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  1. 見事な黄色っ


 彼と初めて会ったのは母の通夜の席だった。
 といってもわたしと母はもうかれこれ何年も顔を合わせていないような状態であったので、娘というよりは寧ろ完璧な弔問客として、居並ぶ黒い群れの隅っこに祖母とふたりちょこんと座っていた。母の兄の家族、要するにわたしにとっての伯父伯母と従兄弟も列席していたが、彼らもまた身内ではないかのような顔で更に遠い席に座している。
 事故で母が亡くなったという、あまりにも突然の訃報を祖母の口から聞かされたとき、だからわたしはほとんど悲しむことをしなかった。少しくらい悲しいフリをしないといけないかなと知恵を働かせたくらい冷静であった。
「見てご覧、小春こはる、見事な黄色っ」
 延々流れる読経のなか祖母がこっそり耳打ちした。
「うん。すごいね。バナナみたい」
 素直な感想を述べた。実はわたしも先ほどからあの頭にばかり目が吸い寄せられていたのだ。
 黒や茶色い頭の波の向こうに浮かぶ、鮮やかな黄色。金色ではなくそのものずばり明るい黄色だ。まるでバナナかレモンのような。肩にかかるくらいの、男にしては少し長めの髪である。日本人であれば元は黒かったろう髪を、どうすればあんな色合いにできるのか。相手からは見えないのをいいことに、暫し無遠慮に観察した。
 最前列の左から三番目にいる。ということはかなり近しい身内なのだろう。
「もしかして、あの黄色い頭が」
 祖母が言う。
 いままさにわたしも同じことを考えていた。
 白と薄い紫の花々で飾られた祭壇にはふたり分の遺影。
 笑顔の母と。隣に並ぶのはわたしの父ではない。母のふたり目の夫の写真である。名を榛原武はいばらたけるといったが、わたしが生前彼と会い言葉を交わしたのは、たったの二回きりしかなかった。


 父はわたしが十五歳のときに失踪した。
 スーツ姿で自転車に跨り、いつもどおりの顔で、
「いってきます」
と母に言い、そのまま夜が来ても朝が来てもまた夜が来ても戻って来なかった。何ひとつ持たず着の身着の儘出て行ったきりであったので、皆まさか家出したなどとは夢にも想像しなかった。事故か或いは事件に巻き込まれたのではないかと誰もが心配した。
 大人しく万事控え目で地味な父ではあったが、やがて借金のあることが判明した。額は三百万円と少々。五十万円が限度のカードローンをいくつも抱えていたのである。
 わたし達は知らなかったのだが、父はスロットというものが好きだったらしく、「よく姿をみかけたよ」と、パチンコ好きの近所のひとから後になって知らされた。
 たったそれっぽっちの借金で姿を消すわけがないと父の父は傲然と言い放った。他に理由があるんじゃないかと母に迫り、母は「はあ」と呟いたきり途方に暮れ、父の父を極限までイライラさせた。
 母はお嬢さんがそのまんま大人になったような人間だった。夫の失踪というまるでテレビドラマのような展開を、自分の身に起こった出来事として認識することは、即座にできなかったのである。
 三百万円と少々の借金は父の退職金と社内預金で消えた。社宅に住んでいたわたしと母が母方の祖父母の家で暮らすことになるのはまあ当然の成り行きであった。
 呑気な母だった。労働の文字も苦労という単語も彼女の頭にあったとは今もって思えない。その母が父の失踪から一年経った頃、ようやく重い腰を上げてくれた。知人の紹介で仕事が見つかったのである。奇跡的。母方の祖父母の家は決して貧しくはなかったが、当時わたしはこの母の元、本当に大学まで進学させてもらえるのかどうか途轍もない不安に駆られていたので、そのときの安堵といったら、一年分の溜め息が身体の底から放出され、やっと心穏やかに安眠できるようになった、というくらいであった。
 母が再婚すると言い出したのは就職してから僅か半年ばかり後のことである。相手はなんと勤め先の社長だと言う。しかも自分より七歳も年下の。
「お母さん、外で働くのって、どうも性に合ってないみたいのよ」
それと再婚とどう関係があるのかと、二十四歳になったいまのわたしならきっと母の甘えを許さなかっただろうと思う。だが高校生のわたしはただ唖然とするばかりだった。
「お母さん、お父さんはどうするの?」
 思い出すと失笑するより他ないのだが、その頃わたしは父の帰宅を疑っていなかった。
 母はわたしの言葉にもまた途方に暮れ、黙り込んだ。


 たぶん、泣かないだろうと思っていた。
 けれど。母の死に顔を見た瞬間熱い塊に喉元を押し上げられていた。
 綺麗な顔をしていた。
 本当に交通事故で死んだ人間の顔なのだろうかと首を傾げたくなるくらい。死化粧の施された真っ赤な唇が白い肌に映えていた。細面の顔とその中央を走る形の良い鼻梁。栗色の髪。変わらないと思った。
 もうずっと会っていなかったので忘れていたが、母はうつくしいひとだったのだ。失踪した夫がいようとも、高校生の娘がいようとも、七歳も年下の会社社長からプロポーズされるほどに。
 祖母は棺桶に取り縋って泣いた。わんわんと。言葉にならない言葉を幾つも並べて泣いた。その姿に堪えきれなくなり、わたしの目からもとうとう涙が溢れ出た。
「おばあちゃん……」
 当然と言えば当然だった。たとえ四十をとうに超えた人間であれ、祖母からすれば自分の産んだ子供であることにかわりなかった。
 そこでやっとわたし達が母の血縁者であることに気づいたらしい母の夫の親類縁者がこちらに集まってきた。ああ、すみません。挨拶が遅れました。この度は。などと言いながら。
 ふと。視線を感じた。
 とても強い意思を持った視線だと思った。
 目頭を押さえていたハンカチを外し顔を上げた瞬間、周囲のざわめきが消えた気がした。
 彼がわたしを見ていたのである。黒々とした瞳が真っ直ぐこちらを向いていて、一瞬怯んだ。
 初めて正面から見た彼は髪の色から想像していたほどにはひねた目をしていなかった。いくつだと聞かされていただろうか。咄嗟に思い出せない。
 彼は泣いてはいなかった。けれどここへ至るまでにさんざん泣き暮れたのだろう、瞼は腫れ、目尻には濃い赤味が残っていた。いまも涙に耐えているその顔は、実際の年齢よりも存外彼を大人に見せていた。
 目を合わせた瞬間だけ僅かに驚いたような顔をしたが、瞳は真っ直ぐにわたしを捉えたままだった。
 どれくらいの時間そうしていただろうか。一秒にも一分にも一時間にも思える時間だった。
 余りにも相手の視線が強かったので、わたしのほうが耐え切れなくなって視線を逸らした。音が耳に戻ってきた。


「だからさー。うちは無理だよー。受験生抱えてるしねー。見ただろ、あの黄色い頭。うちの奥さん卒倒しそうになってたよー」
「うちだって無理よ。っていうか。あの子幾つだっけ。高校生じゃなかったっけ。わたし達が手を貸さなくても充分ひとりで暮らしていけるでしょう?」
「だけど兄貴もねー。あんな羽振りよかったのに、実は借金だらけだったなんてさー。詐欺だよねー」
「だけど。生命保険があるでしょう? 社長だもの。いくらくらい入るのかしら。事故も殆ど相手に非があるっていうし、そっちからも相当入ってくるんじゃないの?」
「へー。姉さんよく調べてんね」
「当たり前でしょう? それにね、なんとね」
「え?」
「あの女と兄さん、籍、入れてなかったらしいのよ」
「はあ? まじで?」
「そういや、あの女の前の亭主、失踪したとか何とか言ってたよな」
「え。じゃ、保険金とかあの会社とか、どうなんの? 全部、あの黄色いボクちゃんのものになんの?」
「籍、入れてたとしても、それはかわらないだろ。だけど高校生だからな。実質経営は無理だな」
 祖母とふたり。喫煙コーナーの前で足を止め、話を聞いていた。時折顔を見合わせながら。明らかな盗み聞き。でも足は縫い付けられたように動かなかった。喫煙コーナーにいるのはふたりの男とひとりの女。あの黄色い少年はこのひとたちの甥といったところだろうか。
 ふと。先ほどと同じ視線を感じてわたしは後ろを向いた。祖母もつられて一緒に振り返る。
 黄色い髪のオトコノコがいた。蒼白な顔をして立っていた。喫煙コーナーから洩れていた話を、このボクちゃんも聞いていたのだろう。別に悪口を言われていたわけではないがそれでも耳にして気持ちの良い話ではなかった。わたしと祖母は同時にごくりと喉を鳴らして固まった。
 小さな顔。細い線。最近ではあまり見なくなった真っ黒な詰襟の学生服に身を包んでいる。全体的に小柄な男の子だ。伸ばした髪の隙間から覗く耳たぶに小さな点がいくつも並ぶ。イマドキの男の子だなあと見つめていた。先ほどはずい分と大人びて見えていたけれど。こうやって近くで目にするとやはり子供だ。頬の線があどけない。
 不躾に眺めてしまっていたのだろうか。負けまいとするかのように彼もこちらを見返していた。射るように。先刻と同様一途な瞳だった。
 思わず小首を傾げた。どうしてこんなにも強くわたしの顔をじっと見つめる必要があるのだろう。もしかすると、わたしに言いたいことでもあるのだろうか。例えば何? 誰も知らない母の秘密、とか? いや。考え過ぎだと自分に言い聞かせる。わたしは物語を書くことを生業としている。だからだろうか、実生活に置いてもどうにも妄想癖めいたところがあって仕方ない。
「あんたも大変だねえ」
 唐突に祖母が少年に近寄り話しかけたのでわたしはぎょっとした。まるで何年来かの知人に向かって言うみたいにしみじみとした口調だった。しわしわの手を少年の肘に添えている。よく知らないお婆さんに突然馴れ馴れしく触れられ、少年はびっくりしたように目を丸くしていたが、すぐに小さく首を横に振った。憂いを含んだ俯き加減の表情がどことなく母に似ていてわたしはどきりとした。そう思って見れば、細面の顔も、すうっと高い鼻梁も、よく似ている。そんなはず、ないのに。
「何かあったら力になるからね」
 祖母の言葉に少年は素直に頷いたが、わたしと祖母が彼の力になることは決してないだろうと、わたしは簡単にそんなことを口にする祖母の真意を測りかねていた。


 翌日。葬儀から帰る道すがら、ぽつりと祖母が、
恵子けいこに似ていたねえ」
そう言った。恵子とはわたしの母である。
「誰が」
わかっていたが訊ねた。だって。似ているはずがないのだ。
「あの男の子だよ。小春は、そうは思わなかったのかい?」
「何言ってるの、おばあちゃん、あの子とお母さんは血の繋がりなんかないんだよ」
 いよいよボケ始めたのだろうかと心配になる。
「わかってるよ。だけどねえ……」
 ふうと、祖母が重い溜め息で言葉を濁した。実の娘の小春より余程似ていたよと言われるのではないかと内心身構えていた。わたしはうつくしかった母に似ていない。失踪した父にも似ていない。誰にも似ていない。なのにあの男の子は驚くほど母によく似ていた。
「小春にも似ていたよ」
「は? あたし?」
 こくりと祖母は首肯した。
「目許がね、ようく似ていたよ」
「ないない。全然、似てなんかない。冗談やめてよね」
わたしはぶんぶん鞄を振り回し抗議の意志を表明した。
 祖母は昔を思い出すみたいな顔になっていた。
「ちょう度あのくらいの歳の頃だったよねえ。あんたもあんな目ぇしてた。そっくりだ」
 祖父母の家で暮らし始めた頃のことを言っているようだった。そうだったろうか。そう言われてみればそうかも知れないと思うのだった。この頃は記憶の隅に仕舞い込んで、あの頃を思い出すことなんか、全くなかったけれど。
 祖父母の家へ転がり込んできた当初、わたしはまだ混乱していた。何故父はわたしと母を三百万円の借金と一緒に見捨ててしまったのだろうかと、いやそんなこと有り得ない、だって父親なんだから、娘を捨てたりするはずがないと、ぐるぐるぐちゃぐちゃ同じことを何度も考えあぐね、やがてそれは父や周りの大人たちへの猜疑へと変わっていった。
「あれから、まあ、ずい分色々あったねえ……」
 何を思っているのだろう、祖母はまた涙ぐんだ。わたしは気づかない振りでぶんぶん歩く。もらい泣きなんかもうごめんだと思った。
 色々あった。
 ほんとに。
 母の再婚─── 実質籍は入れていないけれど ───、祖父の死、祖母とふたりの生活、受験、就職活動、母の死。他にも色々あったが、その間一度も父からの連絡はなかった。身元不明遺体の着衣や或いは年恰好が似ているからと、身元確認の電話が警察から何度かあるにはあった。それも全くの別人であった。ここ何年かはそれすら途絶えている。母は父の失踪から七年経った後も家庭裁判所に赴くことをしなかった。怠惰だったのか何かちゃんとした思いがあったのかはわからない。
 父は未だ失踪宣告を受けていない。父は戸籍上まだ生きている。
 無責任な母が放置したまま亡くなったので、結局その判断はわたしの手に委ねられることとなってしまった。いずれは片をつけなければならないことだと思ってはいる。
 だけど。
 いまは何も考えられないなあ、と天を見上げた。
 冷たい空気を深く吸い込んでみる。上向いた空には数え切れないほどの星が散らばり瞬いていた。そう言えば家で仕事をするようになってからはこんな風に空を見ることもしなくなっていた。
「綺麗」
 言うと祖母も、
「そうだねえ」
と仰向き同意した。鼻をずりずり啜る音が静かな夜道に響いている。
「恵子も、榛原さんも、星になっちゃったんだねえ。あたしより、うんと若かったのにさ。人間、明日何があるかなんて、わかないもんだねえ」
 だから。そういうことを口に出して言うのはやめてほしい。ぐっと奥歯を噛みしめ涙を堪えた。
「お母さん、榛原さんと結婚して、幸せだったかなあ……」
 本当のことを言えば、ただ楽な生活をしたいが為だけに母は榛原さんとの結婚を承諾したんじゃないかと、ずっと胸の内では疑っていた。だからわたしは彼らの生活には一切係わることをしないでこれまでやってきたのである。けれど。今日見た母の少しも老け込んでいないうつくしい死顔だとか、最近撮られたばかりだという榛原さんの幸福に満ち溢れた笑顔の写真だとか、それから、あの黄色い髪の男の子のたくさん泣いたであろう涙の跡だとか。そういうのを目にすると。母はあの家でちゃんと妻として母として幸せに暮らしていたんじゃないかと、そう認めなければいけないような気になってくるのだった。
「なんだかねえ……」
祖母が頬に手を当て呟いた。「バナナが食べたくて仕方ないんだよね、昨日から。普段そんなこと思ったこともなかったのにねえ」
「……え」
 何を言い出すかと思えばそんなこと。思わず笑ってしまった。鮮やかな色の頭がまだ目の前をちらついているようだった。
「わたしも」
腕時計を見た。帰り道に通るスーパーはまだ開いている時間であった。そこでバナナを買って帰ろうと提案すると、
「ああ、そりゃいいねえ」
祖母は顔をしわくちゃにして微笑みうんうんと頷いた。

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