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 5.
ごめんね

 分離不安症候群を題材に書いた小説が書籍となって刊行されたのは、今年の春のことだった。
 分離不安症候群とは、飼い犬によくみられる症状で、普段飼い主といっしょにいるときは全く問題を起こさない良い子の犬が、飼い主が外出した途端、過剰に吠える、モノを壊す、トイレではない場所でおしっこをするなどの、飼い主を困らせる行いを繰り返す、飼い主と離れたときにだけ見られる問題行動のことなのである。
 わたしはそれをひとりの女性の行動になぞらえ小説を書いた。同棲中の恋人が外出する度家の中で奇怪な行いを繰り返す女性。その行動は日を追うごとにエスカレートし、やがてふたりの仲はおかしくなり、彼女はどんどん衰弱していくという、そういう話であった。
── 分離不安症候群?
 天井の木目の形が、おどろおどろしい魔物の顔に見える。十代の半ばこの家へ来た頃は、あれが怖くてたまらなかった。あの頃わたしは、自分が何モノかに呪われているのではないかという妄想を夜な夜な膨らませ、父に捨てられたのはその所為だと、決して自分が悪いわけではないのだと、そう言い聞かせることで、どうにか平静さを保っていた。父がわたしと母を置いてどこかへ行ってしまったのは、呪いの所為だとか。天井に映る魔物の所為だとか。現実を見もしないで、目に見えない他者に責任をなすりつけては、自分を慰めていた。
 身体を横向きにし、瞼を閉じた。寝つけないでいた。
 やつは、わたしが書いたあの小説を読んだのであろうか。
 まさか。
 あれは十代の男のコが読むようなシロモノではない。
 それに、わたしの症状は分離不安などではないと、それは誓って断言できる。わたしは祖母が出かけたからといって、不安に苛まれるようなことにはならない。
 けれど、祖母があの黄色い頭を、わたしなんかよりずっと必要とするようになったらどうしようと、足元がぐらつくような不安を覚えたことは確かであった。黄色い頭が初めて我が家に遣って来た夜などは、まさしくこの部屋でひとり、打ち消しても打ち消しても消えようとしない強迫観念と葛藤していた。
 わたしは、わたしと母を放り出し失踪した父も、わたしと祖母との生活より榛原さんとの暮らしを選んだ母も、ずっと許せないでいたのである。十代特有の潔癖さでもって、両親を憎んでいたといってもよかった。
 どこへとも知れず勝手にいなくなった父はともかくとして。いっしょに暮らそうと、母は何度も言ってくれていたのに。榛原家に遊びに来ないかと、何かにつけ電話をかけてくれていた時期もあったのに。そんなとき、大抵わたしは、最後まで話を聞くこともせず電話を切るのが常だった。娘に嫌われていることに気づいた母が思い切り傷つけばいいと、平気でそんなことを考えていた。
 ひょっとすると母は、わたしの書いた小説を購入してくれていたのではないだろうか、と思う。いや、ひょっとしなくとも、その可能性は十二分にあった。であるとすれば、やつの目に、分離不安症候群の文字が触れる機会はあったはずだ。書籍の帯に、分離不安症候群の文字は大きく載っていたのだから。
 もう、母に訊ねることはできないのだと、思った。
 うつくしかった母の死に顔が、閉じた瞼の裏をちらちら掠める。
 母が亡くなってから以降、自分のとった行動を後悔しない日はなかった。わたしが母に負わせた傷の痛みが、いまさらながら全て自分に返ってきているようで、母のことを考えるたび息ができないような胸苦しさを覚える。それはさざなみのように静かに細かに、けれど絶え間なく打ち寄せ、わたしの全身を満たしていく。
 呼吸が、苦しい。気づくと涙が溢れていた。
 わたしは声を押し殺し、身体を丸め、泣いた。


 翌日目を覚ますと、もう黄色い頭はいなかった。
「おはよ……」
 昨日の今日で顔を合わせづらいわたしは、何となく小さな声で、祖母の背中に声をかけた。
「ああ。起きた?」
 祖母はいつもと変わらない顔を向ける。にこやかな笑顔。わたしは自分でも驚くくらいの深い安堵を覚え、身体中の力が抜けるのを自覚した。
「ご飯、食べるかい?」
「うん」
 割烹着を着た祖母の背中を見つめる。鼻唄はない。
「おばあちゃん」
「なんだい?」
「昨日のひと、なんだけど」
 祖母が顔だけをこちらに向けた。問いかけるように見つめられ、ふっと視線を逸らせていた。
「昨日のひとね」
「うん。津雲つくもさんのことかい?」
「津雲さんっていうの。そう……」
 そういえば。挨拶を交わした折に、そう名乗っていたかもしれない。ひどく動揺していたからか、記憶になかった。
「その、津雲さんは、奥さんは、いないの?」
 祖母はお味噌汁をわたしの前に置くと、
「三年前に亡くなられたそうだよ」
 真面目な顔で答えた。
「そうなんだ」
「何を心配してるんだい、このコは」
 祖母は、やだねえ、と声を立てて笑った。
「だって、気になるじゃない」
「そういうもんかねえ」
 祖母はわたしの前に座ると、
「俳句はね」
と言った。「亡くなった奥さんの趣味だったんだってさ」
 へえ、と相槌を打ちながら、祖母の顔を見た。優しい顔で笑いながら喋る祖母の顔はやはりいきいきとしていて、ああ、祖母を最近輝かせていたのは、やっぱりその津雲さんというひとの存在なんだなと、ここへきてようやく認めることができた。
「奥さんが生きてるときはねえ、何で俳句なんかに夢中になってるんだろうって、奥さんが句会やなんかで出かけるたびにむっとしてたそうなんだけど。生きてる間に、いっしょに楽しんであげてればよかったって。いまになって思うそうだよ」
「……ふうん」
 祖母はじっとこちらを見て言った。
「生きてる間にああしとけばよかったこうしとけばよかったって、後になって思ってもどうにもならないもんなんだよねえ」
「……何よ」
 唇に当てていたお椀を僅かにずらして訊く。
「何にも」
首を横に振った。「だけど、あんたも悠季もあれだね。身内の縁が嫌になるくらい薄いよねえ。わたしなんかはもうこの歳だからあれだけど。あんたや悠季を見てると、ほんと気の毒でしようがないよ」
 悠季。まっ黄色の、バナナみたいな髪。
 おかしな話ではあるけれど。あのコがうちへ引っ越してきたことにより、我が家の仏壇はいきなり賑やかになった。並ぶ位牌の数が、一気に増えた。それはけれど、確かに悲しいことでもあった。祖母の言うとおりだ。まだ十六歳なのに── 。
「ごめんね。おばあちゃん」
「へ?」
「昨日、きつい言い方して。別に男のひととデートしたって構わないのにね」
「あらまっ」
 祖母が目をまん丸にしてみせた。
「何よ」
「あんたが素直に謝るなんてめずらしいね。雪でも降るんじゃないのかねえ」
「……ひど」
 じろりと睨むと、ふふふ、と祖母は含み笑いを洩らした。
「昨日、あのコに怒られちゃったんだよね」
 濃い黄色の玉子焼きにはなめたけが入っていた。少し甘い味。白いご飯といっしょに食べるととてもおいしい。
「あのコ? 悠季にかい?」
「うん。わたしのおばあちゃんに対する態度が気に入らなかったみたい。孫は恋人の代わりにはなれない、なんて言うのよ」
「そんなこと言ったの。悠季が」
祖母はへえーと驚いた顔をした。「あんたと悠季がそんなことを言い合える間柄になってたなんて、ちっとも知らなかったねえ」
「そんな間柄なんかじゃないわよ。あたしもいきなり怒られてびっくりしたんだから。あのコ、おばあちゃんんのこと、すごく好き、みたいだよ。で、あたしのことが嫌いなのね。顔、見てたらよくわかるわ」
「嫌いってことはないだろうよ」
祖母はそう言ってから、ははあ、と、何か合点がいったように頷いた。「それであのコ、今朝、元気がなかったんだねえ」
「え?」
 祖母は右手を頬に当て、遠くを見る目をして言った。
「何だかねえ。思い悩んでるみたいな、青じろーい顔で、ふらふら出て行ったよ」
 思わず、箸が止まる。
「マジで?」
「マジだよぅ」
「ふうん」
 絶対、嘘。
「ちゃんと今日、うちに帰ってくればいいけどねえ」
「また、そんな」
 祖母が持ち前の茶目っ気でもって、わざと言っているのはわかった。バカバカしい。
 けれど、何だか胸がもやもやする。
「……帰って来る、かな」
 ぽつり呟くと、
「おいしい夕餉と陽なたの匂いのする布団。これがある家には、絶対帰ってくるもんなんだけどねえ」
「家出したら、そんなの、わかんないじゃん」
「わかるさ。そういうのはね、家からたつ匂いでわかるもんなんだよ」
「まさか」
ふふ、と笑ってお茶を飲んだ。そういえば、母はあまり家事が得意な人ではなかった。だから父はこの家から離れて行ったのであろうか。いやそんなことはないだろう。母は苦手なりに毎日ご飯をつくり、布団も洗濯モノもきちんと陽の光に当てていたはずだ。
「ねえ、おばあちゃん」
「何だい?」
「あのコの布団はおばあちゃんが干してあげてるの?」
「そうだよ」
 ということは。祖母はあのコの部屋に常時入っているということになる。
 ふと、顔を上げ、訊ねてみる。
「あのさ、おばあちゃん、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
「何だい?」
「……」
「何だよ」
「あのコの、……好きな食べ物って、何だっけ?」


 牛と豚の合びき肉の入ったトレイのラップを剥がし、ボウルに移す。卵、牛乳、パン粉、飴色に炒めた玉ねぎを入れ、塩、こしょう、ナツメグを振る。
「悠季はハンバーグが好きだって言ってたねえ」
 本当は、違うことを訊きたかったのに。
── あのコの部屋に、あたしの書いた小説、ある?
 訊けなかった。訊いても仕方ない気もしていた。
 どれが卵でどれがパン粉であったのかわからなくなるくらいしつこく練り、混ぜ合わせる。生々しいほどに赤かったミンチが薄いピンク色になっていく。たっぷりの粘り気が出てきたところでひと塊救い上げ、サラダ油を塗った手で丸め、楕円形に整え、最後に両掌でぶつけ合い中の空気を抜いてしまう。ミンチの量が多かったのか、ずい分大き目の種になった。焼いているうちに小さくなるからまあ、いいか。
 あのコが帰ってきてから焼き始めるつもりでいるので、とりあえず、ホーローのバットに並べておこう。白い長方形のバットに四つ、ハンバーグの種が横たわる。あのコがふたつでわたしとおばあちゃんがひとつずつ。おばあちゃんには悪いけれど、今日のメニューは洋食中心だ。
 手を石鹸で洗い、コンロにかけておいたル・クルーゼの鍋の蓋を開け湯気をよけつつ中を覗いた。野菜がたっぷり入ったトマト味のスープ。ハンバーグにかけるデミグラスソースがこってりしているから、こちらはあっさり目の味にととのえた。野菜がまだあまりくたっとしていない。もう少し火にかけておいたほうがよさそうだ。そう思い、僅かに蓋をずらして閉じた。
 テーブルの隅で携帯電話が震えている。
 克己からだった。題名は、”また出張“。
「またぁ?」
 こちらも思わず声に出して言っていた。
── 今度は長崎。カステラでも買ってくるかな。(ウインクする絵文字)
 ふふ、と。笑いながら、返事を打った。
 克己は誰でも一度は耳にしたことのある有名な総合商社に勤務している。大学生が選ぶ就職先人気企業ランキングなどでも必ず上位に入る一流の商社だ。転勤の多い会社だと聞いていたが、入社してからまだ一度も今の食品関係の部署より異動したことがなかった。現在は本社勤務。けれどいつどこへ転勤となるかは全くわからないのだそうである。
 もし転勤となり今の土地を離れなくてはいけなくなった場合、克己はどうするつもりなのであろうか。素直に転勤先へ赴くのか。或いは、もう会社を辞めてしまって、実家の仕事を手伝うことにするのか。きちんと訊ねたことはなかった。
 克己の実家が、全国展開する大手スーパーの経営者一族の、しかも本家であることを知ったのは、つき合い始めて一年以上も経ってからのことであった。本当に、わたしは何も知らなかったのである。声も出ないほど驚くわたしをよそに克己は、
「まあ、同じ大学のやつでも知らない人間は結構いたからなあ」
と、呑気に笑った。
 克己は、姉ひとり兄ふたりの四人兄弟の末っ子である。だから、自分は跡を継ぐ気など全然ないし、体制にも全く影響はない、と言ってはいたけれど。そうもいかないだろうと、それはわたしでなくとも誰でも思うことである。
 それに。
 一度だけ会ったことのある克己の父親の口ぶりからも、実家の仕事を手伝わせるつもりでいることは明白であった。
「三男坊ですからね、まあ、いまは好きにさせておりますがいずれは……」
 今年の夏、ふたりで映画を見た帰りに食事をしようと立ち寄った店で、偶然克己の父親と出会った。いや、違う。偶然会った風を克己も克己の父親も装ってはいたけれど、これは仕組んだな、とすぐにわかった。気づかないふりをするのが大変なほど、それはわざとらしい偶然であった。
「ところで、小春さんのお父さんは、お仕事は、何を?」
 克己から何も聞かされていなかったのか、或いは故意にか。わたしには判然としなかったのだが、克己がトイレに立った隙を見計らったように、克己の父親はわたしにそれを訊ねた。
「父はわたしが高校生のときに亡くなりました」
 父が姿を消して以降、さほど親しくない人間に対しては、一貫してその答えを返すように心がけている。その時わたしはすでに克己から、結婚を考えてほしいとプロポーズめいたことを言われ始めていた。にもかかわらず、あえてその答えを克己の父親に対し口にしたのは、どうしてだったのであろうか。
 何千人もの人間を雇う会社の経営者が、自分の息子の恋人の家柄を気にするのは当たり前のことである。いや普通の家庭であっても当然のことであろうと思う。
 けれど、自分の息子が席を立った隙を見計らって訊ねるという、おそらくはその質問がたいそう安っぽくナンセンスであることを自覚していながら、なお訊ねずにはいられない、そして、その自分の品のなさを他人のわたしに知られるのは構わなくとも自分の息子には知られたくないと思う、その心根の貧しさに、目の前のいかにも温厚そうな、けれど経営者然とした壮年の男に対し、わたしは微かな軽蔑を覚えていたのだ。
 克己のことを好きなのに。克己をうしなったら生きていけないとさえ思っているのに。
 わたしと克己が結婚することはおそらくはないだろうと、あの父親に会って以降、わたしのなかで、その予感は日々少しずつ大きくなり始めている。
 短い廊下を走る祖母の足音が聞こえ、わたしははっと顔を上げた。
「おかえりー、悠季」
弾むような祖母の声がドア越しに聞こえる。「あのね、悠季。今日は小春があんたの為にハンバーグを作ってくれてるんだよー。これがね、また、おいしそうで── 」
 おばあちゃんってば。そういうことはわざわざ口に出して言わなくていいんだよ。
 わたしは唇を尖らせて、携帯電話をエプロンのポケットに仕舞うと、大き目のフライパンを手に取り火にかけた。
 
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