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第一章  「月の砂丘にひとり」  4.
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 祥子は廊下と玄関の灯りのスイッチを押し、振り返ると、通路に佇む少年に先に入るよう促した。
「お邪魔しまあす」
 めずらしそうにきょろきょろ部屋を見回す線の細い後ろ姿を見ながら、そっと鍵とチェーンをかける。かちゃりという金属の触れ合う音を耳にしたときにはもう、祥子はとうに後悔している自分に気がついていた。やはり連れて帰るべきではなかった。
 夜の人通りの多い道を少し離れて歩いている時は案外平気だったのに、狭い空間に閉じ込められた途端、その存在は生々しく窮屈に感じられた。
「ここ開けていい?」
 祥子は頷く。廊下の突き当たりの部屋がリビングダイニングだ。合わせて十五帖程度。祥子も少年につづいて入ると、白い2・5シーターのソファに鞄をそっと置いた。少年はソファの横に突っ立ったまま、まだ落ち着かない様子で視線をさまよわせている。その表情は祥子の気持ちとは裏腹にウキウキしているように見えた。
「へえ。すっごい綺麗。お洒落な部屋だね。ここにひとりで住んでんの?」
 祥子はその言葉に敏感に反応した。そうか。だからうちに泊めてなどと言い出したのか。
「ねえ。君もしかして、今日あの店で、あたしたちの会話盗み聞きしてた?」
 少年はきょとんとした顔で祥子を見ていたが、やや間を空けて首を横に振った。
「盗み聞きなんかじゃないよ。聞こえてきたんだ。お姉さんたち、声大きいんだもん」
──だもん。
 少年の物言いに新たな不安が生まれる。
「君さ、いくつ?」
「え?」
「まさか、高校生とか言わないでしょうね」
「違うよ。たぶん、ハタチ?」
「たぶん?」
 たぶん。たぶんってなんだ。祥子はソファに腰を降ろすと背凭れに身体を預けた。 疲れる。 年齢が違いすぎる所為か、話が噛み合わない。でも、まあ、いい。ひと晩だけ。今日だけだ。明日の朝までの辛抱だ。それに気兼ねなく言いたいことをはっきりと伝えられる雰囲気が少年にはあった。それが救いだ。祥子は立ち上がるとバスルームへと向かった。
 マンションによくあるユニットバス。壁は白いタイル張りで、広くも狭くもないが、窓がないので一日中換気扇を回さなくてはならない。栓を下ろし、壁の給湯スイッチを押した。噴き出し口から出てくるお湯が浴槽の底面に叩きつけられる激しい音が、バスルーム内ににわかに響いた。
 お湯の飛沫をぼんやり見つめながら、先程目にした根津の顔と、ふたりの絡まり合う腕と密着した身体とを思い出していた。明日会社であのふたりと顔を合わせなければならないのかと思うと陰鬱な気持ちになる。自分はどんな顔をすればいいのだろうか。普段と同じように接することができるだろうか。ふたりの間に流れていた密度の濃い官能的な空気は、祥子の中からなかなか消えてくれそうになかった。
リビングに戻ると、少年が電話機を据えてあるチェストの横に立ち、小さな四角い紙を持っているのが目に入る。祥子は、あっ、と声を上げた。手にしているのは祥子の名刺だった。
「やだ、ちょっと、勝手に見ないでよ」
 慌てて駆け寄ると手荒な仕草で取り上げた。自分の名前はともかく会社名までばれてしまった、と焦った。奪った硬い紙が掌の中でくしゃりと潰れる。こんな年下のコを相手に大人気ない態度をとってしまったとすぐに後悔したが仕方がない。
 少年はというと祥子の失礼な所作など全く意に介していない様子で、
「おねえさん、名前、なんていうの?」
 にこにこと問うてきた。
「は?」
 今、名刺を見ていたではないか。
「俺さ、学校あんまり行ってないから、字、読めないんだ。それって、名刺ってやつでしょう? おねえさん、なんて名前なの?」
「ショウコ……」
「ショウコ?」
「アイカワショウコ」
 言ってからはっとした。自ら名乗ってしまうとは。
──ばか、ばかっ。
 少年の屈託ない笑顔に釣られて愚かな真似をしてしまった。
「アイカワショウコ……さん」
 少年はショウコさんかあ、ショウコさんね、と呟くと、祥子の手からやんわりと名刺を取り返した。くしゃくしゃにされてしまった紙をチェストの上に置くと指先で丁寧に伸ばし、ペン立てから抜き取ったボールペンでその小さな紙に何やら字を書き始めた。ボールペンを握っているのは左手だ。俺の名前だよ、と差し出された名刺には『桐嶋天』と記されてあった。小学生のコドモが書くような全体的にバランスの悪い字が、印刷された祥子の名前の横に並んでいる。
「キリシマ……テン?」
「違うよ。そら、って言うんだ」
「ソラ?」
「そう。お空のそら」
 桐嶋天は左手の人差し指で天井を指差した。あまりのコドモっぽい仕草に祥子は思わず相好を崩す。
「そら、か。いい名前ね」
「……そう、かな?」
 天は少し首を傾げながら曖昧に笑った。
「お風呂、入ってね。その間に布団敷いておくから」
 祥子がそう言うと天は微かな戸惑いを顔に走らせた後神妙な表情になり、お世話になります、とバカ丁寧に頭を下げた。


 祥子がバスルームから戻ると天は座っていたソファから立ち上がり、
「救急箱は? どこにあるの?」
 いきなり訊いてきた。白いぶかぶかのTシャツと黒いだぼっとしたハーフパンツをパジャマ代わりに着ている天は、先程よりなおいっそう若々しく見えた。祥子のほうもさすがに普段身につけているパジャマを着るのは憚られたので、天に倣って、同じようなTシャツとハーフパンツといった格好をしている。
「救急箱? どこか怪我したの?」
祥子がリビングの収納棚の扉を開けながら訊ねると、天は、
「俺じゃなくて、祥子さん」
そう答えた。「足、靴擦れしてるんでしょう?」 祥子は塩化ビニール製の半透明の白い箱を手にしたまま自分の足元を見た。さっき、浴槽に浸かった途端、悲鳴を上げてしまった踵の豆の痕。
「ずっと歩き方変だったよ」
「やだ、大丈夫よ」
「だめ。ここに座って」
 天はぽんぽんと二度、ソファの座面を叩いた。
 祥子は少し躊躇ってからしずしずと指定された場所に座った。祥子の膝の上から救急箱を取った天が足元に跪く。祥子は恥ずかしさでいっぱいになった。
「自分でできるのに」
「いいから。やらせてよ」
 天に足を掴まれると、不覚にも胸がどきんと鳴った。
 男の人に傷の手当てをしてもらったことなどかつてあっただろうか。祥子はまだ乾いていない天の頭のてっぺんを見ながら思い出そうとするがままならない。自分の全神経が天の触れる足に集中しているのがわかる。そもそもこういう状況に慣れていないのだ。
 天の襟首から背骨へと繋がるきめ細かい素肌が目に入りますます身体が硬くなった。
──うっわあ……。
 いやだ。これじゃ、なんだか若い女のコに胸ときめかせるおっさんみたいじゃないのよ。心の中で自分に毒づく。
 天は脱脂綿にオキシドールをかけると湿ったそれを祥子の踵骨の上の皮膚にそっと当てた。柔らかくふわふわと何度も触れてくる。くすぐったさに耐え切れず、くすくすと笑いながら、
「もういい。大丈夫よ」
 言うと、天は頷いた。脱脂綿を床の上に置き、絆創膏を手にする。焦れったいくらいの緩慢な動作でそれを肌に当てぺたりと貼りつけた。
「ありがとう」
 祥子は笑いながら言ったが、天は顔を上げなかった。祥子の足先をじっと見つめている。祥子から天の表情は窺えない。天は触れていた右手で祥子の足先を優しく掴むと、親指の腹で祥子の指の甘皮を柔らかく擦った。思いがけない感覚が足先から身体の中心に走る。慌てて引っ込めようとした足首を、天の右手が引っぱった。
「ちょ……」
 天が顔を上げた。
 目を合わせた瞬間、まずい、と思った。幼いと思えていたはずの少年の瞳に妖しい翳りが見えた。
 見なかったことにしようと足を引くが、まるで縫いつけられでもしたかのように天の掌からそれは抜けない。祥子は顔を真っ赤にして懇願した。
「そら、クン。もう、いいから、離し……」
 言い終わらないうちに天の唇が祥子の脛とふくらはぎの間に落ちた。呼吸が止まる。息もできず、目を見開く祥子の脚の内側をふっくらとした感触が這い上がる。唇は膝蓋の内側で止まった。天がもう一度顔を上げる。何もかも見透かしているような瞳で見つめられ祥子は焦る。首を横に振った。
「だめ……」
 何度も首を振り、だめ、絶対だめ、と言った。それなのに身体は固まったままでぴくりとも動かない。逃げ出すことができないのだ。
 天は射竦めるような目で祥子を見ている。いずれ祥子が降参するのをわかっているとでもいう風に。ただ黙って待っている。祥子の声がどんどん小さくなって唇の動きだけになったのを確かめると、天はゆっくりと身体を起こした。唇が重なる。何度も唇だけで触れてくる。肩を優しく押され、ソファに倒された。
 不思議だった。
 乱暴ではないのに抗えない。強いられているわけでもないのに逃げ出せない。ゆるゆると快楽の真綿に包み込まれていく。気がつくと祥子だけが服を脱がされていた。明るい照明の下で。
 未だ上半身すら裸になっていない天の指が祥子の中心から簡単に作り出した大きな快感の膨らみと、祥子は懸命に闘っていた。もう耐えられない、どうしようどうしようと祥子が泣きそうになっていると、耳許で、いいよ、と湿った声が囁いた。
「いっていいよ、祥子さん」
 全身を羞恥が貫く。途端、弦が切れるようにぷちんと何かが弾けた。祥子は目の前の身体にしがみつくと、襲ってくる感覚に堪えきれず、掠れた声を上げて大きく身体を仰け反らせた。
 やがて身体は真っ暗な宙に放り投げられたようにぐにゃりと力をうしなっていく。
 今日初めて会ったばかりの男に、しかも十以上も年下の男に、自分の奥深いところにひっそりと隠してあった官能の住み処を呆気なく探り当てられてしまった。頑丈だったはずの扉は容易く開けられ、溢れ出してしまったそれはまるきり止めどがなかった。
 落ちてくる天の唇を震える身体で受け止める。唇の動きと熱が、まだまだこれで終わりではないのだと告げているようで、祥子は再び泣きたい気持ちになった。

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