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第一章  「月の砂丘にひとり」  6.
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 コピーされた紙を取る為、後ろに一歩下がり腰を屈めた。左踵に重心をかけると軽い違和感。排出された紙の熱を指先に感じながら腕時計に目を遣る。桐嶋天はまだ祥子の部屋にいるだろうか。ひとりで何をしているのだろうか。携帯電話の番号くらい聞いておけばよかった。
──まさか、金目の物と一緒にどろん、なーんてことはないわよね。
 まあ、もしそんなことになっていたとしても仕方がない。鍵を渡して彼を部屋に残したのは自分の意志だ。コピーされた紙を机の上でとんとんと整え、ホッチキスを当てていると、視界の隅に若草色のスーツが映った。悪いねと言いながら根津が祥子の隣に腰を降ろす。今日午後からの会議の資料を十五部コピーしてくれと根津に頼まれたのは始業すぐのことだった。祥子はつい西原の背中に視線を送っていた。
「知ってる?」
 根津が顔を近づけてきた。
 昨日この男はあれから自宅に帰ったのだろうか。目の前にある男の顎や頬の髭は綺麗に剃られていた。そういえば、天の顔はすべすべとして、髭の感触は全くしなかったなと思い返す。
「金属部、一課と二課が統合するらしいよ」
「え」
 思わず目を見開いて根津の顔を見た。
「本当ですか?」
 根津は唇を結んで頷いた。ノンフレームの眼鏡の奥の瞳に祥子が映っている。
「いつ?」
「さあ。でも近いうちなんじゃないの?」
 自分から話をふっておいて素っ気無い。怒っているような口調だ。
「かなり人員も削減するらしいよ」
 祥子はごくりと唾を飲み込んだ。根津はふっ、と鼻で笑うと、はずれくじだよなあ、と呟いた。
「はずれくじ……」
「こっちはさ、何も好きこのんで金属部に配属されたわけじゃないっていうのに」
 皮肉っぽく笑うと根津は立ち上がった。祥子は出来上がった資料を渡す。
「ありがとう」
 資料を持った右手を軽く上げ去っていく根津から、いけないと思いつつ祥子はまた視線を西原に移してしまった。目が合った。祥子は驚き、急いで自分の手許に視線を落とした。
 出がけに天に言ったとおり、マンションに着いたのは八時に後少しという時間だった。祥子は歩きながら白い十四階建ての建物を見上げた。陽はすっかり落ち、それぞれの部屋には灯りが点っている。
 このマンションを購入する際、夫の実家からは当然のように資金の援助があった。相当な額だったが、返済しなくていい、と言われた。夫の実家は田舎ではあったが、かなりの資産を持っているらしく、夫もそれを抵抗なく受け取った。残金の半分を自分達の貯金から出し、残りはローンを組んだ。離婚する時、夫はこのマンションを祥子にくれるとあっさり言った。そうまでしても新しい女と人生を遣り直したいのだと、そう言ったのだ。
 祥子は絶望した。
 自分は途方もなく価値のない女なのだと烙印を押された気がした。あの時の失意。ぽっかり抜けてしまった心の空洞は今も埋まってはいない。
 祥子は部屋の鍵を開けながら、中から漂ってくる醤油の香ばしい匂いにはっとした。天はまだ部屋にいるのだ。
「ただいま」
 自分の部屋だというのに、祥子は中の様子を窺うように小さな声でそう言った。リビングダイニングの扉が開き天が満面の笑みで、おかえり、と迎えてくれた。祥子が帰って来るのを待ち侘びていたような顔だ。温かな夕餉の匂いと、柔和な笑顔。胸にじんわりと広がる思いに祥子は戸惑う。
「何? 晩ご飯、作ってくれたの?」
「うん。だって、一日中暇だったから」
 そう、と返しながら、天と目を合わせないようにしてダイニングに向かう。食卓には綺麗に盛られたふたり分の食事が、向かい合わせに並んでいた。
「冷蔵庫にあったもので作ったんだよ。祥子さんって、ちゃんと自炊してるんだね。すごいね」
 祥子は不貞腐れたように眉間に皺を寄せた。
「着替えてくる」
 冷たく言うと、自分の傍にぴたりと寄り添う天には目を向けないまま部屋を出ようとした。その間際に、電話の上のコルクボードに貼られた小さな紙が目についた。あっ、と小さく声を上げそうになって、祥子は右手の人差し指と中指を唇に当てた。昨日の皺くちゃにされた名刺だった。印刷された祥子の名前と、ボールペンで書かれた乱雑な文字の天の名前。ふたつの並んだ名前が木目の画鋲でコルクボードのちょう度真ん中辺りに留められてあった。
 祥子は慌てて目を逸らすと、乱暴にドアを開け、逃げるようにそこから飛び出していた。 食卓についてからも祥子はずっと不機嫌な顔で箸を運んでいた。
 向き合って座る天がちらちらと視線を送ってくるが、祥子は天と目を合わせることも、その顔を崩すことも、どうすることもできなかった。
「祥子さん、何か怒ってるの?」
「別に」
「勝手にこんなことして、いけなかった?」
 祥子は箸を置くと、俯いて下唇を噛んだ。自分の胸に湧き水のようにこんこんと溢れ始めた気持ちとどう向き合えばよいのか、よくわからない。
「もしかしておいしくない?」
「……ううん」
祥子は首を横に振ると口許を緩めた。「おいしいわよ」
「ほんと?」
「うん。すごくおいしい」
 祥子が顔を上げて目を合わせると、天の顔に安堵の笑みが広がった。
 祥子は立ち上がる。
「ビール、飲むでしょう?」
 祥子は冷蔵庫の扉を開けるとビールを取り出すべく腰を折った。覗いた冷蔵庫の中はいつも通り整然と片づいている。出された料理も申し分なくおいしい。どうやら天は家事に慣れているらしい。
 祥子は缶ビールのプルトップを開けると、天のグラスに注いだ。黄色い液体と白い泡を見つめながら、自分のグラスも手に取る。ビールが入ると、グラスを握っていた指先に冷たい感触が少しずつ浸透してきた。
「ねえ、そらクン」
「何?」
「君、本当にハタチ過ぎてる?」
「うん。そうだと思うよ」
「思う?」
「うん」
 祥子は当惑する。
「何よ、それ」
「何、って」
「たぶん、とか、思う、とか、どういうこと? 君、自分の年齢もわかんないの?」
「うん」
祥子は持っていたグラスをテーブルに置くと天を睨みつけた。
「ふざけないで」
「ふざけてないよ。何で怒るのさ?」
「信じられない。そんな自分の歳もわかんないようなコと、あたし、一緒になんか暮らせないわよ」
 実のところ、今朝からぼんやりと『淫行』という言葉が頭の片隅にちらついていたのだ。彼がもし十代で、実は家出少年だったりしたらとんでもないことになる。
「え? え?」
 天は、ぱっと顔を輝かせると身を乗り出してきた。
「何? 本当のこと話したら、ここで暮らしていいの?」
「そ、そういうことを言ってるんじゃないのよ」
「だめなの? いいの? どっちなの?」
 祥子は期待に満ち溢れた天の瞳から視線を逸らす。
「どっちにしても未成年とは暮らせないわね」
「ああ。それなら大丈夫。戸籍上は間違いなく二十歳だから」
──戸籍上は?
 言っている意味がよくわからない。
「どういうこと?」
「あのね。俺さ」
天は屈託なく話し始めた。「子供の頃、ちょっとだけ教会で暮らしてたことがあるんだ」
「教会?」
 祥子は首を傾げた。年齢と教会とどう関係があるというのか。
「うん。イエス・キリストのいる教会」
「いつ? 赤ちゃんの頃の話?」
 教会の前に捨てられていたということだろうか。だが、天は首を横に振った。 「違う。もっと大きくなってからだよ」
 あんまり覚えてないんだけど、と前置きしてから天は話し始めた。
「母親がね、出かけてったきり家に帰って来なくなったんだ。子供の俺を置いてどこかに行っちゃったの」
 祥子は驚いて目を丸くしたが、当の本人は案外呑気な顔で話をつづける。
「俺、殆ど外に出たことなんかなかったから、たぶんどうしたらいいのかわかんなかったんだと思う。何日も何日もバカみたいに、母親が帰ってくるのをひとりで待ってたらしい」
 らしい、と天は言った。祥子は怪訝な面持ちで訊く。
「覚えてないの?」
「うん。よく覚えてない」 天は思い出そうとするように祥子の頭の向こうに視線を送った。
「ただお腹がすごく空いてて、ずっと眠ってばっかだったような気がする。……で、ある日目が覚めたら教会にいた」
 どうして教会なのだろうか。祥子が訊ねると、さあ、わかんない、と天は笑った。
「ずっとひとりぼっちだったのに、突然入れ代わり立ち代わりいろんな大人の人が俺に会いに来てちょっとびっくりした。そのときはわかんなかったんだけど、役所の人だとか、お医者さんだとか、そんな人たちだったんじゃないかと思う」
「……」
「みんな不思議な生き物を見るような目で俺を見るんだ。こんな生き物がこの世にいたのか、っていう顔で俺を見るんだ。その目がさ、すんごく気持ち悪かった」
 それだけははっきり覚えてる。天は唇の端を上げて笑った。
「こんな子供はどこにも存在しないって言われたよ」
 一瞬祥子の呼吸が止まった。
「この子供には戸籍がない、って言われたんだ」
 あっけらかんと天は言った。
「戸籍が、……ない?」
 祥子の背中がすう、っと冷たくなった。
 戸籍がない。 確かに生きているのに。確かに世の中の片隅で息衝いているのに。存在の証が何もない。それは途轍もない闇の果てのがらんどうに思えた。足元が抜け落ちたような気がして祥子は不気味な思いに囚われる。今、自分はきっと、すんごく気持ちが悪いと天が言い表した大人たちと、同じ顔をしているはずだ。震える気持ちを抑えて口を開いた。
「それで?」
「よく覚えてない」
 天は頭を横に振った。けれどこの話をすることに全く抵抗はないようで、ビールをひと口飲むと、
「それがたぶん、十歳くらいのとき。色々検査をして、十歳くらいだろう、ってことになったんだ」
明るい口調でつづける。「俺の歳はそのとき決めてもらったの。だから、本当の歳はわかんないんだ」 祥子は片方の肘をテーブルに突いて拳を顎に当てた。暫く言葉が出て来なかった。 「祥子さんが暗くなることじゃないよ?」
 天は平気な顔をしている。まるで他人事みたいだ。
「ねえ、それよりさ、本当にここで暮らしてもいいの? ここから出て行かなくもいいの?」
 そちらのほうが重要だと言わんばかりに訊いてくる。
 祥子はそれには答えないで、
「戸籍は? 今は本当にちゃんとしてるの?」
「うん。その後すぐに母親が見つかったから」
 母親が見つかった。
「お母さんは? お母さんは、そらクンの生まれた日を覚えてなかったの?」
「うん。そうだったんじゃない? ……っていうか、俺、その頃のこと本当によく覚えてないんだ。そのとき、あの人がどんな顔してたのかもわかんない」
 自分の子供が生まれた日のことを覚えていない母親がいるだろうか。あの人、と天は言った。
 天の母親。
 自分の子供の存在を世の中に知らせない母親。自分の子供を置き去りにする母親。
 ネグレクト。育児放棄。
 よく新聞や雑誌で目にする言葉だが、実際にこんな話は聞いたことがない。今の日本に戸籍のない子供が存在するとは信じられない。それともそんな話を知らずに生きてきた祥子がただの平和ぼけの幸せ者だということか。
「じゃあ、学校は? それまで行ってなかったの?」
「うん」
 天はバツの悪そうな顔で笑って頷いた。
「でも、その後もまともに行ってない。……だから字があんまり読めないんだ」
 天は自分が字が読めないことを深刻には捉えず軽い冗談のつもりで言ったのかもしれないが、祥子は少しも笑えなかった。ビールを飲む。少しぬるくなってしまったそれは苦い味ばかりがした。天は黙々と自分の作った煮物を口に運んでいる。伏せた睫が長くてやはりうつくしいのだ。
「でも」
 祥子は腑に落ちない。天が箸を止めて顔を上げた。
「君の名前」
「名前?」
「天、って書いて、そら、って読む名前。それは生まれたときからの名前なんでしょう? それとも教会でつけてもらったの?」
「いや。違う」
「ちっちゃなときからそう呼ばれてた?」
 天は祥子の言わんとしていることを量りかねるといった表情で頷く。
「いっぱい愛されて生まれてきたんじゃないの? あたしは君の名前を聞いたとき、そう思った」
 その言葉に、天は僅かに目を見開いたが、すぐに唇を結ぶと首を横に振った。瞳に輝きはなく、そんなことは有り得ないといった表情を、ただしている。それだけで、目の前の男がどんな風に育ってきたのかを想像できて、胸の辺りが苦しくなった。言わなければよかった。
「ごめんなさい」
「いいよ。祥子さんは悪くないよ。歳のこと、面倒臭い言い方してごめん」
「お母さんは、今どうしてるの?」
「死んだよ。四年くらい前に。火事で、死んだ」
 祥子は再度衝撃を受ける。
「ごめん」
 天はくすりと笑う。
「だからいいってば」
 祥子は、再び箸を動かし始めた天の手元を見ながら考える。 天という名前は一体誰から授かったのだろうか。
 お父さんは? と訊こうとして祥子は口を閉じた。これ以上踏み込んではいけない気がした。

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