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第一章  「月の砂丘にひとり」  5.
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 祥子は高校生になるまで人口六千人程度の瀬戸内の小さな島で育った。
 祥子の生みの母は祥子が五歳のときに亡くなっている。元々心臓の弱い人だったらしい。漁師をしている父親が再婚したのは祥子が小学校二年生の時だ。 あたらしいおかあさんだよ、と紹介された。
 うっすらと記憶にあるふるいおかあさんは、痩せて張りのない皮膚をしていた。口数は少なく声の細い人だった。あたらしいおかあさんは、反対にふっくらと丸い身体で、いつも誰に対してもけらけらと豪快に笑っているような朗らかな人だった。健康的でよく動く。抱きしめられると甘ずっぱい香りと柔らかい脂肪に包まれて、祥子はあたらしいおかあさんをたちまち好きになった。だからと言ってふるいおかあさんを忘れるわけにはいかない、とも思っていた。
 ふるいおかあさんはよく祥子の頬や頭を優しく撫でてくれた。その手はかさかさして祥子の肌は時折悲鳴を上げたけれど、掌からはたくさんの愛情を感じることができた。 その時の祥子は、ふるいおかあさんとあたらしいおかあさん、ふたりともを大好きだった。
 ただ、あたらしいおかあさんとの思い出がいっぱいになってくると、ふるいおかあさんのことをうっかり忘れてしまいそうになることがあって、祥子はそのことが少しだけ怖かった。祥子は時折、与えられたばかりの自室の本棚に図鑑と一緒に立ててある分厚い表紙のアルバムを開いては、ふるいおかあさんの写真に見入った。忘れていないことをそうやって確認した。山陰の砂丘に旅行した際の写真もそのアルバムの中に納められていた。母に抱かれた祥子は、僅か二歳のぷっくりと頬の膨らんだ幼子だった。祥子の夢の中に出てくる砂丘は、だから、実際に行った時のことを覚えているわけではなく、その写真の記憶ということになる。
 やがて、あたらしいおかあさんの、もとより丸かったお腹が更に膨らんできていることに祥子は気がついた。赤ちゃんがいるのよ、と膨張した風船のように丸いお腹を撫でながらあたらしいおかあさんは言った。自分の腹部を撫でるあたらしいおかあさんの掌が「いとしい」と囁いていた。目には慈しみの光が宿っていた。
 大変なことになった、と祥子は思った。そして気がついてしまった。このひとはふるいおかあさんとは全く異質のものなのだと。はっきりと悟った。同時に、自分がそう感じていることを気取られてはいけないと直感した。気づかれたら取り返しのつかないことになる。
 ぼんやりと頭を擡げていた危機感は、あたらしいおかあさんがふにゃりと柔らかい、泣いてばかりいる小さな生き物を、自分達の家に連れて帰って来たその日からはっきりと形を成し、やがて肥大していった。
 祥子は懸命に年の離れた弟の世話と、慣れない育児に振り回されている母親の手伝いに勤しんだ。そして誰もいない自室でこっそりとふるいおかあさんと一緒に写ったアルバムを開く。そうやって心の均衡を保っていたのだと、後になって思う。
 ある日、学校から帰宅すると、父親が庭先で何かを燃やしていた。無骨で無口で激しやすい父親。父親のことを思い出すたび連想するのは、魚の生臭い匂いと、陽と酒にやけた真っ赤な顔だ。よくあんな男のところに、若くて可愛らしい義母のような女が嫁いできてくれたものだと、子供の頃は無論そんなことは考えなかったが、大人になった今祥子は不思議に思う。
「ただいま。おとうさん」
 ランドセルを背負ったまま近寄ってきた娘には目もくれないで、父は、灰色の煙を上らせる火の中に猛々しい形相で分厚い紙を放り投げていった。透明な薄い膜に包まれた白い厚紙。放り込む度火の粉が舞った。それが何であるかを知った瞬間、祥子は大きく息を吸って声をうしなった。喉がひゅうっ、と鳴った。胸が煙の匂いに押し潰されそうになる。
 アルバムだ。
 祥子の部屋の本棚に、図鑑と一緒に並べてあったアルバム。ふるいおかあさんと祥子の居場所。
「こんな物があるからいけないんだ」
 父は祥子にはやはり一瞥もくれず、低く震える声で言った。
「こんな物があるからお前はいつまで経ってもおかあさんに馴染まないんだ」  祥子は目を丸くして父親を見た。何を言われているのかわからなかった。
 おとうさん、やめてっ。そう叫びたかったができない。もしそれを口にしたなら、父親がどんな風に激昂するか知っていたから。おとうさんは、おかあさんのこと、もうわすれちゃったの? あたらしいおかあさんがきたから、もういらないの? 自分のいない間にこの家で何が起こったというのか。父と義母の間でどんな会話が交わされたというのか。自分の一体何が父と義母の気に障ってここまでされているのか。自分は懸命に頑張ってきたつもりでいたのに。
 おとうさん、あたし、あれがせいいっぱい。ねえ、おとうさん、あれが、あたしのいっしょうけんめいのぜんぶだよ。
 祥子は何度も背中を大きく蠕動させて嗚咽を堪えた。
 アルバム以外には何を燃やしていたのだろうか、火柱が大きく上がり、風向きが変わって煙が目に沁みた。火の周りの気温は思っているよりずっと高く、気がつくと額と鼻の頭に玉のような汗が浮いていた。
 ふるいおかあさんの思い出が全て橙色の炎と黒い煙に包まれたのを見届けてから、祥子はのろのろと家に入った。あたらしいおかあさんは薄暗い台所の椅子に座って弟に母乳をあげていた。その肉厚の背中を視界の端に留めてから祥子は自室への階段を上がった。
 ひとりになった途端涙が溢れた。畳の上に正座をしたまま身体を折って団子虫のように丸まって泣いた。
──おかあさん。おかあさん。
 どんなに泣いてもおかあさんは帰って来ない。写真が無くなってしまった今、顔さえも思い出せそうになかった。そうしてそのまま眠りに落ちた。
 夜になって目を覚ました祥子は、畳の上ではなく、きちんと敷かれた布団の中に身体を横たえていた。開いたばかりの瞳に、窓の向こうの大きな丸い満月が映った。吸い込まれそうなほどの眩い光に包まれた月。夜なのに、そこに闇はなく、祥子の部屋は澱や濁りのない澄んだ空気と青白い光とに満たされていた。祥子は青い月下の深層で、光の源をただじっと瞬きもせず見つめつづけた。
 あの夜の孤独と索漠。 祥子がいるのはきっとあのとき見た月の砂丘だ。そんな風に祥子は今も考える。
 高校は本土の私立の女子高に行った。その時に家を出た。義母は父との間に三人子供をもうけていた。その父も祥子が就職してすぐに亡くなった。漁に出る途中、歩道の上に倒れて、そのまま一度も目を覚ますことなく一週間後に息を引き取った。
 島には父の葬式以来もう何年も帰っていない。


 時計のベルが鳴る前に目覚めたのなんていつぶりくらいだろうか。茫然と白い天井を見つめながら祥子は考える。カーテンの向こうは薄明るくなっていた。壁に掛かっている時計を見る。六時前。祥子は先程から微かに寝息の聞こえてくる右隣に思い切って視線を移してみた。金髪に近い茶色い髪で視界がいっぱいになる。うつ伏せになった細い身体は昨日と同じだぼっとしたTシャツを着ている。布団を捲ってみるときちんと下着も履いていた。
 一気に顔が熱を持つ。自分のほうは裸のままだ。服を着るどころか、寝入ったことすら覚えていない。あれほど普段は苦労しているというのに、容易に眠りの入り口に引きずり込まれてしまった。
 肌が汗でべとついていた。シャワーを浴びたい。ベッドから抜け、立ち上がろうとすると、かくん、と膝が折れた。腿の内側の肉がぷるぷると震えていた。やにわに昨夜ふたりが繰り広げた姿態が脳裏に甦り、祥子はひとり真っ赤になった。あれから祥子は天の下で三度崩れた。その都度、掠れた小さな悲鳴のような声を上げた。相手は好きでもなんでもない、昨日会ったばかりの見知らぬ男だ。何てことをしてしまったのだろう。
 過ち。間違い。
 ベッドの脚元には白いティッシュの包みがふたつ。誰に見られているわけでもないのにたちまち顔が熱を持った。祥子はさっとそれを手に取ると素っ裸のままキッチンに走った。リビングのソファの下にはぐちゃぐちゃになった自分の衣服。それを遣り過ごしてキッチンに立つ。籐籠に入れてあるビニール袋を一枚取り出し、手にしていた白い塊をそれに入れ、口をきゅっと縛ると蓋つきのダストボックスに乱暴に投げ込んだ。 忌々しかった。
 あの後、ベッドに行こうよ、と囁くように誘われた。天は細い腕で軽々と祥子を抱え上げると、寝室へと運んだ。そうして、だぼだぼのハーフパンツのポケットから銀色の小さな正方形の包みを取り出したのだ。それを目にした瞬間、頭のてっぺんから足の先まで全身がすうっと冷えていった。
 初めからそのつもりだったのだ。
 騙された。なぜだかそんな風に思った。 けれど自分のほうが先に達してしまった状況で、とてもではないが相手を責めることなどできない。悄然とした気持ちで天を受け入れたのに、けれど再び彼のペースにはまってしまった。
 祥子は熱いシャワーを浴びながら、消そう消そうと思うのに、そうしようとすればするほど鮮やかになっていく昨日の記憶を振り払うように頭をふるふると揺らした。あんな風に快楽だけを求めるような、そしてそれを難なく得られた行為は初めてだった。羞恥も理性も自尊もそこにはなかった。
 がちゃっ、と扉の開く音がして祥子は慌てて振り返る。天が愛らしい天使のような笑顔を、開いたドアの隙間から覗かせていた。左頬にかかる髪の毛が寝癖なのか少し撥ねている。
「おはよう。祥子さん」
 昨日散々醜態を晒したにもかかわらず、祥子は天に向けた背中を丸め、両手で胸の膨らみを隠した。降ってくるシャワーの水滴に目を瞬かせながら自分の肩越しに無意識に笑顔を作った。
「お、おはよ……」
「朝ごはん俺が作るよ。冷蔵庫、勝手に開けちゃってもいい?」
 たった今、浴室のドアは無遠慮に開けたくせにそんなことを言う。祥子はにこにこと作り笑いで頷いた。 扉が閉まるのを見届けてから、祥子は大きく息を吐くと頭を抱え込んでその場にうずくまった。しゃがんだ足元の細長い十センチ程度の排水溝の隙間に、みるみる水が吸い込まれていく。昨日の出来事もこんな風に流せてしまえないものだろうかと考える。昨日の自分は本当にどうかしていた。 祥子はこれまで、セックスで達したことなど一度もなかったのだ。自分はそういうものは得ることのできない体質なのだとずっと思い込んでいた。それで不満を感じたこともなかった。
 昨日の尋常ではない乱れ方。あれを他人に見られてしまったことのほうがはるかに腹立たしい。
 消してしまいたい。流してしまいたい。祥子は思わず泣き出しそうになる。
 それにしてもあの天という男。あんなコドモみたいな顔をしてとんだ食わせ者だ。
 祥子は頭を抱え込んだままもう一度息を吐いた。
 シャワーの熱い温度は頭と身体を覚醒させるには充分で、そして、やはり昨夜の記憶は夢なんかではなく現実の出来事だったのだと、改めて思い知らされた。


 祥子は寝室でサーモンピンクのブイネックセーターに生成りの麻のスーツを着ると、ダイニングに戻った。寝室には未だ濃厚な空気が充満しているような気がして、窓を開け放つと、さっさと部屋を後にした。
 朝食はハムエッグと野菜サラダ。それに昨日コンビニで買った食パン。すでにこんがりとトーストされたそれからは、バターの匂いが濃く立っていた。
「コーヒーでよかったんだよね?」
 天に訊かれぼんやりと頷く。他人に朝食の準備をしてもらうというだけでこれほど幸せな心持ちになるとは。驚きだった。
「祥子さん」
 食べ始めた直後、天が当たり前のように祥子に問うてきた。
「今日、何時に帰って来る?」
 祥子はパンの塊を喉に詰まらせそうになる。咳き込みながら眉間に皺を寄せると、慌ててコーヒーを口に含んだ。
「大丈夫?」
 心配そうに可愛い顔が覗き込んでくるが、騙されてはならないと祥子は自分を戒めた。
「ちょっと、そらクン。何時に帰ってくるの、って、それ、どういう意味?」
「どういう、って、そういう意味。言葉どおりだよ。それに『クン』はいらない。そら、でいいよ」
 祥子は再びマグカップを口に当てた。どういうつもりだろうか。
「君ねえ……」
「え?」
「朝ごはん食べたら君はあたしと一緒にここを出るの。わかる? あたしの帰宅時間をそらクンが知る必要は全くないの」
祥子はつんと顎を上げた。「あたし、ここで君と暮らすつもりなんか全然ないわよ」
 はっきりと言ってやった。箸を手に取り目玉焼きの白身を切り分ける。
 目の前の男はショックを受けたのか、黙り込んでしまった。自分の作った目玉焼きとサラダが他人の口に運ばれる様子をただ見ていたが、再び口を開いた。
「ここで暮らしちゃ、だめ、かな?」
 おずおずと遠慮がちに、上目遣いで訊いてくる。
「だめよ。それに、君、コイビトと暮らしてるんでしょう? コイビトのとこに戻りなさいよ」
「いやだっ」
 急に口調が強くなった。祥子はその語気の荒さに怯む。
「それだけは、絶対にいやだ。もうあそこへは帰らない」
「喧嘩……しただけじゃないの?」
 あまりの語勢の激しさに祥子はうかと優しく問いかけた。
「暴力がひどいんだ」
 暴力。恋人間の暴力という言葉は時折耳にするが、女から男への暴力とはどういうことなのか。
「それにあいつちょっとヘンタイなんだ」「へ……」
「変なことばっかりさせるんだ。二度とあいつとは暮らさないよ」
「そ、そうなんだ」
 暴力。変態行為。朝っぱらからずい分とヘビーな話だ。どんな風なんだろうかと想像しようとしたが無理だった。祥子がいる場所とは全く違う世界の話だ。
 ただ、目の前の天は本当にうつくしい。寝起きの顔に寝癖のある髪がふりかかっていてもうつくしい。白い透明感のある素肌。長い睫。目が合っただけで心臓が跳ねる。
 彼のえもいわれぬうつくしさが、ひとりの人間の心の襞に隠し持っていた、人には言えない嗜好を煽り立てるのかもしれない。祥子は天の顔に見惚れながら薄ぼんやりそんなことを思った。
「いくつなの? そのひと」
「三十五」
「さっ」
 三十五。祥子よりも年上ではないか。そうか天は年上好きなのか。それなら昨日のことも解せないでもない。とろりとしたたる黄身を口に運びながら考える。
「家賃もきちんと払うから。……置いてくれない?」
「だめ」
「食事もちゃんと作るし」
「だめよ」
「お願いします」
 天は膝の上に手を置いて頭を下げた。テーブルに額が当たってしまいそうな勢いだ。
「ひとりで暮らせばいいじゃない」
「無理。ひとりでなんか暮らせない」
天は頭を下げた姿勢のままできっぱりと言った。「寂しくて死んじゃう」
 寂しさだけで人間が死んだりするもんですか。祥子は天の耳に聞こえるような大きな溜め息を、わざと落とした。壁の時計を見上げる。もうそろそろ出かけなくてはいけない時間だ。
「そらクン、悪いんだけど、あたしもう会社に行かなくちゃいけないの」
「うん。いってらっしゃい」
頭だけ上げて笑顔で言う。
──バカ……。
 お芝居か。それとも真性か。
 仕方がない。祥子は腰を上げると、寝室に向かった。澱んだ空気は綺麗に消えていた。窓を閉め鍵をかけながら、ずい分と浅はかな真似をしているな、と自分を嗤う。
 クローゼットを開けると昨日と同じブランド物のバックを取り出した。更に背伸びをすると、上段の棚から小さなポーチも取り出す。中には預金通帳が三冊。それを確認してからバックに入れた。踵を返し、鏡を乗せた鏡台代わりのチェストの抽斗を開ける。その奥の銀色の鍵も手に取った。
 ダイニングに再び戻ると手にしていた合鍵を天に差し出した。天はもう、テーブルの片づけを終え流しに立ち、スポンジを手にしているところだった。使える男だと感心する。元夫は全くそういうことをしない人間だった。
「取り敢えず今日だけこれ渡しておくね。遅くても八時には帰るから。……またそれから話し合いましょう?」
 天は差し出された鍵をぼうっと見つめている。
「君を信用して渡すんだからね」
 小脇に抱えたバッグの中の預金通帳に後ろめたさを覚えつつそう告げた。
 カウンターの上に鍵を置くと、天の顔に安堵の笑みが滲んだ。
「ありがとう。祥子さん」
「帰ってからもう一度話し合うんだからね。くれぐれも勘違いしないでよ」
 天は満面の笑みで頷く。まるで勝利の微笑みだ。祥子は自分のしていることを後悔しそうになる。
「いってらっしゃい。祥子さん」
「……いってきます」
 渋々そう言うと、祥子は玄関に向かった。
 服に合わせて昨日のとは違う靴を選ぶ。履いた瞬間踵に軽い違和感。そうだ。靴擦れしてたんだっけ、と思い出す。天の貼ってくれた絆創膏がクッションになって痛みは殆ど感じられない。
 祥子は玄関のドアを開けると振り返ってもう一度大きな声で、いってきます、と言った。 いってらっしゃい、と即座に返される天の声を聞きながら、祥子はドアを閉め、いつもどおり腕時計で今日乗れる電車の時間を確認しながらエレベーターへ向かった。
 
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