして別々なの?」
「たまにはいいじゃない」
「やだよ。昨日だって……」
 途中で言い止したのは、目が覚めた時、結局祥子の隣に潜り込んでいた今朝の自分を思い出したからだろう。天はごろりとシーツの上に横になった。
「祥子さん、冷たいな」
 不貞腐れたように言う。
「何言ってんだか」
 祥子は笑いながらビールを口に含んだ。
 あまり深く考えないでこのビジネスホテルを選んだのだが、よくよく考えてみれば、初めてふたりで出かけるのだから、もう少しいいところに泊まってもよかったような気もする。ここの支払いはたぶん割勘だ。天は祥子の分も出すと言い出しそうだったが、収入の少ない天に出させるわけにはいかないと祥子は思っていた。
──こういうとこがやっぱり普通と違うんだよなあ……。
 こういうふたりの関係も悪くないと思いつつ、もっと簡単で普通の関係も楽だとも思う。祥子もベッドに身体を横たえた。横になった途端、長く電車に揺られた疲れがじわじわ押し寄せてくるのを感じた。ゆっくりと息を吐く。
 部屋はしんとしていたが、時折外の喧騒が耳に入る。ここは駅に近いので比較的飲食店が多く人通りも盛んだが、駅を挟んだ向こう側は山ばかりになっていて、さっき歩いた道は緑の匂いに満ちていた。教会へはここからさらにバスで二十分かかる。結構な田舎かもしれないと祥子は想像した。
 閉じた瞼の裏が暗くなり、腰の辺りのマットが軋んだ。目を開くと照明は仄暗く落とされ、天が祥子の身体を跨いで膝を両脇に突いた格好で立っていた。天は真面目な顔で祥子を見下ろしていた。
「そら……」
 天の指先が掠れるように柔らかく祥子の喉元に触れた。そのまま焦れるほど緩慢に浴衣の胸元までを這う。かと思うと、いきなり胸の合わせ目をばっと開けられた。丸い胸の膨らみが呆気なくあらわれる。
 祥子はごくんと唾を飲み込んだ。
 人差し指と中指が鎖骨の左下をそっと撫でた。ちょう度紫の痣ができた辺りだ。 「いた、かった?」
 祥子は天の目を見据えたまま頷いた。うつくしい顔が悲しげに歪む。天は身体を起こしたまま、祥子のはだけた胸を長いこと眺めていた。むせ返るような濃密な空気に祥子は呼吸することさえままならない。
「祥子さん、すっごく、いやらしい」
「そういうこと、言わないで」
 自分の声が泣きそうに震えているのがわかる。
 いきなり覆いかぶさってきた天に抱きしめられた。身体を横向きにさせられる。 天の両手が浴衣の上から身体じゅうを這う。狂おしそうに、何度も何度も強い力で撫でられる。祥子も天に腕を回して力いっぱい抱きついた。
 祥子の鼻先に天の耳があった。耳の裏から放たれる濃厚な天の匂い。祥子の頬も、天の生温かい息を感じていた。互いの息が荒くなっているのがわかる。苦しそうに天が言った。
「祥子さんの身体を目茶苦茶にしたい。俺から離れられないように、したい」
 祥子は回した手に力を込めた。
「そら……」
 身体の中心が痺れたように熱い。耳許で天が何か囁いた。
──いつもと違うことが、したい。
 祥子は意味がわからず、それでも更に強く天にしがみついた。天の唇が祥子の唇を覆い、食べ尽くすように貪られた。部屋に響くのは、衣擦れの音と互いの息、そして舌と舌の絡み合う音。
 やがて唇を解放した天が、また呟いた。
「いつもと違うこと、していい?」
 祥子は返答に窮して、すぐそばにある天の顔を見つめた。思い詰めた表情に祥子は戸惑う。
「な、に?」
 天は瞼を閉じると祥子の身体を再び抱き竦めた。首筋に顔を埋め、くぐもった声で言う。
「フツーじゃないことが、したい」

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