■HOME ■NOVEL ■KIIRO 4. 恋する瞳だ 駅の時計はもう十時を回っていた。改札を抜け、家路を辿る。歩く足取りがいつもより重いのが自分でもおかしいくらいよくわかる。 帰りづらい。というよりは、帰りたくない。あの黄色い頭と顔を合わせたくなんかなかった。 何だってやつは、高校生の分際で、あのような場所にいたのであろうか。しかもよりによってあの時間に。確か、今日は“カラオケ”が彼の予定ではなかったか。嘘つきめ。祖母が夜留守なのをいいことに、あのような場所にしけこんで時間を潰すとは。 「しかしほんと派手な色だね、あれは。小春の言うとおりだ。金色じゃなくて、黄色だった。しかもピアスがまたすごかったな」 黄色い頭とは口も利かずに別れた。こっちも相当驚いた顔を見せていたに違いないが、それにしても向こうだってかなりのものだった。いつもは感情を表に出さないやつの、あんなまあるい目玉は初めて見た。 「そんな落ち込むことないよ」 黄色い頭と別れたのち入ったタイ料理の店で、やけににやついた顔で克己は言った。「イマドキは当たり前だよ、高校生でラブホテルなんてさ。僕らの頃だってフツーにいたよ。というか、場所がないんじゃないの、そういうことする、さ」 ぷっと頬が膨らんだ。 「克己も行ってたの、高校生の頃」 「あ、いや」 いつもはどちらかといえば好きなパクチーの匂いが今日は何だか文字通り鼻につく。 「ちがうの。そういうことじゃないの。いっしょに暮らしてる人間とあんな場所で出くわすなんて、気まずいじゃない? 家でどんな顔をすればいいのかわかんないでいるのよ、さっきから」 相手の女のコは同級生、なのだろうか。顔はほとんど見ていないが、やけに長い睫とむっちりとした太腿だけが、妙に記憶に残っている。 真っ白な太腿。 かあっと。頬が赤くなった。 白い太腿と黄色い髪が、いやらしく交錯しようとする映像を、慌てて止めた。こちらがこんな風に、いやが上にも想像してしまうのと同じことを、今頃向こうだってあれこれ妄想しているに違いないのだ。そう思うとたまらない。黄色い頭をがりがりと掻き毟り、先ほどの記憶を全部あの頭から強引に引っ張り出してやりたい。だけどそんなこと、できるわけもない。全然そんな間柄でもないのに。 あー。いやだいやだいやだ。 顔を合わせづらい。合わせたくない。 落とした自分の溜め息が何やらパクチー臭いのが、わかる。 後ろから。足音が聞こえる。さっきからずっとだ。 緑色のタクシーと、自動二輪が一台ずつ。すぐ左横を通り過ぎていった。 このあたりは外灯や、小さな商店やコンビニの明かりのお陰で通り自体は決して暗くはないのだけれど。やはりこれくらいの時間になると人通りは途絶えてしまう。後ろを知らない誰かに歩かれるのは好きではない。先ほどから故意に速度を落としているのに。なかなか追い越してくれない。もしかすると、意識的に追い越せずにいるのかもしれない。 足を止め、わざとらしく鞄を探り携帯電話を取り出した。かける相手などいないのだけれど、後ろの人間に追い越す機会を与えたかった。 ブーツの爪先を見ながら携帯電話を耳に当てた。その視線の先に。すっと映るばかでかいナイキのスニーカー。 思わず、 「あ」 と目線を上げていた。 相手も立ち止まり、こちらを見た。数秒間見つめ合う。相手の顔がいまにも泣き出しそうな母の顔に見えて、狼狽えた。 「お、おかえりなさい」 「……ただいま」 聞こえるか聞こえないかの、蚊の鳴くような小さな声。 「いま、帰り?」 無理矢理作った笑顔で訊く。こちらのほうが年上だから、これくらいはしないと、いけない。 「はい」 「そう」 「……」 携帯電話を耳から遠ざけぱたりと閉じた。 「か、帰ろうか」 「はい」 どうにも仕方ないので、肩を並べ、歩き始めた。息を呑むこともできないほど、互いを意識する気まずい雰囲気のなか、少しずつ外灯の数が減り、薄暗くなっていく道を、ふたりで歩いた。手にした携帯電話の遣り場に困っていた。腕を動かすことさえしにくい空気、なのである。埒もなく悩んだ末、右手に持ったままでいることにした。 何を話せばよいのかわからなかった。わたしと隣を歩く男のコの間に共通の話題なんてあるはずがない。いや。ないことはないな、と思いつく。先ほど使用したラブホテルの居心地について話してみる、というのはどうだろう。案外のりのりで喋り出したりして。なんて。そんなこと。あるはずないか。 それにしても、と。隣の学生服に視線をじろりと這わせてみる。詰めた襟の下まできっちりと留められたボタン。さっきはあーんなにお洒落に着崩していたくせに。耳に並ぶピアスもすっかり姿を消している。頭の色さえ黄色でなければ、真面目な高校生に見えなくもない格好だ。 ああ。ようやく家が見えてきた。そう思い、ほっと顔を上げたわたしは、ぼんやりと目に映る光景に、再び足を止めていた。 テールランプを赤く点すタクシーが一台、我が家の前に停まっていた。後部座席の扉を開けたまま待つタクシーの横で、祖母と、ひとりの初老の男性が立ち話をしているのが見えた。 「え。おばあちゃん?」 思わず声に出して言っていた。祖母が男性と話している姿など、近所のおじさん連中を除いては、ついぞ見たことのないわたしであった。なぜだか胸が、大きく跳ねていた。 やや間を空けて、 「……ですね」 隣から、至極平坦な返事があったが、言葉を返す余裕はなかった。 呆然と、和服に身を包んだ祖母を見つめた。千草色の京友禅。あの着物は祖母の一番のお気に入りだ。そういえば出かけるとき、祖母がどんな格好をしていたのか、どんな顔をしていたのか、わたしはきちんと見ていなかった。二階から。いってらっしゃいと声をかけただけだった。 男のひとと一緒だったなんて。知らなかった。 共に歌舞伎を鑑賞した相手に家まで送ってもらい別れ際挨拶程度に立ち話をしているだけだ。そう。何もここまで動揺する必要もないのではないかと思うのだけれど。胸が騒いだ。いつもと様子が違うと、女の勘が働いていた。 祖母がはにかんだような笑顔を見せていたからかもしれない。十代の娘が見せるような。こちらの胸さえも跳ねるような。 まるで恋でもしているみたいだ。そう思ったとき。 「恋する瞳だ」 隣の男がぼそっと呟いた。 「やだね、小春。そんなんじゃないよ。ただのお友達だよ」 けらけらと笑い祖母は三人分のお茶を湯飲みに注いだ。光沢のある梅色の羊羹を白い陶器に乗せ、わたしと黄色い頭の前に置く。とらやの羊羹はわたしと祖母の大好物、なのである。これは一体誰が代金を支払って手に入れたものなのか。まさかさっき見た初老の男性か。卑しい考えが頭に浮かぶ。なかなか手をつけることができず、濃い梅色に見入っていると、 「いただきます」 隣の男が声を発した。 ── 恋する瞳だ。 じとっと睨みつけてやった。 この黄色い頭があんな台詞を吐いたりするから。こっちはさらに狼狽してしまったではないか。 あの後、結局祖母がこちらに気づき、わたしと黄色い頭は離れた場所から挨拶をした。ひょろひょろと背の高い痩せた男性は、祖母と同じくらいの年のころに、見えた。 黄色い頭は案外礼儀正しい。食べ方も上品だ。綺麗にひと口分だけ切り分けた羊羹をゆっくりと口に運ぶ。その際ぴんと伸ばした背筋は決して崩さない。猫をかぶっているからなのか。元々育ちが良いからなのかはわからないが、食べ方だけなら百点満点を上げてもいい。 「悠季は? お友達とカラオケ、楽しかったかい?」 ふ、と。同じタイミングで、わたしと黄色い頭の手の動きが止まった。でもそれも一瞬だ。 「はい。楽しかったです。久しぶりだったし」 「悠季はどんな歌を歌うんだい?」 「あ。えーと。そのときヒットしてる曲をテキトーに。今日はミスチルとか」 「へえ」 ミスチルの曲を祖母が知っているとは思えなかったけれど。わたしは黙って口を動かしていた。大好きなはずの和菓子特有の甘味が、今日は何だか喉につかえる。さっきはパクチーの匂いが気になって仕方なかったし。どうかしている。こういうのを厄日というのであろうか。 「小春は? 木崎さん、元気にしてたかい?」 また。隣の男とわたしの動きが同時に止まった。そうして、すぐに同じように湯飲みに手を伸ばしていた。 「うん。元気だったよ」 「何食べたの」 「タイ料理の店に行ったから。トムヤムクンとか、そういうの」 「へえ。タイ料理は辛いんだろう?」 「おばあちゃんは?」 「え?」 「おばあちゃん、晩ご飯は? 何食べたの?」 「お鮨をいただいたよ。銀座で食事なんて久しぶりだったからね、おいしかったよ」 いただいた。あの初老の男性にごちそうしてもらったと。そういうことなのであろうか。 何が自分をここまで動揺させているのかよくわからなかったけれど。わたしは明らかに平静さを欠いていた。 「ごちそうししてもらったの」 「え? そりゃ、まあねえ」 「デートじゃん、それ」 「ええ? そうなのかねえ……」 「デートだよ。楽しかったんでしょう?」 「ああ、そりゃあねえ」 祖母は怒られてしまった幼児みたいにぼそぼそ言うと、「ちょっと、着換えてくるかねえ」 立ち上がって行ってしまった。頬が。今朝見たときと同じく薔薇色に染まっていた。 ふん、と。漆のフォークを皿の上に放り投げた。 「ヨーチ」 唐突だった。隣の男が怒ったみたいな声で、 「ヨーチだね、あんた」 そう言ったのだ。 ヨーチ、が、ようちへ、そして更に幼稚へと変換されるまで、少々の時間をくった。きゅっと唇を噛んで、四分の一食べ残した羊羹を、見つめる。隣の男が、 「ごちそうさん」 言って、立ち上がった。 「待ちなさいよ」 無駄に強い負けん気が口を開かせた。 「どういう意味?」 「別に」 「どういう意味かって訊いてるの。ちゃんと答えなさいよ」 「だから。言葉どおりだよ」 「どうしてあんたにそんなこと言われなくちゃいけないの?」 声が静かな家に反響している。祖母に聞こえていたら嫌だなと思った。こんなみっともない自分を、祖母はとっくに承知してはいるだろうけれど、それでも改めて聞かれるのは嫌だった。 黄色い頭は何も言わず、ただこちらを見つめ返してくるばかりだ。重い沈黙が、つづく。 「じゃあ、言うけどさ」 一度は上げたお尻を再び椅子に乗せ、黄色い頭は言った。「おばあちゃん、楽しそうだったじゃん。歌舞伎観てご機嫌で帰ってきてさ。だからこっちはただ楽しかったの、って話聞いてあげれば、それでよかったんだよ。俺はそう思ったよ? なのに何であんたはあんな責めるようなことばっか言うわけ? 男のひとといっしょにいたから? 幸せそうな顔してたから? それって、あれでしょ。嫉妬ってやつでしょ? あんたって、もしかしてさ、── 分離不安症候群?」 わたしは大きく目を見開いた。 分離不安症候群。 かあっと。頭に血が上った。黄色い頭を睨みつけようと思うのに。わたしはおろおろと視線を逸らせていた。 「な、何言ってるの?」 「あんた、おばあちゃんを誰かに取られるのが怖いんでしょ。俺がここへ来たときもそうだったじゃん」 唇が。ぴくぴくと震えているのが自分でもわかった。悔しい。どうしてこんな黄色い頭をした八歳も年下の男に、精神分析の真似事をされなくてはいけないのだろう。 「……あんたには、わかんないわよ」 声がみっともなく揺れていた。ひどく狼狽えているこちらをバカにするかな、と思ったけれど。隣の男は真面目な声を返しただけだった。 「そりゃわかんないよ、俺にあんたの気持ちは。だからっておばあちゃん、傷つけるような真似、とりあえず俺の前ではしないでほしいんだけど」 おばあちゃん。 思わずぱっと顔を上げていた。 「あんたのおばあちゃんじゃないでしょう?」 目を合わせた黄色い頭は絶句していた。ほんの束の間見つめ合ったのち、呆れ顔になると、はあ、とひとつ、わざとらしい溜め息を落としてから言った。 「いいけど。でもおばあちゃんのコイジは邪魔しないほうがいいと思う。孫は恋人の代わりにはなれないんだから」 あんただって、そうでしょ? 黄色い頭は立ち上がると、皿を流しに下げ、水につけ、そうしてからキッチンを出て行った。 残されたわたしはひとり、四分の一残された羊羹の艶やかな梅色を、ただぼんやりと見つめていた。 ■BACK ■NEXT ■HOME ■NOVEL ■KIIRO |