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 2.
だって、可愛いじゃないか

 グラスの中の氷が鳴った。からんと。筒のように縦長のグラスは、たくさんの水滴を身に纏っている。人差し指でつうっと撫でると今朝塗ったばかりのマニキュアがぼんやり映った。淡いオレンジ色に小さな白いドットを僅かに散らした。
 カウンターの向こうでは白服の女性がシェイカーを振っている。痩せた、背丈の高い、どことなく中性的なひとであった。
 小さなショットバー。カクテルが美味しいことで有名なお店なのだけれど、先ほど食べたパスタも結構いけていた。
「小春は?」
「え?」
 隣の男の唐突な質問に戸惑った。
「お母さんの葬儀で。泣いた?」
「そりゃ、ね」
お母さんだもの。言って、見つめていたグラスから顔を上げると綺麗な切れ長の目と視線が合った。少し驚いた顔。
「そうか、泣いたのか」
「何よ、その意外そうな声は。母親が死んでも泣かないような女に見えるわけ?」
「いやいや」
 ふざけた調子で首を横に振る。木崎克己きざきかつみはいつもこんな感じだ。ふざけたりおどけたり、でも芯のところでは結構真面目。大学時代からずっと変わらない。克己は空になったグラスを手にジントニックを注文した。それからチーズの盛り合わせも。チーズが好きなのは克己ではなくわたしだ。白服の女性の唇がありがとうございますと鷹揚な感じに動いた。
「見たかったな。小春の泣いたとこ」
 克己は一ヶ月半の海外出張から帰って来たばかりだった。わたしの母の葬儀に出られなかったことをとても気にしていた。
「僕はまだ見たことないからな。小春の涙」
「あれ? そうだっけ?」
「ないよ。全く」
「泣くような出来事がなかったからじゃない? 例えば、克己の浮気、とか?」
 耳許で囁くように言うと、くしゃっと顔を崩して笑った。
「僕の浮気くらいで小春が泣くかなあ」
大袈裟に首を傾げて見せる。
「失礼ね。泣くわよ。泣いて怒って暴れて大変な修羅場になるんだからね。余程の覚悟がないと、できないわよ?」
「ふーん。じゃあ、今度試してみよう」
 ぶん、と。腕に拳を当ててやった。
 克己とは大学時代に知り合った。二歳年上の彼が大学を卒業して暫く経った頃、突然わたしの家に電話をかけてきたのである。携帯電話の番号さえ教え合わないような、そんな程度の間柄だったのに、克己はその電話で食事に行こうと誘ってきた。初任給が出たから奢るよ、と。それ以来のつき合いになる。
 わたしの膝からジージーという震動音がしていた。膝に乗せたヌメ皮の鞄が震えている。携帯電話を手に取り見ると、自宅からだった。背の高いスツールから脚を下ろす。
「ごめん。家から。ちょっと話して来る」
「ああ」
 祖母とふたりで暮らしていることを知っている克己は、少し心配そうな顔で頷いた。

 
 電話に出ると、祖母は、
『大事な話があるんだよ。今から帰って来られないかい?』
そう言った。わたしが家を出るときに祖母は出かけていたから、いま克己と一緒にいることは知らない。
「今から? 何かあったの?」
『だから。大事な話が』
「何? 今言えないの?」
『ちゃんと会って話した方がね、いいと思うんだよ』
 考え込んでいると、
『あれ。ひょっとして木崎さんと一緒なのかい? 出張から帰って来たの?』
そう訊かれ、
「実はそうなの」
こちらも正直に答えた。
 久しぶりのデートなのだから邪魔して欲しくないと遠回しにでも伝えたかったのでそういう口ぶりで言った。
 祖母は黙り込んだ。電話での沈黙は辛い。こちらのほうが口を開かなければいけない羽目になる。
「おばあちゃん? 明日じゃダメなの?」
『今夜のうちに話しといたほうがいいと思うんだけどねえ』
 えらく頑固だなと思った。ここまで祖母が退かないのも珍しい。仕方がないと溜め息を落とした。
「じゃあ、帰るわよ。ここからだと四十分くらいかかるけど、いい?」
『ああ、いいよ。ごめんねえ。木崎さんにもよく謝っといておくれよ』
 電話を鞄に仕舞っていると急に不安が押し寄せてきた。大事な話とはいったい何なのであろうか。父のことだろうか。母のことだろうか。どちらにしてもあまりいい話ではないような気がして忽ち心臓のあたりが冷たくなった。


「何、これ。どういうこと」
 黄色い髪のオトコノコがいた。
 我が家のリビングの床に。
 ちゃんとソファがあるというのにどういう魂胆なのかふたりしてフローリングの床の上、正座している。乞うような四つの目。
「どうして」
気の抜けたハリのない声しか出なかった。
 玄関の三和土にバカでかいナイキのシューズを見かけたときから嫌な予感はあったのだ。今夜の大事な話が何であるのかも、すぐに見当がついた。
「どうしてこの子がここにいるの」
 失礼を承知で指差した。少年のほうは見ないで祖母の顔にばかり視線を当てていた。祖母はおどおどした仕草で口を開く。
「ここでね、一緒に暮らさないかって、今日、悠季ゆうきの家にね、話に言ったんだよ」
「はあ?」
 悠季。悠季って。
 一瞬の後、ああ、この男の子の名前だったと思い出す。それにしても祖母の口からこの子の名前が出てくると、しかも呼び捨てだったりすると、途轍もない違和感を覚えずにはいられない。いつの間にそんな仲になったのだろう。
「だって、この子大変じゃないか。小春だって、知ってるだろう?」
 知っている。
 この少年の家には葬儀の後何度も足を運んだ。最初は祖母とふたりで出かけていたが、行く度傷ついて泣く祖母の顔を見るのが嫌で、三回目からはわたしひとりで行き全ての交渉ごとをこなしていった。向こうが弁護士をつけてきたのでこちらもなけなしのお金をはたいて弁護士を雇った。別にそこまでする必要もなかったのだけれど、何というか、まあ、負けたくなかったのだ。
 母と榛原さんは籍を入れていなかったので、まずは母の遺骨の問題が浮上した。向こうはとにかくうちの墓に入れるわけにはいかないから持ち帰ってくれの一点張りだった。葬儀の費用も半分出せと言ってきた。言っているのは無論例の喫煙コーナーにいた三人だ。結局話し合いの末、遺骨はうちで引き取るが式の費用は一切出さないということでケリがついた。相手は相当不満そうであった。ふざけんなと思った。実際葬儀の費用を誰がどう負担しようが彼らの懐は痛くも痒くもないはずなのである。それをまあぐだぐだとよく文句ばかり言えるなと呆れた。
 ただ母に対してだけは少し申し訳なく思った。榛原さんと同じお墓に遺骨を納めてあげられなかった。きっといまごろはあの世から榛原さんとふたり、呆然と下界の醜い争いを見下ろしていることであろう。
 そんなひと達が相手なのだから、母の生命保険の問題でも相当揉めた。遺骨は引き取れと言っておいて保険金は欲しがるなんて。神経を疑う。
「四十九日も済まないうちに。みっともないねえ……」
 祖母は肩を落としてそう言ったが、全くその通りだと思った。
 そうやって足を運ぶうち、意外な事実が耳に入ってきた。
 養子縁組はきちんとなされているものの、少年は榛原さんの実の子ではないというのである。前の奥さんとは死別したと聞いていた。けれど奥さんのほうが再婚だとは知らなかった。少年はその奥さんの連れ子だったのだそうだ。母と榛原さんと少年は、全く血の繋がらない赤の他人三人で、何年も暮らしていたということになる。
 どうりで。榛原家の三人組が躍起になるはずだと思った。おそらくは血の繋がらない少年に、榛原さんの財産を独り占めさせたくないのであろう。けれど榛原さんが一代で築き上げた財産だ。日本の法律では、三人には何の権利もないはずである。
 だが。
 気づくと三人のうちの下の弟、つまりは三男が、家族ごと少年の家に転がり込んできていた。さほど大きくない会社ではあったが、それでも社長の持ち物らしい豪邸だ。最初から目をつけていたに違いなかった。
「悠季くんはまだ高校生だからね。ひとりにさせるわけにはいかないでしょう?」
 非難めいた目を向けると、言い訳がましく三男は言った。親切心がないことはその顔に浮かぶ薄ら笑いでわかるのに。よく言うなと内心毒吐いていた。少年に対し優しい言葉をかけているところなどついぞ見たこともなかったのだ。
 わたしはふと思い至って口を開いた。
「あんた」
 黄色い髪のオトコノコがぱっと顔を上げた。あんたと呼ばれたことが気に入らなかったのか、怒ったような目を向けてきた。
「あんなひとたち家に残してのこのこ出てきたの」
 少年の顔に微かな戸惑いが滲む。
「……はい」
「ダメよ。家、乗っ取られちゃうよ」
「……」
「ちゃんとした賃貸契約結ばないと。それも定期借家契約にしないとね。じゃないと─── 」
そこまで言ったところで、らんらんと光る目でこちらを見ている祖母に気がつきはっとした。やばい。こんなことに首を突っ込んだりしたらまた話がややこしくなる。こほこほとわざとらしく咳払いをし、
「まあ、わたしには関係ないけど……」
などと言葉を濁してから、祖母のほうを向いた。「ちょっと。おばあちゃんこっち来て」
手招きしてから先に廊下へと出た。
 祖母は明らかにこちらの機嫌を窺うような顔をして現れた。普段はそんなことないのに、しょぼくれた腰の曲がったいまにも倒れそうな元気のない老人を演じている。離れた部屋に引っ張り込むと、さらに具合の悪そうな顔になった。
「ちょっと。そんな顔してもダメよ。いったいどういうつもりなの?」
 小さな声で、でも厳しい口調で言った。祖母は不満そうに唇を尖らせた。
「だって」
 だって、可哀相じゃないか。
 きっとそう言うだろうと思っていた。実際彼のいまの状況は同情に値している。母親には早くに死なれ、継父にも死なれ、齢十六にして身寄りが全くないうえ、残された継父の兄弟があんなに強欲じゃあねえと、それはわたしも思うのだ。
 けれど。だからと言ってどうして彼がうちで暮らさなければならないのか。全く納得がいかない。というか。あの男の子はそれでいいのか?
「だって、何よ?」
「だって、可愛いじゃないか」
「は?」
「可愛いだろう、あの子?」
 絶句した。
 か。
「可愛い?」
「うん」
「可愛いの? あの黄色い頭が?」
 祖母の目が怪訝に眇められた。
「小春。あんたにはあの子が可愛く見えないのかい?」
 目を剥いて首を横に振って見せた。
「見えないわよ、ぜんっぜん見えないっ」
 さっき見た彼の耳たぶにはいくつもピアスが並んでいた。鈍い色のモノから緑色に光るモノまでそりゃたくさん。
「あの子、ちょっと、不良が入ってるんじゃないのかな」
「小春、古いね」
「ふ、古い?」
「イマドキ、髪の色が黄色だからって、耳にたくさんイヤリングをしてるからって、不良だなんて、あんた、そりゃ、ないよ? おばさんだねえ……」
 お。おばあちゃん?
 眩暈がした。
「じゃ、じゃあ」
気を取り直し厳然とした態度で訊いた。「本気で言ってるの?」
「言ってるよ。日曜日には荷物だって運ばれて来るんだから」
「荷物……」
 そんな勝手な、と思ったがもう怒る気力は湧いてこなかった。
「て、言ってもねえ。あれだよ。机とかベッドとか、そんくらいだよ。何て言うかねえ、吝嗇だから、あの家のひとたち。あれこれ持ち出すのは許さない、なあんて言うんだよ。自分達が買ったものでもないのにねえ」
「だけど、おばあちゃん、心配じゃないの?」
「心配?」
 祖母がきょとんとした顔になる。
 年頃の娘がいるのに、あんな男の子を一緒に住まわせるなんて、心配にならないの?
 言おうとしていた言葉はさすがに恥ずかしくて口には出せなかった。十六歳の男の子から見た二十四歳の女など、もはやおばさんの域に達している。
「別に。いい。何でもない」
小さく言い俯いた。
 天井のオレンジ色の灯りに照らされた古い床の上、自分の足が目に映る。この家は祖父が三十年近く前に建てた洋館だ。当時は珍しかった輸入住宅で、畳の部屋はひとつしかない。それもトクベツに造ってもらったらしかった。
「おじいさんはねえ、そりゃハイカラなひとだったんだよ」
が祖母の口癖だ。
 考えていた。
 あの子は母によく似ている。
 だから祖母はあの子と一緒に暮らしたいなどと考えたのではないだろうか。でなければ、血の繋がらない赤の他人を、祖父の残したこの家に住まわせようなんて思いつくはずがないのだ。そう考えれば納得がいく。
 そしてその結論は、言いようのない寂しさをわたしの心に刻み込んだ。
 わたしだけじゃダメなんだ─── 。
「……る?」
「え?」
「小春、どうしたんだよ、急に黙り込んじゃって」
「何でもないよ。っていうかさ、おばあちゃん。引っ越しの手配までしてるってことは、もう全部決めてたってことでしょ? 相談じゃなくて決定事項? それなのにわざわざデート中のわたしを呼び戻す必要なんかあったのかな?」
 棘のある声と言い方になっていた。
「小春……」
 あからさまにショックを受けた祖母の顔を目の当たりにすると胸がちくりと痛んだが、不貞腐れた顔を元に戻すことは難しかった。
 こんこんと。遠慮がちなノックの音がした。
「はい」
 わざと強気な声で返事をした。
 ドアが開いて少年が入ってくる。黄色い前髪の隙間から見える真っ黒な瞳。何でこの子は日本人なのにこんな髪の色をしてるんだと、関係ないことに苛ついた。両腕を組み睨みつけると、向こうも負けじと見返してきた。瞳には剣呑な光。ちっとも可愛くなんかないっ。
「何よ?」
「あの、俺、もう向こうに戻りますから。あんまりおばあちゃんのこと責めないでください」
 男の子にしては少し高い声だった。まだ声変わりしてそれほど年月が経っていないかのような。
「悠季、何言ってるんだよ。今頃戻ったりしても、きっとあの家には入れてもらえないよ」
 少年はいまにも泣き出しそうな祖母に笑いかける。
「いいよ、それでも。俺、友達たくさんいるから、そっちに泊めてもらえばいいし」
「そんなの毎日ってわけにはいかないだろう? そういうのがね、そのうち路上のひとになっちゃうんだよ。そんなこと言わないでさ、ここにいればいいよ、ね、小春?」
 祖母はもう泣き出す寸前の顔になっていた。卑怯者め。
「もういいわよ。好きにすれば?」
言うなり、踵を返し部屋を出た。祖母の声が追いかけてくる。
「いいの? ねえ、いいんだね、小春?」
「いいって言ってるでしょう」
 ヒステリックに返しどすどすと音を立てて階段を上った。
 何だかこれではわたしひとりが悪者みたいじゃないか。冗談じゃない。非常識なのは向こうのほうだ。そう思う一方で、もっと優しい言い方をしてあげなければあの子もこれから先居辛いだろうとも思うのだった。でも。一度見せてしまった反抗的な態度はどうにも引っ込みがつかなかった。
 それにしても。これから先ずっとこんなイラついた気持ちで暮らしていかなければならないのだろうか。いつまで? あの悠季って子が高校を卒業するまで? もしくは成人するまで?
 想像しただけでうんざりしていた。

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