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第一章  「月の砂丘にひとり」  7.
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 食後はふたり並んで台所に立ち、後片づけをした。
 天は何をするにも手際が良い。皿一枚洗うのも丁寧なのに時間がかからない。動きは静かなのに素早いのだ。きっと前の三十五歳のカノジョと暮らしていた時も天が炊事を担っていたのだろう。いや、もしかしたら母親と暮らしていた時でさえそうだったのかもしれない、と祥子は思った。もし一緒に暮らすことになっても天はきちんと家事を分担してくれそうだ。家賃も払ってくれると言うし、彼と生活を共にするのは自分にとって悪い話ではないような気がした。どういうわけか、年若い男と同棲することへの罪悪感は微塵も湧いてこなかった。天と暮らしてみたいという欲求は、自分の中に確かに存在している。改めて自覚して、祥子はそんな自分に困惑していた。
 「あのさ」 
布巾を折りたたみ、シンクの外に飛び散った水滴を拭きながら祥子は訊ねた。 「一緒に暮らしてた人に連絡しなくていいの? 急にいなくなっちゃって、今頃心配してると思うんだけど」
「いいの。きっと心配なんかしてないよ。悔しがってはいるかもしれないけどさ。それにあいつ、もうじき引越しなんだ。転勤で北海道に行くんだって」
「え? そうなの?」
「俺を一緒に連れて行くつもりみたいだったから、嫌だ、もう別れたい、って言ったら殴られて監禁されそうになった」
 監禁。
 祥子は動かしていた手を止めて天の顔を見た。天は笑っていた。くるりと後ろを向いてシンクに背中を預けると、壁側の食器棚を見上げながら面白そうに話す。
「仕方がないから嘘ついたんだ。気が変わったって。一緒に北海道に行ってもいいよ、って。あいつ、俺が自分を騙すなんてこれっぽっちも疑ってなかったみたいで、ころっと態度変えちゃってさ。昨日、あいつの昼休みに外で一緒に食事して、油断させておいて、それでそのまま逃げ出したんだ」
「そう、なんだ」
 天はにっこりと微笑んだまま祥子に視線を移した。じっと顔を見つめられる。
「ヘビーでしょ?」
 天の表情には揶揄が含まれていた。水をたくさん吸った布巾を握りしめて、
「うん。まあ、そうね」
 などと口の中でごにょごにょ言っていると天は祥子の顔を覗き込むように自分のそれを近づけてきた。アーモンド型の大きな目。瞳には祥子が映っていた。天は口許だけでにっと笑う。
「ひかないでよ、祥子さん」
「ひ、ひいてなんか、ないわよ」
 祥子は何だか世間知らずだとバカにされているようでむっとした。そんな特殊な経験、あるほうがどうかしているではないか。手にしていた布巾を軽く揉み洗いしてからきゅっときつく絞る。傍らに立つ天はまだにやにやしていたが、それは自嘲の笑みにも見えて祥子は胸が苦しくなった。
「仕事は? 何をしてる人なの?」
「銀行員。B銀行って、言ってた、かな」
「びっ……。B銀行ー?」
 祥子は思わず大きな声を上げていた。日本のトップを行く銀行ではないか。転勤があるということはきっと総合職なのだろう。
「すっごいキャリアウーマンなのね」 なのに、こんな可愛いコイビトに日常的に暴力を奮い変態行為を繰り返す。果ては監禁。
「キャリアウーマン?」
 天は鸚鵡返しに言うと怪訝な顔を祥子に向けた。ふたりは狭いキッチンで暫し見つめ合い、話が噛み合っていないことに気づく。
「でしょう?」
「なんか、違う気がする」
「違う?」
「だって、ウーマンって女の人のことでしょ?」
「だから、そうでしょう?」
「違うよ」
「違う?」
「うん。だって、そいつ、男だもん」
── ……え?
 天は預けていた背中を流し台から起こすと、そこから離れた。
「もうあいつの話はやめようよ」
 祥子に背を向け切り捨てるように言い、キッチンの灯りを落とす。
「えっ」
祥子は自分でも驚くほどの素っ頓狂な声を上げていた。「え? え? え? えーっ?」
 何事が起こったのかとでも問いた気な顔で天が振り返った。
「え。え。え。何? 何? 男って、何?」
「え? 何、って、男は男だよ」
 祥子は酸欠に苦しむ金魚みたいに唇をぱくぱくさせた。
「ちょっと、祥子さん、大丈夫?」
 なんかすごい顔してるよ。天は言うが祥子の耳には入らない。祥子は軽いパニックに陥っていた。
「あ、あなた、ほ、ほ、ほ、ほ」
「ほ?」
「ほ、ほ、ほ、ほ、ほ、ほ、ほ、ほ、」
「何?」
「ほ、も、なの?」
 なの、の部分だけ、はっきりと言えた。
天は僅かの間きょとんとしていたが、すぐに不快そうな顔になった。
「違うよ。そうじゃないってことは祥子さんだって知ってるでしょ?」
「だ、だって」
 じゃあバイなのか。両方いけるのか。自分はそういう男とそういうことをいたしてしまったのか。
 祥子は愕然とした。天の少しも恥じ入っていない、整った顔をぼうっと見つめる。
 何なのだ。この男は。一緒に暮らしてくれるのなら相手が男であろうが女であろうが構わないのか。貞操観念だとか節操だとか人としてのそういう大事な感覚がまるきり欠如している。いや、男女問わないということを抜きにしても、だ。あまりにもお手軽すぎる。何かを間違えている。どういう風に育てばこんな人間ができあがってしまうのか。そこまで思って祥子ははっとした。先程聞いた天の生い立ちを思った。 それに。 昨日の自分を振り返ってみれば、天のことをとやかく言うことなどできないのだ。
 長いこと天の顔を見つめていたが、やがてがっくりと肩を落とすと、ぺたぺたとスリッパの音を立てて歩いた。頭も肩も足も重い。
 祥子は混乱していた
  ソファの右端に祥子が座り込むと、後を追うように天も左端にそっと腰掛けた。少し離れた場所から祥子の顔色を窺うような仕草で見つめてくる。
「祥子さん、そういうのダメなひとなの?」
 祥子は肘掛けに肘を突きこめかみに拳を当てた。どことも言えないところを見るとはなしに見る。
「そういうの、ダメじゃない人なんてそうそういないと思うけど」
 出てきた声は思いのほか冷たく響いた。天は間を置いて、
「そっか」
 と、呟くように言った。
 天はこれまでずっとそんなことを繰り返してきたのだろうか。誰彼構わず手っ取り早く快楽を与え、そうやって生きる場所を見つけてきたのだろうか。昨日祥子を抱いたみたいに。問いたかったが口に出すことはできなかった。
「あーっ」
 不意にあることを思い出して祥子は再び奇声を発していた。預けていた拳から顔を上げると、興奮した面持ちで天のほうに身体と人差し指を向けた。
「な、何?」
 天は祥子の勢いに怯んでいた。目を丸くして上半身を後ろに引く。
「ね、ね、ねえ、あの人? あの人なの?」
「あ、あの人、って……」
「昨日。昨日、一緒に食事してたあの男? あの男が君の元カレ?」
「元カレ、って……。う、うん。まあ、そうだけど」
 そうか。あの男がそうなのか。七三に分けられた髪と眼鏡。顔ははっきりとは思い出せない。痩せて神経質そうな印象はあったが、清潔感の漂う真面目な男に見えた。
「お兄さんだと思ってた」
 呟くように言うと、祥子は再び頬杖を突き黙り込んだ。
 隣に座る天の、不安そうな気持ちがひしひしと伝わってくる。追い出すのは簡単だ。多分、天は居直ったりはしない。素直に祥子の言葉に従うだろう。そしてまた街へ出て次の相手を探せばいい。それだけのことだ。その相手は祥子のようなノーマルな人間かもしれないし、前のカレのように暴力で天を屈服させようとする人間かもしれない。もっとひどい人間に行き当たることだってあるだろう。人間の心の奥に潜む性癖をひと目で見極めることなど、天でなくとも難しい。
「ふたつほど約束して欲しいことがあるの」
 天のほうは見ないで静かな声で告げた。
「ここに住んでもいいけど、約束して」
 天は祥子のほうに身体を向けると自分の膝を合わせるようにして居住まいを正した。
「うん。何?」
「ひとつは……」
「ひとつは?」
「変な病気を持ってないか、ちゃんと病院で検査してもらってきて」
「えええっ」
 祥子は冷静に天の顔を見遣る。
「何? 嫌なの?」
「や、いいです。検査します」
天は右手を軽く上げて殊勝に頷いた。「もうひとつは?」
「あたしと一緒に暮らしてる間は男の人でも女の人でも、他の誰とも寝ないで」 それが最低限のルールだ。祥子が言うと、
「うん。わかった。しない」
天は素直に承諾した。あまりにあっさりしていて調子が良過ぎる。
「ちょっと。ほんとにあたしの言ったこと理解できてる?」
「うん。わかってる。ちゃんとわかってるよ」
 天の口許は嬉しさで緩みそうになっていた。けれどショックを受けたばかりの祥子の手前、あからさまに喜んではいけないと懸命に我慢しているようだった。
 笑いを堪えきれなくなったのは寧ろ祥子のほうだ。ふ、っと吹き出すと、
「もう、変なコ」
掌を伸ばして天の頭を撫でた。「笑いたかったら笑えばいいでしょ。別に、あたし怒ってるわけじゃないのよ」
 祥子の言葉に天の顔がたちまちほころんだ。にいっと笑うと両手を広げていきなり祥子に抱きついてきた。きゃあっ、と祥子は悲鳴を上げる。
「ありがとうっ、祥子さん。俺、何でもするからっ」
「何でもする、って、ねえ……」
 そういうことを簡単に口にするから相手に甘く見られるのだ。
 祥子は天の身体を受け止めたまま肘掛と背凭れの間の窪みに倒れ込んだ。自分の頬に触れる天の頭を撫でながら、その背中から足の裏までを見つめる。天の髪の毛は一本一本が細くて柔らかだ。圧しかかってくる身体を抱きしめると怖いくらい肉が薄く、骨の軋む音がぎしぎしと聞こえてきそうだった。天の掌が祥子の脇腹をゆっくりと這う。天の触れ方は羽のように優しく焦れったい。自分が愛されているかのような錯覚を起こしそうになる程心地よい。けれど天は、相手が誰であれ同じ愛撫を与えるのだ。そのことを祥子はもう知ってしまった。
「そら、クン。君さ」
「うん」
「……今まで誰かを本当に好きになったことって、あるの?」
 天は顔を上げた。解せないといった表情で祥子を見る。
「どういう意味? 俺、今だって、ちゃんと祥子さんのこと、好きだよ」
「そうじゃなくて」
 祥子は好きという気持ちをどう表現すればこの目の前の男のコにわかってもらえるのだろうかと、思案した。
「恋をしたことはあるのか、って訊いてるの」
 出てきた台詞は途轍もなく陳腐なものだった。
「恋?」
「うん、恋。……ある?」
 天は祥子の上で考え込むような顔つきになった。
「誰かをすごく好きになって、いつもいつもその人のことばかり考えたりとか、独り占めしたいって思ったりとか、胸がきゅって苦しくなったりとか、そういう気持ちになったこと、ある?」
「え? いや、ない、かも。……何でそんなこと訊くの?」
 天はきょとんとしていた。その瞳には一点の濁りもない。 祥子は目の前の澄んだ瞳にじっと見入りながら、祥子には抱えきれないほどの闇が天の内側に潜んでいることをこの時はっきりと確信した。漠とした寂しさが胸に広がる。それが天に対する同情や憐れみからくる気持ちなのか、或いはこれから先もふたりがわかり合えることはないだろうという予感のようなものからなのか、それとは全く別の、種類の違う気持ちからなのか。祥子自身掴みきれなかった。
「ごめん。何でもない。つまんない話……」
 そう言うと祥子は再び天の頭を抱きしめた。腕の中の天の頭は本当に小さくて青草のような清々しい香りがした。何だか散々外で遊んで帰ってきた子犬のようだと、祥子はそんなことを思った。


 十日後。 祥子は残業を一時間済ませた後、会社の近くの大手書店へ立ち寄った。
 驚いたことに天は仕事をしていなかった。例の銀行マンと暮らし始めた直後に辞めさせられたのだと天は説明してくれた。ひどく嫉妬深い男だったらしく、天はずっと不自由な生活を強いられていたようだった。何だ。男色家であろうがノンケであろうが男の支配欲というのは全く変わりはないのかと、祥子は呆れた。仕事が決まるまでは食事の仕度は天がしてくれることになった。
 店頭には数種類の雑誌が山積みされ、『本日発売』の黄色い立て札がいくつも並んでいた。祥子はその内の働く女性向けのファッション雑誌を一冊手に取った。見るとはなしにぱらぱらページを捲っていると、
「相川さん、今日はもう仕事、終わったんですか?」
 隣に立っていた女性に不意に声をかけられ、驚いてそちらを向いた。鮮やかなオレンジ色のジャケットを着た西原が、社内ではあまり見せないような人懐っこい笑顔で立っていた。
「相川さんでもこういう雑誌見るんですね」
 頭を傾げて祥子の手にした雑誌の表紙を覗き込む。
 祥子はむっと唇を曲げる。でも、とはどういう意味だろうか。
「西原さんは? もうとっくに帰ったと思ってたのに」
 祥子が問うと、西原はいたずらっぽくふふ、と笑った。
「待ち合わせしてるんです。カレと」
「……へえ。そうなの」
 祥子は応えながら、カレとは根津のことだろうかと考える。それとも根津とは別の本命のカレがちゃんといるのだろうか。いそうだな、このコなら。艶やかな化粧の施された横顔を見ながらそう思った。西原は適当に選んだ雑誌の表紙を捲りながら、
「相川さん、演技下手ですよね」
どうということのない口調で言った。「まるで大根」
 祥子は手にしていた雑誌を落としそうになって慌てて持ち直した。かあっと頬が熱くなる。
「どういう意味?」
「意味なんかないですよ。ちょっと言ってみただけです」
そう言うと雑誌を閉じて腕時計を見た。「あ、もう行かないと」
 自分の言いたいことだけ言って逃げるつもりなのだ。西原という女はいつもそうだ。自分から喧嘩を売っておいて、相手に買わせることすらさせないのだ。祥子はこの女が苦手だった。
「じゃあ、失礼しまーす」
 わざとらしく腰を折ると小走りに去って行った。残された祥子のほうは不快感でいっぱいだ。
 あの歓迎会の日、祥子がふたりの後を追いかけたことを西原はちゃんと知っていたのだ。根津は。根津のほうはどうなのだろうか。
 暗澹たる気持ちになって手にしていた雑誌を置くと、一旦店から離れたが、慌てて引き返す。
 今日本屋へ立ち寄ったのには訳があった。店の急な階段を上がり二階へ向かった。二階のフロアは小中高生向けの教材を置いている。小学生用の問題集を探して歩く。ひと昔前、算数の教材で一躍有名になった教育機関のドリルが立ち並ぶコーナーが目についた。『一年生のかん字』と書かれたドリルを手に取る。ペパーミント地の表紙には野球選手姿の猫のイラスト。
 一。二。三。
 終わりのほうに目を通すと、
 空。音。
 と、ある。 いくらなんでも、このくらいはわかるだろう、と祥子は苦笑いした。天の漢字の理解度はどのくらいなのだろうか。三年生のドリルを開いてみた。こちらはさすがに画数の多い漢字が幾つも並ぶ。
 横。箱。薬。
 祥子は一年生から三年生までのドリル三冊を持つと、今度は辞書が平積みされたコーナーへと移動した。『店長おすすめ』の帯がぶら下がった小学生向けの、明るい色使いで装丁された国語辞典を箱から取り出し開いた。そのあまりにも見易く、そしてカラフルな様に祥子は感心した。自分達の子供の頃のそれとはずい分違う。
 ドリル三冊と辞典一冊を抱えて暫く逡巡する。こんなことをして天は嫌がらないだろうか。よけいなお世話だと怒ったりしないだろうか。でもほっとけない。放っておけないのだ。字を読めないままでいいはずがない。これから仕事を探すのなら尚更だ。祥子は迷いを捨ててレジへと歩いた。
 四十代くらいの女性店員は顔色ひとつ変えないで事務的に仕事をする。この店員から見て祥子は小学生の子供を持つ母親に見えるだろうか。白く薄い紙の袋に包まれたそれを受け取り店を出た。
 一歩踏み出した街は一面朱色に染まっていた。空全体を覆いつくす程の夕陽に祥子はにわかに目を細める。からからに渇いたただ空虚さだけの漂うオフィス街が、夕陽というフィルターがかかっているだけで、今は何だか違って見えた。行き交う人々の背中が、家路を辿るのを楽しんでいるような気さえするのだった。祥子も駅へ向かう人々の流れに身を預けた。
 明日は土曜日で会社は休みだ。早起きをして、朝ご飯を食べ終わったら、天と一緒に掃除をしよう、と思った。全部の窓を開け放し、部屋中に風を通すのだ。綺麗になった空気のなかで、天とふたりコーヒーを飲みながら求人情報誌でも眺めよう。
 そういえばここのところ月の砂丘の夢は見ていない。
 天と過ごす時間は他愛なかったが、それでも想像以上の生気を祥子に与えてくれた。あの薄灰色のウサギはどうしているだろうか。今もひたすら餅を搗いているのだろうか。
 月は出ていないのだろうかと空を見上げたが、そこにはさくらんぼ色に染まった太陽と、長く横に伸びる薄桃色の雲がただ果てしなく広がるばかりだった。
 
第一章「月の砂丘にひとり」(了)

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